第十九章(6) 山小屋3
昨夜のひと悶着から一夜明けた早朝のこと。
ベッドから抜け出したアルベリクは、手間取りつつも、朝の食事の準備に勤しんでいた。
起きた際には隣のベッドにナタリーの姿は無く、これもまたいつもどおりに、朝早くに起き出して製作に精を出しているのであろうと想像できた。
食事の準備ができたことを伝えるため、半地下の工房に降りる。鉄の扉を開き、奥の作業机の前に、ナタリーの姿を認める。
彼女は、机の上に突っ伏して眠っていた。
風邪を引かぬよう気遣って、アルベリクは一旦寝室に取って返し、毛布を手に携え再び工房に戻ってきた。ナタリーを起こさないよう、そっと机に近づく。そこで、彼は異変に気づいた。
机の上が一面、赤黒く染まっていた。
一瞬、インクでもぶちまけたのかと錯覚したが、そうではなかった。その赤は、ナタリーの口と鼻から流れ出したものだった。
──血だ。
「なっ……!」
言葉を失う。全身から冷たい汗が噴き出し、混乱で思考が乱れる。心臓が、早鐘を打ち始める。
思わず、アルベリクは彼女を揺り起こそうと、肩口に手を伸ばした。
だが、次の瞬間、彼は思いとどまり、彼女の口元に指を近づける。弱々しいが呼吸はあった。その指を首元に滑らせる。──脈もある。
アルベリクは彼女の身体を慎重に抱え上げた。膝の下に手を差し入れると、ぬるりとした血の感触がした。どうやら、下半身からも血が出ているらしい。
半地下から寝室まで運び込み、そっとその身体をベッドに横たえる。彼女は決して目を覚ますことなく、ただ苦しげに眉間にしわを寄せ、僅かなうめき声を漏らすばかりだった。
(医者を!)
一にも二にも無く、アルベリクは無造作に踵を返すや、そのままの勢いで、何も持たずに外に出た。
遮るもののない空に、太陽が暴力的に輝いている。夏のはじめの、鮮やかなアルバールの風景が、眼前に広がっている。だが、その美しい風景を楽しむ余裕など、今のアルベリクにあるはずもなかった。
彼は、丘を走り下り、転がるように山道に出ると、マルブールの街に向けて、全力で駆け下りていった。
◇
お大事に、と呟いて、医師は山小屋を去ってゆく。その姿を、アルベリクは低頭して見送った。
窓の外は、既に黄昏に染まっていた。
寝室に取って返す。部屋の中は薄暗く、ただ窓から差す薄紅色の空の色だけが、ベッドに横たわるナタリーの顔を、ぼんやりと照らしている。
枕に沈むナタリーの顔には、血色が戻りつつあった。このまましばらく眠っていれば、彼女は元のとおりに目を覚ますことだろう。
アルベリクは枕元に腰を下ろし、彼女の顔をぼんやりと眺め始めた。
混濁する意識の中で、彼は沈思する。
医師から聞かされた彼女の病状は、アルベリクが思う以上に悪かった。多くの男たちの命を奪った宿痾は、彼女自身をも大きく蝕んでいたのだ。不正出血は、病の末期を示す兆候だという。
治療法の全く確立されていない病である。対症療法といっても気休め程度のものしかなく、ただ安静にして死を待つ他に、とれる手立てはない。
もって数ヶ月。それが、彼女の人生に残された時間だった。
現実感がなかった。想像すらしていなかったのだ。眼前で寝息を立てる女が、動かなくなる日が来るなどと。彼女の微笑みが、永遠に失われる日がくるなどとは。
ナタリーの睫毛が僅かに動き、次いでその胸の奥から深い息が吐き出された。ゆっくりと、瞼が開く。
「……アル…………」
「起きたか、ナタリー」
アルベリクは相好を崩し、彼女の額に張り付いた髪の一房を払ってやった。
目覚めたばかりのナタリーは、己の置かれた状況もおぼつかない様子で、当惑気味に周囲を見回していた。
