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第十八章(4) 山小屋

 マルブールの山小屋が、燃えていた。巨大な生き物の舌のような火柱を上げて、星空を隠さんばかりに赫々(かくかく)と燃え盛っている。


 山小屋の前に、ぽつねんと、黒い影が立っていた。背の高い、男の影だ。その男は、燃え立つ山小屋をぼんやり眺めていたが、アルベリクが近づくとそれに気づき、ゆっくりと振り返った。


 金糸と見紛う髪に、海色の瞳。ローランだ。振り返った彼の全身は、夥しい血によって黒々と染まっていた。その手には、銃と刃がそれぞれ握られており、刃の切っ先からは、一滴一滴、鮮血が滴っている。


 彼の足元には、うつ伏せに倒れる人の姿があった。柔らかな身体の曲線から、女だとわかる。小柄な身体に、神秘的な銀色の髪……。その姿を認めた途端、アルベリクは全身の血液が逆流するのを感じた。


 わなわなと唇を震わせ、アルベリクはローランの影に向かって問うた。


「こ、殺したのか……ナタリーを……?」

「僕は、貴方に、なりたかったのです。アル。自ら手を汚し、望むものを手に入れる、貴方のように……」


 血に塗れたローランの手から、刃が滑り落ちた。その切っ先はまっすぐに落下し、ナタリーの背中に突き刺さった。


 怒りが、心臓から脳髄に向かって迸った。間を置かず、アルベリクはローランに掴みかかろうと駆け出した。


 しかし、アルベリクの足は二歩と動かぬうちに、何かに躓いてしまった。身体が、若草の上に投げ出される。


 足元を覗き込むと、全身の骨を折ってひしゃげたアンリの死体が転がっていた。ちょうどアルベリクの膝の間に、血まみれの頭が横たわっており、その目は憎悪に燃えたまま、アルベリクの顔を見上げていた。


 ぬるりとした感触が、掌に伝わる。片手を持ち上げて見ると、掌全体が、真っ赤な血で汚れていた。

 視界の外から、ローランの声が届く。


「嬉しいです。これで、完全に貴方と同じになれた──」


 ローランの声が、耳の奥で異様に大きく響いた。アルベリクは目を固く閉じ、何度も頭を振った。


「違う! これは、俺の望んだことじゃない! こんなことは、望まなかった!」


「望むと望まざるとに関わらず、行動には必ず結果が伴います。そこに転がっている死体は、貴方の行いへの妥当な結果ではありませんか。僕は受け入れます。すべて取り込んで、拡大し、再生産します。貴方が為したことを、僕が引き継ぐのです」


 骨の折れるような乾いた音とともに、山小屋が瓦解してゆく。


「僕は、貴方のようになりたかったのです」


 今一度、ローランは同じ言葉を繰り返した。語る間に、どうしたことか、その声がわずかずつ変質してゆく。女性のように高くかすれた声は、太くはっきりした男の声に変わる。聞き覚えのある声だった。


 そして、彼の相貌もまた、ゆっくりと変化していった。流れるような金髪は癖のある黒髪に変わり、なめらかな顔は骨ばってゆき、顔には髭が生え始めた。空のような爽やかな青い瞳は、血のような緋色に変わってゆく──。


