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第二十章(1) 山小屋

 平原の上を、パヴァリアからの先遣部隊が野火のごとく進軍していた。


 先遣部隊の指揮を執るのは、サラス・バルナーヴ将軍だった。

 かつて、トーブマンのオークションでリュファスを嵌め込み大量の債権をせしめた、あのサラスである。彼は、今ようやくにして、本業での活躍の機会を得たのだ。


 バルナーヴ将軍率いる部隊は師団級であり、パヴァリアの本軍は目下編成中であった。将軍の役割は、本軍編成が完了するまでの間、皇国軍の足止めをすることである。


 皇国軍は一個軍団であり、第二皇子が司令官を務める。諸侯連合の異教排斥運動で主戦力を担った猛者が揃っており、練度も士気も高く、精強だった。

 そこで、バルナーヴ将軍は皇国内に戦術上の拠点を設け、そこから断続的な遊撃を仕掛けることで足止めをしようと目論んでいた。


 その戦術拠点として、バルナーヴ将軍はマルブールを選んだ。


 マルブールは、元より要塞都市として発展した歴史があり、防衛拠点としての機能は健在である。この都市さえ手に入れれば、将軍は皇国軍を国内に釘付けできる。


 無論、第二皇子とて彼の動きは想定済みであり、一群を割いてマルブールの防衛に当たらせていた。


 マルブールには軍靴の足音と軍馬の蹄の音が鳴り響き、食料や水、衣料や武器など、戦闘に必要な物資が集結しつつある。


 戦争の気配は、今や現実のものとなって人々の眼前に立ち現れていた。


 商工会の会合のためにマルブールを訪れたアルベリクは、かような状況を知り愕然としていた。現状のままゆけば、この街が戦火に巻かれることは免れ得ない。


 この会合の場で、アルベリクはある依頼を持ちかけられた。後日行われる予定の、皇国軍とマルブール領主との会議に、商工会の代表として参加して欲しいという依頼だった。マルブールの今後取るべき方針を決める、重要な会議だった。


 ブランシャールは皇室御用達の御用商人であり、第二皇子とも面識がある。加えて、アルベリクはマルブール出身ということもあり、両者の調整役として、これほど適任の者は他になかった。


 アルベリクが推察するに、皇国軍と領主の間には、意見の相違が生じているはずだった。皇国軍は、当然ながら、マルブールを拠点としてバルナーヴ軍を足止めしたい。しかし、街を戦場にしたくない領主は、下手をすると無血開城を考えるかもしれない。


 マルブールは歴史的に、幾度となくパヴァリア王国とグリアエ王国の紛争の舞台となっている。そうした危機的状況が訪れる度に、この街の領主は臨機応変な態度を取ってきた。敵の力が弱いと見れば、徹底的に抗戦するが、ひとたび敵わぬと見れば、あっさり降伏して敵の拠点として使わせる。交易の要衝であり、宝飾工芸の一大産地でもあるマルブールは、そのような態度を取ったところで、どちらの国からも咎められることがない。その立場を、この街の領主はうまく利用しているのである。


 だが、皇国軍とて愚かではない。敵の攻撃拠点となりうる要衝を、そう易々と奪われないよう、一群を派遣しているのである。ここで領主の言い分を丸呑みして、一戦を交えることもなく降伏などするはずがない。


 つまり、後日行われるというその会議は、利害相反する者同士が顔を突き合わせることになるのだ。議論の紛糾は火を見るより明らかだった。


 憂鬱な気分を抱えつつ、アルベリクは商工会議所の屋舎を出た。周囲は薄暗く、陽はすでに山の端の向こうに隠れかけていた。


 山小屋に戻ると、アルベリクはまっすぐ寝室に直行した。彼女はこの時間、そこで休んでいるはずだった。


 ここのところずっと、ナタリーの体調は(かんば)しくない。だが、彼女はその身体に鞭打って、度々制作に入ろうとした。


 アルベリクはそんな彼女を必死の説得で押し留めた。そして、工房の天窓から陽が射さなくなったら制作を中断して寝室で休むという約束を、ようやくのことで取り付けたのである。


