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第十八章(3) リアーヌ邸

 凶事というのはどうして、一時にまとめてやってくるものである。


 ブランシャール家のお家騒動が一応の収束を見たのもつかの間、今度は事業の方に蹉跌(さてつ)の影が忍び寄り始めていた。


 ブランドとしての『リアーヌ』の評判に、翳りが見え始めていたのである。


 といって、ナタリーの作品に瑕瑾(かきん)があった訳ではない。彼女の作品は常に一定以上の水準を超えており、作品それ自体を貶める声は、アルベリクの地獄耳をしてもついぞ聞くことはなかった。


 問題は、『指人形』サラの素行にこそあった。社交界や巷間での彼女の悪評が、いよいよ無視できないものになりつつあったのだ。


 立て続けに問題に見舞われ、アルベリクは疲労困憊の極致にあった。だが、この問題を放置していては店の屋台骨が崩れかねない。加えて、サラを御することのできる人間は、アルベリクしかいないときている。


 重い体を引き摺りながら、アルベリクはサラの住む邸宅に足を伸ばした。


 屋敷に入り、まず驚かされたのは、邸内の汚さだった。

 酒瓶やら読み散らかしたタブロイド紙やら、脱ぎ散らかした服やら下着やら、くしゃくしゃに丸められた紙くずやらが、邸内の至るところに散乱していた。

 食堂の横を通ると、なんとも異様な、すえた匂いが鼻を突く。夏真っ只中こともあって、食べ残した食事や洗っていない食器に小蝿がたかっている。


 店から金を出してでも、彼女のために家政婦を雇う必要があると、アルベリクは痛感した。


 小広い邸宅内をしばらく探した挙げ句、こぢんまりとした化粧の間の中に、ようやくサラの姿を発見した。彼女はネグリジェ一枚の姿で、大量の酒瓶の山の中に埋もれるようにして横たわっており、淑女にあるまじき大いびきをかいて泥のように眠っていた。


 アルベリクは頭の片側に軽い痛みを覚えつつ、彼女の肩をそっと揺すぶった。


「おい、サラ、起きろ」


 サラは眉間に皺を寄せ、煩わしげに呻くと、薄目を開けてアルベリクの方を睨んだ。その瞼が僅かずつ開くにつれ、どろんとした瞳の中に光が宿ってゆく。


 その瞳が焦点を定めた瞬間、彼女の瞼がふいにさっと見開かれた。


「アル……! うそ……帰ってきたの?」


 サラは勢い込んで身を起こしたものの、腕で身体を支えきれずに倒れ込みそうになる。すんでのところで、アルベリクがしゃがみ込み、彼女の身体を受け止めた。


 しっとりとした柔肌の感触が、アルベリクの腕に触れる。きめ細かく、吸い付くような肌──。


 余計な劣情が沸く前に、アルベリクは彼女の体勢を整えて身体を離した。その刹那、サラの睫毛の奥に、寂しげな光がちらついた。


 ──わざと、身体に触れさせたか……。


 アルベリクはうんざりして、彼女から顔を背けた。


 サラはゆるゆると立ち上がると、手近の椅子の上の酒瓶を()けて、そこに腰掛けた。背もたれに掛けられていたカーディガンを手で引き寄せ、両手で前身頃を胸元に掻き寄せた。


「夢じゃないわよね。久しぶり……会いたかったわ……。ちょっと、やつれたかしら……?」

「呑みすぎだ、サラ。なんだ、この酒瓶の山は? 酒は控えろと、何度も言っていたはずだろう」


 アルベリクがやんわりとたしなめると、サラは子供のように唇を尖らせ、口の中でもごもごと言い訳をしはじめた。


「……しょうがないじゃない……貴方が、来てくれないから……」

「俺も俺で忙しいんだ」

「うそ。私なんかと居るより、『本物』と一緒に居る方が良いんでしょう」


 咎めるような目で見上げられ、アルベリクは一瞬言葉に詰まる。


 彼女の言い分は、半分当たっていた。その気になれば、サラに顔を見せる時間を捻出することはできたはずである。だが、彼はどうにもそうする気持ちになれなかった。訪れれば、今のように深酒したサラの悪絡みに付き合う羽目になるとわかり切っていたからだ。


「今日はそんな話をしに来たのではない」


 アルベリクはにべもなくそう言って、うまいこと話をはぐらかした。彼は床に転がる酒瓶を蹴散らし、空いた隙間に椅子を移動させると、そこに腰掛けた。


「今日は、君の破綻した生活と、普段の振る舞いについて、どうしても俺から直接言っておかねばならんことがあって来たんだ」

「まあ、嬉しい。どんなお話をしてくれるの?」


 皮肉めかした冗句を吐きつつ、彼女は手酌で机の上のグラスに酒を注いだ。琥珀色の蒸留酒が波を打ち、グラスの端から溢れる。サラは幸せそうに舌なめずりして、そのグラスを口元に近づけた。すると慌ててアルベリクが手を差し伸ばし、彼女の手からグラスをひったくった。


