第十九章(5) 山小屋2
山小屋の扉を前にして、アルベリクは逡巡していた。
皇都で起きたことを、ナタリーになんと伝えればよいか。ここまでの道程でひたすらに考えてきたが、結局良い考えが浮かばぬまま、ついにここまで来てしまった。
失われたものを知った時、彼女はきっと悲しむに違いない。そう思うと、アルベリクの気持ちは重くなった。
だが、いつまでもその場に留まるわけにもゆかない。アルベリクは意を決して、左手で山小屋の木戸を押し開く。
居間にナタリーの姿はなかった。きっと工房に詰めているのだろう。
そのまま真っ直ぐ工房に入る気には、どうしてもなれなかった。そこでアルベリクは、勝手知ったる台所に足を向けた。
試しに左手で包丁を握り、玉ねぎを切ろうと試みた。だが、玉ねぎは切っ先から逃れるように滑って、床に転がって落ちた。
たかだか野菜一つを切るだけで、この有様である。利き手の傷が塞がるまでは、他にも諸々の場面で不便を感じることが多々あろう。
今後の生活の苦労を思うと、アルベリクは己の愚行をつくづく呪った。
背後の鉄扉が不意に開き、半地下から登ってくる足音が聞こえた。振り返ると、力ない足取りで居間に戻ってくるナタリーの姿が見えた。
彼女はアルベリクの姿を認めるや、その満面を喜色に染めた。
「アル……!」
小走りにアルベリクの元に駆け寄り、その胸に飛び込んでくる。アルベリクはその小さな身体を、左手だけで抱き留める。
「一体何があったのですか……? 都に出向いたきり、音沙汰がなく心配していたのですよ」
「すまなかった……。少し、不具合があってな」
「話を聞かせて──」
アルベリクの手を引こうと利き手に触れた瞬間、ナタリーはついに異変に気づいた。
巻かれた包帯と、やけに短い指。それらを見て、彼女は怪訝そうに眉をひそめる。
「これは……何ですか……? どういうこと……?」
質の悪い冗談であって欲しいとでも言いたげに、ナタリーはおずおずと笑って、アルベリクの顔を見上げる。
だが、アルベリクは顔をしかめたまま、一言だに口にしない。その表情を眺めるうちに、彼女の顔から次第に笑みが消えていった。
「うそ……でしょう……?」
蒼白な顔のまま、震える声でナタリーは問う。
アルベリクは、努めて穏やかな声で答えた。
「どうということはないんだ。傷が塞がれば、包丁くらいは握れる……」
「なんでもないわけがありません! 貴方の……貴方の大切な……かけがえのない指が……!」
「──交渉に失敗したのだ。だが、むしろ、これで済んで良かった」
「だ、誰にやられたのですか……。貴方を恨む方ですか……」
「いいや、あの方は誰も恨んでなどいない。ただ、ひどく孤独に見えた……。君が俺にくれた茨の指輪と似たものを、あの方に作って差し上げたのだが、どうもお気に召さなかったようだ。その咎で、指を飛ばされた」
「……なんて無茶を……。なぜ、そんな無茶を……」
「俺も、君と同じようにできると思ったんだ。思いを込めて作ったものを贈れば、それで納得してくださると思っていた……」
アルベリクの声音は、尻すぼみに小さくなっていった。眼前のナタリーの形相に、かつて見たこともないような殺気が帯び始めていたためだ。
彼女の目は怒りに燃え、引きつった口元からは犬歯が覗く。歯ぎしりが聞こえそうなほど歯を食いしばり、彼女は拳を固くして打ち震えていた。
「……私は、その方が憎い……。憎くて、憎くて……どうにかなってしまいそうです……!」
地の底から響くような声で、ナタリーは怨嗟の声を漏らす。その様があまりに恐ろしく、アルベリクは思わず腰を引いてしまう。
それは、温厚な彼女が初めて見せた、本物の憎悪だった。
アルベリクは彼女をどうにか宥めようと、声を抑えて呟いた。