 だが、今アルベリクの目に映るのは、もぬけの殻になった寝台だけだった。


「何をしているんだ……!」


 アルベリクは苛立たしげに呻きつつ、踵を返して工房に入ってゆく。鉄の扉を開けると、案の定、机にかじりついて作業するナタリーの背中が見えた。


 アルベリクは足音高く彼女に近づくと、小さい背中に手を触れた。


「ナタリー、戦争が始まる。すぐにここを引き払おう」


 ナタリーははっと顔を上げると、瞠目してアルベリクを見上げた。

 頬がこけ、顔色が悪い。先日の不正出血以来、彼女の身体は目に見えて弱っている。

 そのただでさえ悪い顔色が、アルベリクの言葉によってか、一層青褪めたように見えた。


「……どういうことですか……? 戦争……?」


 世間から隔絶された場所で生きる故か、ナタリーは世情に疎い。

 とはいえ、彼女が現状を知らないのも無理はなかった。マルブールのきな臭さが増したのは、ここ数日のことであるし、彼女の今の体力では、もはや自力で山を降りることすら叶わないのだから。


 アルベリクは、(はや)る気持ちを抑えて、努めて冷静に現状の説明を試みた。


「泰皇のベツレヘム教排斥運動が、教皇の逆鱗に触れた。教皇軍とパヴァリア王国軍とが結託して、皇国に攻め入ろうとしている。パヴァリアの将軍は、このマルブールを拠点にして持久戦を目論むつもりらしい」


 ──『絹の涙』がきっかけとなって。


 その事実だけは、敢えて言わずにおいた。それは、アルベリクだけが背負うべき罪だった。


「……マルブールが、戦場に……?」


 (うべな)うアルベリク。それを見て、ナタリーの顔色はいよいよ蒼白になる。


 もはや、寸刻も猶予はなかった。宝石の一袋でも胸に忍ばせて、一刻も早くアルバールの山から離れるべき状況である。


 しかし、かように説明したにも関わらず、ナタリーは机に座ったまま動こうとはしなかった。


 彼女は悲しげに首を横に振ると、消え入るような声で呟いた。


「……ごめんなさい、アル。私は、行けません。この身体では……。危険なら、貴方だけ逃げてください」


 瞬間、アルベリクの頬に朱が差した。


「莫迦な! そんなこと、できるものか! 背負ってでも連れてゆくぞ」


 言うや、アルベリクは己の腕をナタリーの膝の裏に差し入れ、彼女の身体を抱え上げた。その身体のあまりの軽さに、アルベリクは愕然とする。


 抱え上げられたナタリーは、腕を突っ張って彼の行動を拒もうとした。だが、その力はいかんせん弱く、アルベリクの意思を止めることはできなかった。


 彼女は目に涙を浮かべつつ、アルベリクを見上げて言った。


「やめてください! 貴方は、私の意思を踏みにじるつもりですか!」

「命に関わることだ! やむをえまい!」

「私の命など、もってあとひと月といったところでしょう」


 眼前が暗転する。腕の力が抜け、危うくナタリーの身体を落としそうになるも、すんでのところで膝を屈し、腕で彼女の身体を床から守った。

 ナタリーの身を起こして、その身体を支えてやる。彼女は床に手をついて項垂れたまま、アルベリクの方を見ようとしなかった。


「……知っていたのか」


 震える声で、アルベリクが問う。ナタリーは項垂れたまま、小さく首肯した。垂れ落ちた前髪で、彼女の表情は見えなかった。

 

「ええ……お医者様からは聞いていますし、自分でもわかるのです。体調が日に日に悪くなります。体中が痛いし、昨日できたことが、今日はもうできない……。そんなことが続くと、気持ちも滅入ってしまって……」


