第十九章(1) マルブール・ブランシャール出張所
マルブールには、ブランシャールの出張所が存在する。かつて技師エミールが技術研修を受けていた工房の隣に、その事務所は併設されていた。
この事業所の表向きの仕事は、マルブール産の宝石の買付である。だが、実際にやっていることは、情報収集や同業者の監視・排除・懐柔などが主だった。要するに、ネイライの事件を再び起こさないよう備えることが、この事務所の真の目的だったのだ。
アルベリクは週に最低でも三回はこの事務所に通い、業務をこなしつつ、皇国周辺の情勢に関する情報収集をしていた。
ある日のこと。
いつものようにアルベリクが事務所に足を踏み入れると、室内がやけに慌ただしい。書類の束を掴んで駆ける者、電報の紙片を掴んで相談にふける者、黒板の前に屯して喧々諤々の議論を戦わせる者、様々いたが、どれも尋常の業務態度ではない。
怪訝に思いつつ、アルベリクは部屋の奥で号令を出す一人の女に近づいていった。
諜報部のクリステルである。違法な情報収集や風説の流布など、ブランシャールの暗部は、この諜報部が一手に握っている。クリステルはその副部長であり、将来の幹部候補に目される人物だった。
「クリステル、何が起きた?」
アルベリクに尋ねられるや、彼女は挨拶も端折って、すばやく単刀直入に、一息で状況を説明した。
「泰皇陛下の直轄部隊が、皇都北の平原に結集しているそうです」
「なんだと?」
「第二皇子を総大将とした総勢一万人の軍団です。公には軍事演習を謳っていますが……。物価が尋常でなく跳ね上がっています。物が不足しているのです。特に食料と水と──」
「鉄と、火薬か……」
時間の問題と目されていた事態が、ついに現実に動き始めた。
アルベリクはクリステルに向かって、短く質問を繰り出す。
「パヴァリアはどう動いている?」
クリステルは手にしたメモを繰り、細かな文字で書かれた情報を掻い摘んで説明した。
「北東方面の諸侯を呼び寄せていますが、結集には相応の時間がかかると思われます。そのため、先遣隊の編成も進行中のようです。司令官は……」
クリステルの手元のメモを、アルベリクは肩越しに覗き込む。一人の人間の名がメモの真ん中に大書され、何重にも丸で囲まれていた。
「……サラス……バルナーヴ将軍か」
浅黒い肌の、貴族然とした男の姿が、アルベリクの記憶の中に呼び起こされる。
──君を殺すのは私かもしれないじゃないか。
万博で彼と相対した際、彼が最後に放った言葉が脳裏を過る。少なくとも、その予言は今、一歩一歩着実に実現に近づいているようである。
アルベリクはクリステルの肩を掴み、押し殺した声で早口に問うた。
「バルナーヴ軍の動きは予想できそうか? ことによっては、マルブールも危険だぞ」
「情報収集中です。少なくとも、現時点ではパヴァリア国内に留まっているようですが……」
バルナーヴ軍が皇国に侵入すると仮定して、問題になるのはそのルートである。
パヴァリアから皇国に至るには、大きく二つのルートが存在する。
北回りルートは、パヴァリアからの行程を大幅に短絡できるものの、急峻な北部山脈の隘路を行軍する必要がある上に、城塞都市マルブールからの出撃にも気を配らねばならない。
一方、東回りのルートは、大回りになるものの、穀倉地帯で皇国内の兵力が分散しており、地形も平板で進軍はしやすい。
教皇軍の本軍であれば、十中八九、東回りルートを選択することになるだろう。だが、迅速に第二皇子の軍団を穿ちたいであろうバルナーヴ将軍ならば、山越えの北ルートを選択する可能性も十分にあり得る。
そうなれば、マルブールが戦いに巻き込まれる可能性は大いに高まる。
炎に巻かれて、苦しみ悶えるナタリーの姿が、ほんの一瞬、稲光のようにアルベリクの瞼の上をちらつく。
(誰が、そんなことを許すものか。神が許しても俺が許さん!)
獣のように歯を剥き出して怒りを噛み殺す。傍らに立つクリステルはそれを見ると、一瞬、怯んだように身を仰け反らせた。しかし、彼女にはもう一つ、職務が残っていた。
「ボス、もう一つお知らせがあるのですが……」
クリステルが険しい表情で一通の手紙を差し出す。その手紙は、赤い皇室の蝋で封印されていた。