第二十章(3) ホテル前
マルブール城での会談から二日経った。
東の山際が紅色に染まる頃、アルベリクは静かにホテルを出た。街は未だ目覚めておらず、暗い静寂に満ちている。
脇に目をやると、ホテルの前の馬留に一頭繋がれているのが見えた。前日にアルベリクが用意させたものだ。馬は既に起きていて、水桶の中に鼻を突っ込んで水を舐めている。
アルベリクは馬の首を撫で、親しげに叩く。それから、手綱と鞍を付け、尻の上に鞄を括り付けた。
出発の準備がいよいよ済んだというところで、背後から声が聞こえた。
「おはよう、アル」
聞き覚えのあるしわがれた声。アルベリクは振り向かずに答える。
「──テオか。おはよう。どうした、いつもこんなに早起きなのか?」
「見送りさ……」
彼は馬に近づき、その身体を覆う短く硬い毛を、手で撫でた。それから彼は、おずおずと遠慮がちにアルベリクを見上げる。
「パヴァリア軍との交渉役を買って出たそうじゃないか」
「耳が早いな」
アルベリクが不敵に笑うと、テオドールは苦しげに呻いた。
「もう戦は避けられんだろう……。お前がそこまでする必要はないんじゃあないのかね」
「バルナーヴ将軍とは面識があるし、この交渉は流石に、俺にしかできん。俺が言い出したことだ。俺がやるしかない」
「しかしだね……」
「心配なのか?」
皮肉めいた笑みを浮かべるアルベリクを、テオドールは真摯な瞳で見返していた。
「そうとも、心配さ。お前にもしものことがあったら、ルルーさんはどうなる?」
問われて、アルベリクは笑みを引っ込める。それからやおら踵を返し、テオドールの顔を正面からまっすぐに見据えた。
「明日の今頃までに戻らなかったら、あんたはナタリーと一緒にマルブールから逃げてくれ。俺が死んだと伝えてくれて構わない。そうすれば、彼女がここに留まる理由もなくなるからな」
「そうかな……あの子は、たとえお前が死んでも、山小屋から離れないだろうよ」
「……引き摺ってでも、逃してくれ。頼む」
テオドールは僅かな間当惑気味にアルベリクを見つめていたが、やがて度し難しとでも言いたげに首を振った。
「……彼女の側に居てやれんのか」
「無事に戻れたら、そうするさ」
言いつつ、アルベリクは鐙に足をかけ、鞍にまたがる。
馬上のアルベリクを見上げつつ、テオドールは嘆息した。
「なあ、やっぱりワシにはわからんよ。何故、お前がそこまでする?」
アルベリクは馬上からテオドールの顔を見下ろし、そして、笑った。
「やつらに、彼女の制作を邪魔させたくないのさ」
手綱を引いて、馬の首を街道に向ける。城門を抜けても駆ければ、バルナーヴ将軍の陣地に辿り着くはずだ。
アルベリクは今一度振り返り、不安げなテオドールの顔を見た。
「じゃあな。首尾よくいったら、祝杯をあげようじゃないか」
そう言うと、アルベリクは馬の腹を蹴り、街道を駆けていった。
朝の静寂を裂いて、石畳を蹴る蹄の乾いた音が空気の中に響き渡る。その蹄の音は、黒衣の姿と共に次第に遠のき小さくなってゆく。
残されたテオドールは、しばらくのこと苦しげに口を閉ざしていたが、やがて大きく頭を振ると、喉の奥から長い嘆息を漏らした。
「お前は大莫迦者だよ……」
暁の空を太陽の光が染め上げる中、テオドールはアルベリクの去った後の街道を、いつまでも見つめていた。