「……俺には、どうしてもあの方を恨む気になれない。あの方は、慈悲をくれたんだ。もう一度、君に会えるようにと……」
「でも、貴方はもう二度と宝飾品を作れない! もう二度と、貴方の手から奇跡のような作品が生み出されることはない!」
「俺が軽率だったんだ。……本当にすまない。君をこんなにも傷つけるなんて……」
「その通りです……貴方は、自分自身を軽んじすぎています。貴方は自分の行為が、どれほど大変なことか、想像すらしなかったのでしょうね! ……今、私が何を思っているかわかりますか? 貴方の指の代わりに、私の腕が切られていれば、どれほど良かったかって思っているんですよ!?」
アルベリクは弾かれたように顔を上げると、必死の形相で頭を振った。
「そんなことは、だめだっ……!」
「ええそうです。今、貴方が感じた気持ちが、そっくりそのまま、今の私の気持ちです。絶対に、あってはならないことだったのです」
ナタリーは憮然とした表情でアルベリクを見上げる。挑みかかるような目には涙が溜まって、いましも零れ落ちそうだった。
「……すまない……」
それ以外の言葉もなく、項垂れるアルベリク。
ナタリーはなおも何かを言いたげに口を開いたが、アルベリクの殊勝な姿を見ているうちにその気が失せたらしく、へたへたと椅子の上に座り込んだ。
彼女は肩を落としつつ、消え入りそうな声で呟いた。
「……希望……私の希望が……」
両手で顔を覆い、くぐもった声で呟く。
「これから私はどうすれば……何をよすがに、ものを作れば良いのですか……。最後の作品は、私の最後の希望から生まれるはずだったのに……」
彼女の希望──。それは、アルベリクの作品を求める、彼女自身の内なる欲求にほかならない。
だが──。そんなものが、アルベリクにとっての希望であるはずがなかった。
アルベリクは首を横に振り、諭すような声音で彼女に向かって語りかけた。
「ナタリー。よく聞いてくれ。これは、俺の生きてきた人生の、至るべき帰結だ。だが、君は違う。君には、君の生きてきた人生がある。それを、作品にするんだ。俺の真似をして作ったものになど、見ての通り、何の価値もないんだ」
と、ナタリーが唐突に立ち上がり、アルベリクの胸にすがりついた。見上げてくるナタリーの頬には、大粒の涙が伝っていた。
「でも、私は、貴方と同じになりたかった……!」
アルベリクは己の胸を掴む手を振りほどくと、逆にその手を掴んで彼女を見下ろした。そして、ゆっくりと、一言一言、噛んで含めるように言い聞かせた。
「最高の品を、作りたいんじゃないのか、ナタリー。君は、三つの指輪を作ってくれると言ったな。最後の指輪──それは君の最高傑作になるんじゃないのか? 俺の真似事をして作ったものなど、俺は決して認めない」
濡れた彼女の瞳に、怯えたような色が宿る。だが、アルベリクは構わず言葉を続ける。
「思いを込めれば込めるほど、醜くなると言ったな。それは違うぞ、ナタリー。君はまだ、作品の中に全てを込めてはいないはずだ」
そう言って、アルベリクは無造作にナタリーの手を離す。彼女は怯えた姿のまま、よろよろと後ずさりしてゆく。
そんな彼女を、アルベリクの言葉が追い打ちする。
「──全部叩き込んでみろ。絶望も、喜びも、美しさも、醜さも、下劣な欲望も、崇高な想いも……全部だ。これ以上ないくらい、想いを込めて作ってみろ。後先のことなど考えるな。それを手にするのは、他の誰でもない、俺だ。俺が、君の全てを受け止めると言っているんだ」
ナタリーは歯を食いしばり、滂沱の涙を流しながら立ちすくんでいた。
やがて、彼女は唐突にアルベリクの頬を掴むと、むさぼるような熱烈な口づけを見舞った。そして、勢いよく踵を返し、工房の中に引きこもっていった。






