第十九章(2) 山小屋1
作りたての指輪が、アルベリクの手の中で、濡れたように輝いていた。新しく仕入れたヤスリが、うまくナタリーの手に馴染んだらしい。銀の地金が、とろけるような艶を出している。
しかし、アルベリクの表情は冴えなかった。普段の彼ならば、どんなに疲れていても、彼女の作品を前にすれば元気を取り戻したものだった。
食卓を挟んで向かいに座るナタリーも、さすがに異変に気づいたか、心配そうにアルベリクの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが……」
「……ああ、うん……そうだな……。少し、仕事のことでな……トラブルがあった。だが、君の心配するようなことじゃない」
「そうでしょうか……。たとえどんなことでも、貴方のためなら、私は力を尽くします。どうか、なんでもおっしゃってくださいね」
真心のこもった言葉が、アルベリクの胸を締め付ける。
ナタリーが懸念したとおり、彼は今、難事に直面していた。
クリステルから渡された手紙は、泰皇直筆の勅令だった。内容は、新しい宝飾品の制作依頼である。
絹の涙に匹敵する、扇情的な一品を。それが、泰皇の望むところであった。
──ベツレヘム教皇をして、喉から手が出るほど所望せしめた品を、自分ならば一声かけるだけでいくらでも手にすることができる。
彼はその一事をもって、教皇の権能に疑義を突きつけ、この半島を統べる力を誰が握っているのか、明確にしようと考えているのであろう。
実際のところ、アルベリクは迷っていた。ナタリーの力を借りられるならば、是が非でも借りたいというのが本当のところである。
──だが、それは結果として、絹の涙の轍を踏むだけではないのか。
──さりとて、泰皇の依頼を無視することもできはしない。
──彼に逆らえば、末路は暗い。神の口耳と同じ運命を辿ることは必定だろう。
アルベリクが黙考していると、その沈黙に耐えきれなくなったか、ナタリーがおずおずと口を開いた。
「ときに……その……いかがでしょう」
その視線が、アルベリクの手元に注がれる。彼女はどうやら、新作の感想を心待ちにしているらしかった。
アルベリクは己の手元を一瞥した後、険しい表情でナタリーを見やった。
「……そう、感想がまだだったな。──聞きたいかね」
「ぜひ……!」
「……ならば答えるが……。……なんだね、これは」
アルベリクが掲げてみせたナタリーの新作は、それまでのものとは作風が大きく異なっていた。
それが良い変化なら、アルベリクも諸手を上げて喜んでいたところだが、残念ながらそうではなかった。
「これはまるで、俺のかつての作品の模倣じゃないか……」
──そう。今、アルベリクの手元に収まっているのは、ナタリーの作品でありながら、彼女の作品ではなかった。それは、あまりにも似ていたのだ。アルベリクの、過去の作品に。
似ているどころの話ではない、モチーフから曲線の作り方まで、ほぼ完全に、あの蓮の指輪の模倣品だった。
その指摘を待っていたとばかりに、ナタリーは机の上に身を乗り出した。
「ええ、これこそ、私がずっと作りたいと思っていたものなのです」
閉口するアルベリクに構わず、ナタリーは話を続ける。
「私はこれまで幾度となく、この蓮の指輪を複製しようと試みてきましたが、どうしても、満足のいくものが作れませんでした。──ですが、貴方と過ごして、貴方の考えや知識を学んでゆくうちに、やっと、近しいものを作れるようになってきたのです」
語るうちに、ナタリーの声は弾み、その瞳は活き活きと輝き出した。逆に、アルベリクの顔には苦悩が滲み、顔には老人のような皺が寄る。なんなら、頭まで痛くなってきた。アルベリクは思わず、両手でこめかみを抑える。
そんなアルベリクの様子を見て、ナタリーがおずおずと問うてくる。
「……どうでしょう。少しは、貴方に近づけたでしょうか……?」
「そうだな……完璧だ。これを作ったときの、俺の想いまで写し取ったようにすら見える」
「……ああ……貴方からそんなふうに言ってもらえるなんて……夢みたいです」
ナタリーが、とろけそうな笑みを見せる。どうやら、皮肉を理解していないらしい。
アルベリクは渋面を作りつつ、苦々しげに尋ねた。
「……聞かせてくれ。なぜ、こんなものを作ろうと思った?」
問われたナタリーは、嬉々として頷いた。
「覚えてますか? いつか、三つの指輪を貴方に贈ると言ったこと」
「ああ、覚えている。だが、それは──」
──もう必要ない。
言おうとした言葉を、ナタリーが遮る。
「三つ目の指輪は、私の最高傑作でなければなりません。それは、私と貴方の人生が交わった証であり、なによりも尊いものでなければなりません」
あくまで断固として、ナタリーはそう宣う。
だが、次の瞬間、彼女の表情に、不意に翳が差した。
「でも、私の作品は──私が想いを込めて作れば作るほど、欲望にまみれた不純なものになってゆくのです……」
彼女はそう言うと、おもむろにつなぎのポケットをまさぐりはじめた。そして、その手に輝く小品を取り出し、アルベリクに掲げ見せた。
「見てください、これを……」
差し出された品は、一個の光り輝く茨の指輪だった。
一目見て、アルベリクの胸が躍った。それこそ、紛れもなくナタリーの新作であり、白金の地金がまばゆく輝く極上の品だった。
指輪を手にしたアルベリクの目尻がやにさがる。