「ここは、寝室ですか……? 私、いつのまに……」
「覚えていないか? 今朝、工房で君は血を流して意識を失っていたんだ」
「そう……でしたか……」
彼女は眉根を寄せ、欠落した時間の記憶を、懸命に掘り起こそうとしていた。
アルベリクは彼女の手を取ると、努めて明るい声で問うた。
「気分はどうだ? 痛みはあるか?」
「大丈夫です……」
弱々しく答えつつ、彼女はベッドの上に身を起こした。銀色の長い髪が乱れ、起き上がった彼女の顔を隠す。
「なにか、食べたいものや、飲みたいものはないか?」
ゆっくりと、小さく、ナタリーは首を横に振る。
「──わかった。水差しを、ここに置いておくからな。あと、これを食べろ。血になるから」
アルベリクは傍らの袖机に置かれた皿から、チーズを一切れつまんでナタリーの手に握らせた。
ナタリーはそれを、すぐに口に運ぶ。彼女の歯が、薄黄色のチーズの柔らかな表面を僅かに噛み、それからゆっくりと咀嚼し、砕き、飲み込んでゆく。どうやら、食事も問題なく摂れそうだった。
アルベリクはしばしの間、彼女が食事を摂る様子を眺め、それからおもむろに口を開いた。
「今後は、できる限り、この山小屋に留まることにする。君のそばには、俺がいてやらないと」
途端にナタリーは顔を上げ、気遣わしげな眼をアルベリクに向ける。
「それは──いけません。貴方には、皇都でのお仕事もあるのでしょう?」
アルベリクは穏やかに笑って、首を横に降った。
「もう、良いんだ、皇都での暮らしは。今は、君のことを優先したい」
当惑気味の眼が、アルベリクを見据える。やがて、その顔に、ゆるゆると、ためらいがちな笑顔が浮かんできた。
「血を見て、びっくりしてしまったのですね。でも、私なら、大丈夫ですよ……! いざというときは、テオドールさんにお医者様を呼んでもらうことになっているのですから……」
「病のことは、医者から全て聞いた。──だから、ここにいたい」
瞬間、ナタリーの顔色が、さっと青褪めた。眼が泳ぎ、視線がアルベリクの目から外れる。
「……ごめんなさい……」
「なぜ謝る?」
「……ごめんなさい……」
ナタリーは、ひたすらに震えながら、同じ言葉を繰り返す。
大粒の涙がその瞼に溢れ、頬を伝ってゆく。
彼女の手を、アルベリクはそっと握った。氷のように冷たい。それを、己の手の中に、しっかりと握り込む。
「莫迦。謝る必要などない。支え合おうと言ったじゃないか」
ナタリーが、首を横に振る。涙の雫が、アルベリクの手の甲に降り落ちた。
「私は、力になれないかもしれません。私にとっての、貴方ほどには」
その言葉は、二人の命の時間に大きな隔たりがあることを、暗に告げていた。
覚悟を決めていただきたい──。去りしなに、医者は確かにそう言っていた。
その言葉を、アルベリクは胸の中で真摯に受け止めた。受け止め、咀嚼し、腹の中に落とす。
ふいに、冗談めかした意地悪な笑いが、アルベリクの顔の上に立ち顕れた。
「……なんだ、君は、身体が悪いからと弱気になっているな? 気にすることはない。君からは、もう十分すぎるほど貰っているんだ」
彼は言葉を切って左手を掲げると、その指先で豊かな銀髪を梳る。
「今度は、俺が返す番だ。君のそばにいさせてくれ」
赤く泣きはらした眼が、アルベリクを見つめ返す。その瞼に、再び涙が溢れて、一筋、頬を滑り落ちた。
彼の手の中で、ナタリーの手は暖かな体温を取り戻しつつあった。その手は、弱々しくはあったが、アルベリクの欠損だらけの手を確かに握り返していた。






