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第十九章(4) 聖地グリアエ・謁見の間

 神話世界を刺繍した赤い絨毯の上で、アルベリクは微動だにせず(ぬか)ずいていた。その先の段上では、泰皇ジルベールが、黄金の玉座に座ってこちらを見下ろしている。

 その眼光は相変わらず鋭く、光の乏しい室内において金剛石のような輝きを見せていた。


 グリアエにおける謁見の場は、四季の館から、宮中の謁見の間に移された。

 ここは、グリアエ王朝十五代国王の命により設えられた部屋であり、実に六百年もの間、今の姿を保ち続けているという。

 時の国王は、国内の優れた職人や画工をひとところに集め、グリアエ王室をめぐる神話を部屋の全面に描かせている。

 壁と天井にはフレスコ画、柱には彫刻、床の絨毯には刺繍がそれぞれ成され、その全てが、後世においても決して色褪せない美しさを誇っていた。


 段上の泰皇や、家臣たちが装う衣も、パヴァリア・ベツレヘム教会が用意したお仕着せではなく、グリアエ王朝時代の王族の衣装だった。


 それらは教会の息が全くかかっていない、純然たる国粋の結晶であり、部屋を彩る装いの全てで、旧王政の復古を暗黙のうちに宣言しているかのようだった。


 アルベリクは額ずいたまま、階下の家臣に向けて言葉を放った。


「陛下におかれましてはご機嫌麗しくあらせられ……」

「挨拶など無用だ。面を上げろ。要件を話せ」


 言葉の素っ気なさとは裏腹に、段上の泰皇の声はどこか楽しげである。推し量るに、彼の機嫌はすこぶる良さそうだった。


 アルベリクが顔を上げると、玉座に座る泰皇の姿が目に入った。泰皇はアルベリクと目が合うと、一瞬だけ、不敵な表情で笑ってみせた。


 その笑顔は、アルベリクの緊張を解きほぐすには十分だった。


「ご所望あらせられたリアーヌの作品が完成いたしましたゆえ、本日はその献上に参った次第でございます」


 アルベリクが奏上すると、泰皇はにわかに表情を輝かせ、玉座から勢いよく立ち上がった。


「おお、ついにできたか! 一日千秋の思いで待っていたん……のだ。早く、よこせ」


 ぎこちない口調だった。君主としての言葉遣いを学ぶよう、臣下から諫言されているのであろう。


 だがその声は、どこか、かつて貧民街の酒場で駄弁っていた頃の彼を彷彿とさせた。アルベリクはそのことに気安さを感じ、思わず頬をほころばせていた。


 アルベリクは言われるままに、宝飾品の入った化粧箱を頭の上に差し出した。すると、泰皇は、侍臣の制止も聞かず、足音高く階下に降りてきた。そして、その手で化粧箱を取り上げ、蓋をそっと開く。


 橄欖石の緑色の輝きが、泰皇の顔面に照り返す。


「──ほう」


 彼は目を細め、嘆息した。その眼の中には、明らかな歓喜の輝きが灯っていた。


 彼は化粧箱から一個の指輪をつまみ上げると、眼の上にかざしてそれを見た。


「このモチーフは、たしかにリアーヌのそれだな。造形も流麗だ。──おい、俺のルーペを」


 侍従の一人がうやうやしく頭を垂れつつ、ルーペの乗った盆を泰皇に向かって差し出す。泰皇はひったくるようにルーペを掴むと、目元に当てて指輪を見やった。


 その瞬間、泰皇の喉から息を呑む音が聞こえた。

 静寂が場に満ちる。やがて、その静寂の向こうで、泰皇は独りごちるように呟いた。


「……美しい。あまりにも美しい…………」


 彼はやおら顔を上げ、目を輝かせてアルベリクを見やった。


「まるで生命の宿ったかのような、瑞々しい(かざり)。細部まで拘った造りは、確かにリアーヌのそれだ。疑いようもない」


 伏せられた瞼の奥で、アルベリクの緋色の瞳が光る。

 少なくとも泰皇は、手にした指輪が贋作であることに気づいていないようである。

 ここまでは、アルベリクの望み通りの展開だった。


 だが──と、当惑気味に泰皇は続ける。


「だが、含意が違う……。この一品は、『絹の涙』のように扇情的なものではない。にも関わらず、ずっと俺の心に響く……。──これはいったいなんだ、赤目烏。説明しろ」


 アルベリクは顔を上げると、落ち着き払って答えた。


「……以前、陛下は私に所望されたはずです。陛下のために作られた、この世にただ一つのレガリアを……。これこそが、それにございます」

「……俺の、レガリア……これが……」


 泰皇の眼に、ほんの一瞬、喜色が差した。その表情はあたかも、初めて宝石を手にした無垢な少年のようだった。


 しかし、それはまさに刹那のことに過ぎなかった。


 泰皇の表情は、アルベリクが見守る中、次第に険しいものに変わっていった。

 唸るように、泰皇は呟く。


「……俺は、『絹の涙』同様の扇情的な一品を所望したはず。──いま一度問う。この指輪の、含意は何だ」


 風向きが変わった──。


 アルベリクは泰皇の表情から、その状況を敏感に察知していた。

 わずかに声を詰まらせ、彼は呻くように答える。


「……平穏への、祈り……」


 瞬間、泰皇の瞼の端に険が宿る。


「……ヴァニエを気取るつもりか」


 眼を眇めて低く呟くと、泰皇は一転して声を張り上げた。


「赤目烏よ、よく聞け。『祈り』などというものは、他者や己の人生を操作し支配したいという願望の裏返しだ。神に祈れば己や他人に善性が宿ると信じる、さもしい精神の結晶だ。宗教家共が、宗教的同質性を担保するために数百年の間に築き上げた、支配のからくりの一つに過ぎない。贖宥の石を砕いたお前なら、それを既に理解していると思っていたがな」