──ちゃんと、自分自身の作品も作れるじゃないか。
言いかけて、アルベリクは顔を上げる。だが、その言葉は喉の奥で萎んで消えてしまった。ナタリーの表情は、全く冴えないどころか、泣き出しそうなほど悲しげだった。
「──貴方を想って作った、私の新しい作品です。本当は、これが最後の指輪になるはずだったのです」
その口ぶりは、つまるところ、この作品が失敗作であることを暗に告げていた。
アルベリクは、改めて指輪に視線を投じる。僅かな観察を経てみると、彼女の言わんとしていることが飲み込めてきた。
その指輪は、『絹の涙』に勝るとも劣らない、大変に優れた作品だった。三連作の最後の作品にふさわしい、絢爛たる、茨の意匠の指輪である。
何より、そこに込められた感情に、アルベリクは強く惹かれた。想い深く、温かで、愛情に満ち溢れ──。見る者の心を、否が応でもかき乱す、そんな力が、その小さな指輪には内在していた。
それはまさしく、泰皇の依頼にあった『扇情的な一品』そのものだった。これをそのまま献上してしまえば、当面の懸案は容易に解消することだろう。
しかし──である。
裏を返せば、この作品の優れた特性は、『絹の涙』と同じ影響を世に与えかねない。それは人を狂わせ、欲望をみだりに掻き立て、世に争いの種を撒き散らすことになるやもしれない。
アルベリクの脳裏に、四季の家での凄惨な情景がまざまざと蘇る。美しい庭を塗りつぶす、鮮血の赤が──。
ナタリーの喉から、苦しげな溜息が漏れる。
「私には、一度自分を見つめ直す必要があったのです。私が本当に作りたいのは、一体なんなのか。こんな、汚らわしい私の化身を、本当に私は作りたいのか……」
「……その結果が、この俺の作品の模造品だというのか」
「はい。憧れと希望だけが、私の中で唯一、永遠に美しく輝くものだと気づいたのです」
肯った彼女の目は、あくまでまっすぐにアルベリクの瞳を見据えていた。その瞳には、確固たる自信がみなぎっているように見えた。
だが、手元の作品から感じ取れるのは、彼女の態度とはまるきり正反対の感情だった。
──彼女は、迷っている。
アルベリクには、それがはっきりとわかった。
彼女は、今、自らの前に立ちはだかる壁に怯え、竦んでいる。自分自身の作品という、最も恐ろしい存在と向き合うことから、逃げようとしている。
そんな弱い気持ちが、手元の二つの作品から、滲んで見えてくるのだ。
これは、おそらくは彼女にとっての、初めての蹉跌だった。
アルベリクは直感した。彼女には今、導きが必要だと。
そこで彼は、今現在自分が置かれている状況を利用することにした。
「ナタリー。そう、仮にだが……いいか、仮の話だ」
僅かに勿体つけてから、彼は本題を切り出した。
「──例えば……明日、俺が死ぬかもしれんとしよう。そうなったときに……」
「そんなこと、言わないで!」
がた、と、椅子を蹴って、ナタリーが立ち上がる。蒼白な顔面には、恐怖がありありと刻まれていた。
しかし、ふいにその膝ががくりと折れて、彼女の上体は机の上にへたりこんでしまった。
アルベリクは慌てて机を回り込み、彼女の身体を支え起こした。
「……すまない、そう興奮するな。仮の話だ」
「……仮の話でも、そんな話は聞きたくありませんし、したくもありません……」
「悪かった。……だが、これだけは言わせてくれ。──俺が言いたいのは──もし俺に明日がないとして、最期に見た君の作品がこれになるとしたら、ひどくがっかりするだろうということなんだ……」
彼女を鼓舞する流れの中で、咄嗟に思いついた例え話のはずだった。だが、それはアルベリクが今まさに痛感していることに他ならなかった。
実際のところ、泰皇の意向に背けば、命の保証はない。そして、既にアルベリクは、ナタリーの作品を献上する意志を完全に失っていた。
──彼女の作品は、決して世に出すな。
遅きに失した感はある。だが、師の遺志には、今こそ従わねばならない。
──ならばこれが、真実、今生で見る、最後のナタリーの作品になるかもしれない。
「そんなたとえ話は、卑怯です……」
涙声で、彼女は呟く。その長い睫毛に、涙の雫が露のように貯まる。
「私はただ、貴方の魂に近づきたかっただけなのです。それは、それほど悪いことなのでしょうか?」
そう言って見上げるナタリーの瞼から、涙が一筋零れ落ちた。
アルベリクは神妙な面持ちのまま、彼女の肩をそっと抱き寄せる。
彼女の頭を撫でてなだめていると、唐突に、アルベリクの脳裡にひとつの考えが閃いた。
「……俺の魂、か……」
──ナタリーほどの作家が惚れ込む、アルベリク・ブランシャールという作家がいる。
彼は、ナタリーと同じくガストンに師事し、『絹の涙』に類似する作風を持っている。
その客観的事実に思い当たった時、アルベリクは己の中に一縷の望みを見出した。
腕の中のナタリーに向かって、アルベリクは静かに問うた。
「君は、かつて言ったな。俺の作品には、魂を導く力があると」
「はい」
「今でも、その考えは変わらないか?」
「もちろんです。この手に嵌る二つの指輪は、いつだって私の魂を支え、導いてくれます。──そう、今、この瞬間でさえ……」
ナタリーは己の手に嵌った指輪に愛しげな目配せをくれると、その表面にそっと口づけをしてみせた。
アルベリクの瞳に、力が宿りつつあった。すでに彼の心中では、一つの決意が凝り固まっていたのだ。
──その力、俺も信じてみようじゃないか。