「──うおおっ!」


 己の叫び声によってアルベリクは眠りから目を覚まし、ベッドの上に跳ね起きた。


 月の光が窓から差し込み、部屋の中をぼんやりと青く染めている。小ぢんまりとした部屋──焼けたはずの山小屋の寝室だった。


 アルバールの夜に風はなく、部屋は静寂の中に沈んでいた。己の鼓動と荒い息の音ばかりが、やけに騒々しく鼓膜に響く。


 掌に目をやる。こびりついていたはずの血は、跡形もなく消え失せていた。


 その手の上に、白くなめらかな手が重なる。アルベリクはひどく驚いて、思わずその手を振り払った。


「アル……」


 声のした方に顔を向けると、ナタリーが不安げに眉を寄せて、こちらを見つめていた。


「ナタリー……。生きていたのか……良かった……」


 アルベリクは心底安堵して、大きなため息を吐いた。燃える山小屋も、ナタリーの死も、現実ではなかったのだ。


 次いで、彼は頭の片隅に、ちらと思った。いっそアンリの死も、ローランの狂気も、現実でなければどれほど良かったか、と。


 ナタリーのもう片方の手が、アルベリクの二の腕に触れた。掌は冷たかったが、その肌には、人間の命の気配が確かにあった。


 彼女はベッドの上に身を乗り出し、不安げな瞳で、アルベリクの眼を覗き込んだ。


「ねえ、アル。貴方、帰ってきてから、様子が変よ……? ……都で、何かあったの……?」

「何も……いや、何も、なかった」


 アルベリクは口ごもる。思考が混濁し、平静を装うという機転すら利かなかった。果たせるかな、ナタリーは彼の嘘を易々と見抜いた。


「嘘。聞かせて、なにがあったのか」

「何もないと言っているだろう!」


 アルベリクが声を荒らげると、ナタリーは明らかな落胆とともに、悲しげに目を細めた。


「まだ貴方は、私に隠し事をするのですね……」


 ナタリーは唇を震わせて、今にも泣き出しそうな声で呟く。即座に、アルベリクは己の暴言を悔いて、謝罪の言葉を口にした。


「隠し事じゃないんだ……ただ……」

「ただ?」

「……少し、悪いことが重なったんだ。だが、どれも、身から出た錆だ。俺のかつての行いが、そっくりそのまま、俺の身に返ってきただけだ」


 そう語るうちに、皇都での記憶が、再びアルベリクの脳裏に蘇ってきた。


 血に染まるグリアエ、赤く燃える大聖堂の屋根、遺産をめぐる醜い罵り合い、憎悪に歪んだアンリの相貌、火薬の匂いと耳をつんざく破裂音、全身の骨が折れる乾いた音、朽ち果てた大聖堂、薄汚い烏、糞にまみれた礼拝堂の床、愚かな己に倣う義弟の恍惚とした表情、酒瓶だらけの邸宅と、酒臭い女の口臭……。


 喉の奥からこみ上げる不快感を唾とともに飲み込んでから、アルベリクは重い口を開いた。


「……なあ、ナタリー」

「はい」

「俺は、君のような人と出会えた幸運に、心から感謝している」

「……ありがとう。嬉しいです、アル」

「だが、俺は、本当にこの幸せに値する人間だろうか」


 問いともつかぬその問いに、ナタリーは返事を寄越さなかった。しかし、アルベリクの腕を掴む彼女の手には、ゆるゆると力が込もってゆく。


 アルベリクは懐に手を差し入れると、ナタリーから贈られた二輪の薔薇の指輪を取り出した。大聖堂で、汚れを恐れて外してからこのかた、彼は一度もそれを身に着けてはいなかった。今も、己の指にそれを嵌める気には到底なれそうもない。


 しばらくの間、その美しい姿をじっと眺めた後、アルベリクは指輪を載せた掌を、ナタリーの胸元に差し出した。


「やはり、俺は、この指輪を持つに値しなかった。これは、君に返したい」


 神妙に、アルベリクが呟く。


 しかし、ナタリーは当惑するばかりで、決して指輪を受け取ろうとはしなかった。そこで、アルベリクは己の腕からナタリーの手を引き剥がし、その掌の上に指輪を滑り込ませた。


 どうして──。ナタリーの喉から、かすれた声が漏れる。アルベリクを見つめる眼に、涙が滲む。


 アルベリクは、しばしの間黙って、何を話すべきか考えていた。やがて考えが纏まると、彼はゆっくりと口を開き、静かに語り始めた。


「悪徳と欲望の中にいる間は、俺は俺自身を納得させられていたんだ。蹴落として、騙して、むしり取り、冷徹に切り捨てた……。その結果、呪詛の言葉を吐かれ、白い目で見られ、陰で密かに嗤われる……。それが似合いだと思っていた。それだって、ルカを殺したことへの償いにしてはちっぽけなものだが、それでも俺には似合いだと思ったんだ。隠れてコソコソ神様に賄賂を送り、みんなそれを知っていて俺を嗤い、挙げ句死んだら地獄行き。それが俺の正しい死に様だと思っていた。