 声の音色を一段と低くして、泰皇は最後にこう付け加えた。


「お前も、俺を支配しようとするのか、赤目烏」

「──その指輪をいま一度ご覧になっても、同じようにおっしゃることができるでしょうか? その指輪から、陛下は支配の精神を感じ取ることができますでしょうか?」


 問い返され、泰皇は言葉に詰まる。


 アルベリクは、強い想いを込めて指輪を創り上げた。しかし、そこに誰かを支配しようだとか、意のままに操ろうなどという意志はない。


 ただ、彼は願っていた。この指輪を見た泰皇が、純粋な美に触れる喜びを得られるようにと。その指輪を見ている間は、あらゆる苦しみや義務から解き放たれ、何もかも忘れて幸福な時間の中にたゆたうことができるようにと。


 泰皇は指輪から目を離さぬまま、しばしの間、憮然として押し黙っていた。やがて彼は化粧箱を閉じると、それをアルベリクの鼻先に突きつけた。


「……このようなものは、俺には無用だ……。持ち帰り、鋳潰すがいい」


 しかし、アルベリクは首を横に振る。


「それは、既に陛下に献上差し上げたものです。お望みとあらば、陛下御自身の手で、破壊なさってください」

「……なるほど……」


 泰皇の片手が、腰に差した剣の柄を握る。


「ならば、化粧箱を持て、赤目烏。このような品、お前もろとも破壊してくれる」


 アルベリクは震える手で化粧箱を受け取り、両手で頭上に掲げ持った。

 剣を鞘から引き出す乾いた音が、アルベリクの耳に届く。


 死を待つまでの永遠とも思える時間の中で、アルベリクは己の人生を反芻していた。


 ろくでなしだった父と母の顔。祭の灯に照らされたマルブールの街並み。ジョアンやテオドールの顔。師であるガストンの厳しい面構え。作業机の上で輝きを放つ宝飾品たち。ショウウウィンドウを前にして目を輝かせる少女サラの顔。ルカの顔。フェリシテの顔。幹部連たちの顔。ルイーズとローランの顔。


 素描を終えて振り向くナタリーの笑顔。


 そして、貧民街の酒場で、宝石の話を肴に笑顔を見せる男の顔を──。


「……ジルベール……」


 その名がアルベリクの口をついて出た瞬間、ついに泰皇の剣が振り下ろされた。


 手に衝撃を受け、アルベリクの身体は弾け飛ばされた。厚い絨毯の上に、彼は仰向けに投げ出される。


 未だ、意識はあった。だが、右手に激痛が迸る。咄嗟にもう片方の手で右手の手首を押さえ、視線を走らせる。


 五指全て、関節から先が切断されていた。切断面から赤い血が溢れ、糸を引いて絨毯の上に滴っている。


 アルベリクは歯を食いしばり、手首を強く掴んだ。全身から冷や汗が吹き出す。


 頭上では、泰皇が剣を携えたまま、半ば呆然と佇んでいた。その足元には、化粧箱の残骸が散らばっていた。


 ──指輪は、残骸の只中で、健在な姿を保ったまま輝いていた──。


 ふいに、傍らから黒衣の者が一人進み出てきて、剛力でもってアルベリクの身を引き起こした。


 黒いフードの闇の奥から、地を這うようなくぐもった声が聞こえてくる。


「処刑なら、私めが……」

「余計な口を出すな、痴れ者が!」


 鬼神の如き表情で、泰皇は手にした剣を横一線に薙いだ。鈍い音と共に、黒衣の者のフードの奥から、黄ばんだ歯の幾つかと赤い舌先が吹き飛ぶ。

 泰皇はアルベリクを傲然と見下ろし、言い放った。


「俺の一太刀は絶対だ。その一太刀がお前を生かしたならば、それがお前の運命だ。──だが、いいか。……二度と、俺の目に、このような品を触れさせるな」


 彼が顎をしゃくると、先程顎を穿たれたばかりの黒衣の者が、フードの奥から血を垂らしつつアルベリクに近寄った。

 彼はアルベリクの片腕を掴み、異様な膂力でもって引き立たせた。そして、そのまま宮廷外に引き摺り出そうとする。


 アルベリクは、その剛力に必死で抵抗しつつ、泰皇に向かって叫んだ。


「……ジル……ジルベール……!」


 既に泰皇は興を失い、謁見の間から立ち去ろうとしていた。その足が、アルベリクの声によって止まる。

 彼は首だけで背後を振り返り、アルベリクの眼を射抜くように睨みつけた。


「……死者の名を、今更何故呼ぶ、赤目烏。その名の男は、俺がこの手で殺したはずだ。マドレーヌ共々な」


 かつての親友であるルカの顔が、アルベリクの脳裏に浮かぶ。再び、彼は叫んだ。「ジルベール!」

 泰皇は踵を返すと、つかつかとアルベリクの許まで歩み寄って、吐き捨てるように言い放った。


「二度とその名を俺の前で口にするな。次は指では済まさんぞ。──下がれ」


 その言葉を契機に、黒衣の者は再びアルベリクの腕を引く。

 泰皇は二度と振り返ることなく、宮殿の奥に消えていった。

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