 病に関して、彼女がこのような泣き言を口にすることは、これまでのところ一度としてなかった。それだけに、彼女の言は真に迫って聞こえた。


「病で死ぬか、戦火に巻かれて死ぬか……。私にとっては、大差ありません。どうせ死ぬなら、この山小屋の中で、死にたいのです」

「……ナタリー……!」


 衝動的に、アルベリクはナタリーの身体を抱きしめていた。

 彼女の細腕が、アルベリクの背中にそっと回される。小さな頭が、アルベリクの首と肩の間にうずまる。

 薄暗い静寂の中に、彼女の呼吸だけが、潮騒のように聞こえてくる。


 瞬間、アルベリクは瞼の裏に幻視した。燦然たる太陽の下、宝石を散りばめたような海の水面を見ながら、健やかに笑う彼女の姿を。


「……海を……」


 彼は顔を上げ、ナタリーを正面から見据えると、わざとらしく晴れやかな笑顔を作ってみせた。


「──そう、海を見に行こうじゃないか……! そうだ、南海岸なら、比較的安全だし、避難先には都合がいい。君の好きな、海晶の海を見せてやれるぞ」


 明るく振る舞うアルベリクの姿に対して、ナタリーの表情はあくまで浮かなかった。彼女は悲しげに(かぶり)を振って、アルベリクの上着の背を握りしめる。


「アル、私には、やり残したことがあります。貴方に贈る、最後の指輪──それを作り上げるまでは、私は死ねません」

「そんなものは、もうどうでもいい!」


 アルベリクの悲鳴が、工房の暗い天井にこだまする。彼はナタリーの身体を引き離してその肩を掴み、必死の形相で喚き立てた。


「俺はもう、君からは十分すぎるほど沢山のものを貰ったんだ! これ以上は、必要ない! 俺はただ、君と──」


 アルベリクの言葉は、最後まで続かなかった。ナタリーがアルベリクの腕を振り払いざま、身を乗り出し、体重を掛けて接吻したためだ。

 押し倒されかけて、アルベリクは思わず床に後ろ手をつき、身体を支える。


 眼前には、ナタリーの鬼気迫る顔が迫っていた。この僅かな動作だけで、ナタリーの喉はぜいぜいと荒い吐息を漏らす。

 彼女の額から流れ落ちた汗が、鼻の脇を通り抜けて、血の気のない唇の合間に吸い込まれてゆく。


 吐息の合間を縫って、彼女は喘ぐように言葉を紡いだ。


「お願いです、私の最期のわがままを、どうか、聞いてください……。ここから先、私はもう奈落の底に落ちるだけです。気力も、体力も、日毎に落ちてゆく……。今でさえ、制作に充てられる時間は僅かなのに、逃げていてはその時間すらなくなってしまう……。わかりませんか……? これは貴方だけのためにやるのではないのです。私が、私自身のためにやることでもあるのです。才能が尽きる前に、時間が尽きる前に、私にはどうしても、やらなければならない事があるのです」


 天窓から覗く空は、既に深い濃藍に染まっている。淡い夜の奥には、既に星が瞬き始めている。だが、その光はあまりに弱い。工房を照らすのは、作業机の上の灯火のみ。その灯火も、数刻もすれば蝋が溶け、芯が燃え尽きる。その先にあるのは、果てしなく続く闇ばかりである。


 口の中に、鉄の味が滲む。先程の接吻で、唇が切れたらしい。


 ナタリーの瞳から、大粒の涙がこぼれて、アルベリクの頬に落ちる。潤んだ瞳は、しかし、あくまで鋭く、アルベリクの瞳を捉えて離さなかった。


 山小屋に留まる──。これが彼女の決意だというのであれば、もはやその意志にアルベリクが抗うことなどできはしなかった。


 しかし、現実として、戦火は確実にマルブールに近づきつつある。


 ほどなくして、バルナーヴ将軍率いる先遣隊が、アルバール平原の街道を封鎖し、電信線を破壊した。いよいよもって、マルブールに死の気配が近づきつつあった。

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