 だが、今の俺には君がいる。美しく、心優しい君がいて、好きな宝石に囲まれ、あまつさえ、今まで見たこともないような宝物を、君が次々と作り出してくれる……。俺はその都度、童心に帰って胸をときめかせる……。

 だが、なあ、ナタリー。そんなことが、まかり通って良いのか……? 悪党が、罪の意識にも苛まれず、殺した奴らのことなどすっかり忘れて、穏やかに笑っているんだ。まるで、天国行きを約束できたような顔をして……。それが、ほんとうに正しいことなのか?」


 その問いにナタリーが答えようとするのを、アルベリクは手で制した。


「君が俺をどう評価しようが、俺はやはり赤目烏と呼ばれる男のままだ。だが、それで良いのだろう。ままごとは、もう終わりにして、仕事だけの関係に戻ろう。そうしたところで、俺たちはきっとうまくやっていけるはずだ」


 話が終わると、アルベリクは、指輪を握るナタリーの手を押しやった。

 ナタリーは唇を噛んで、手の中の指輪を悲しげに見下ろしていた。


 彼女は、ゆっくりと肺に大きく息を吸い込み、長い溜息を吐いた。それから、瞼を閉じて押し黙り、じっと考えを巡らせ始めた。アルベリクの提案に対し、彼女は彼女なりの答えを紡ぎ出そうとしていた。


 やがて、ナタリーは瞼を開き、その答えを口にした。


「貴方の思いは、私にも痛いほどよく分かります。亡くなった夫や、私を愛した男性方の家族が、今も悲しみの中にあるというのに、私は今も、のうのうと生きている。……あまつさえ、貴方という人に出会って、……恋をして……、小娘みたいに浮かれ上がって……」


 そこまで言って、ナタリーはふいに恥じ入るように黙りこくった。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げ、静かに言葉を続けた。


「……ねえ、アル。幸せは、無条件で手に入るものじゃないと、私は思うの。ときには、とても苦しい思いをしても、掴み続けなきゃいけないもの……。昔犯した罪や、誰かを傷つけた記憶が、貴方を(さいな)み、貴方を幸せから遠ざけようとする。でも、その呵責に膝を折って、捨て鉢になってはだめ。貴方を責める声に、飲み込まれてはだめ。貴方を貶す声にふさわしい人間になろうとしちゃ、だめなの。そこから逃げて、幸せの上澄みだけすくい取ろうとすると、余計に苦しくなってしまう」


 幼子を諭すように、彼女はアルベリクに対して全身で訴えかけていた。

 そして彼女は、アルベリクに対して、次のように振る舞うよう求めた。


 心の声に従い、真に正しいと思うように振る舞うこと。

 人の傷つきやすさに、敏感になること。

 かつて傷つけた者のことを毎日思い出し、懺悔と共に祈ること。


 そして、これから先、自分たちが身に受ける幸福は、自分たちだけのものではなく、亡くなった者たちから奪ったものだと忘れないようにすること。


 アルベリクは険しい表情のまま、彼女の言葉を聞いていた。その頬を、ナタリーの手がゆっくりとさする。


「……負けないで、アル。自分自身の心は、いつだって乱暴で、とても恐ろしいもの……。私も、貴方も、ひとりぼっちでは、きっと負けてしまう。でも、今はもう、違います。ほら、私の魂は、いつだってここに……貴方と共にあります。私のそばにだって、いつも貴方がいるのです。だから、どうか挫けずに、一歩一歩、一緒に歩いてゆきましょう」


 白い手が、アルベリクの右の薬指をそっと取って、そこに薔薇の指輪を滑り込ませる。アルベリクは、彼女の成すことをただ呆然と見守ることしかできなかった。

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