「まず、この破滅的に汚い屋敷についてだが、敢えて君には何も望まん。家政婦を雇うぞ。厭とは言わせんからな」

「はあい……」


 酒を奪われたサラは、あからさまに落胆して、机の上に突っ伏した。


 アルベリクはグラスを己の鼻先に近づけると、中の琥珀色の液体を僅かばかり口に含んだ。すると、口腔から鼻腔にかけて、芳醇な香りが広がる。上等のブランデーだった。


 ナタリーの作り上げた極上の品々が、巡り巡って極上の酒に変わり、その酒が一人の女の生活を破綻させている。そうと思うと、アルベリクの胸中に、いかんともしがたい虚しさが広がるのだった。


 彼は大きなため息を吐いてから、憐れむような視線をサラに向ける。


「君は、自分が世間からなんと呼ばれているか知っているのか」

「……知っているわ。傾国の毒婦、でしょう?」


 サラは自分の腕に顔を埋めたまま、くぐもった声で答える。


「でも、アル。私がそれらしく振る舞えば振る舞うほど、本物の毒婦から世間の目をそらすことができる。私はただ役割を演じているだけ」

「本物の毒婦とは誰のことだ」

「決まっているでしょう。貴方の大好きな『本物』のことよ……」


 アルベリクの眼の端が、苛立たしげに痙攣する。


「彼女のことを毒婦呼ばわりすることは許さん。たとえ君であってもだ」


 ふ、と、鼻で笑う声が聞こえた。サラは机の上からゆっくりと起き上がると、挑みかかるような眼でアルベリクを睨みつけた。


「眠れる獅子を目覚めさせ、皇后陛下と神の使いの虐殺に誘った、魔性の娘──。そう呼ばれているのは、私ではないわ。『絹の涙』と、その作り手でしょう。私はただ演じているだけ。演者に罪があるのなら、次に焼き討ちにすべきなのは皇都の劇場でしょうね」

「演じるなら清廉潔白な一介の技師を装え。人気に驕って享楽の限りを尽くす悪女の役など演じるな」

「私はただの身代わり。その女だって、皇都の社交界でちやほやされていれば、いつかは私の演じる通りの振る舞いをするようになるわよ。リアリズムが持ち味なの、私の場合」

「そうやって、自分の行動を正当化するのがプロの仕事か? 評判が落ちている今だからこそ、造り手に罪がないことを、君が身をもって示さねばならんだろうが」

「いまさら遅いわよ……。一度ついた評判はそう変わらないし、私も変えるつもりはない。これが、私やあの女にお似合いの姿なのよ」


 呟いて、サラはどこからか取り出した小瓶の口を開け、中身を喉に流し込んだ。アルベリクはその小瓶もひったくり、中の匂いを嗅ぐ。酢になる直前といった風情のツンとした匂いが鼻を刺す。酔うために飲むような安酒だった。


 サラは椅子の上でぐったりと項垂れて、呻くように呟いた。


「貴方はあの女にご執心。そりゃそうよね、あれだけのものを創る才能があるんだから。……私にはない、才能」

「サラ、君にはその美貌がある。一生遊べる金も手に入った。社交界での人脈もできつつあるし、いまや名声もある。付け加えれば、五体も満足で子供だって産める。貧民街出の娘としては最上の出来だ。いったい何が不満だ?」

「ねえ、アル。貴方、その女のことは抱いたの」


 唐突に訊かれ、アルベリクは喉を詰まらせた。


 その刹那、アルベリクの脳裏に、ナタリーの姿が蘇った。彩火の祭の夜空の下、街を彩る灯籠の光。その光に照らされ朧に浮かび上がる、彼女の美しい横顔が。


 次いで、舌の奥にうずくような感覚が蘇る。雪解けの山小屋で、新芽を前にして味わった彼女の唇と舌の感触。引き合うような、離れがたい感覚。そのまま、彼女の全てを手に入れたいと願った、その強い感情。そうした諸々の感覚や思いが、次々と、鮮やかに、アルベリクの中に舞い戻ってきた。


 ──抱けるものなら……。


 己の中に吹き荒れる感情を押し殺し、アルベリクは呻くように呟いた。


「……今は、君の話をしているんだ」


 すると、アルベリクの懊悩を見て取ったか、サラは我が意を得たりとでもいうふうに、歪んだ笑みを見せた。


「図星、ね……。じゃあ、私も抱いてよ。私がその女の替え玉っていうのなら、それがフェアじゃない?」

「勘違いするな。彼女のことは抱いていないし、君を抱くつもりもない。古馴染みの君なら、分かるはずだ。俺は君に、そのような気持ちを持てない」

「分からないわ。なぜ? 私が陰で高級娼婦と呼ばれてるから? それとも、私が貧民街の雑巾みたいな娘だったから? 情けをかける気もないなら、なんで私を身代わりなんかに選んだの?」

「君を選んだのは、君に適性があったからだ。君は無名で見栄えがよく、弁も立ち、専門知識を持っている」

「つまり、貴方にとって、私など石を磨くためのヤスリみたいなものでしかなかったと、そう言いたいのね」

「それは、君だけじゃない。俺だって、彼女を輝かせるためのヤスリにすぎない」

「……唯一無二の、ね。そこだけは誇って良いのかしら」

「世の中の人間の大半はそうだ。より素質あるものを輝かせるために生きている」

「……ねえ、詭弁はもうたくさん。本音で答えて。貴方にとって、私は何? なぜ、私みたいな二流の技師を拾い上げてくれたの? それって、私のことを気遣ってくれたからじゃないの? ねえ、アル!」


 がたりと椅子を蹴り、サラはよろよろと立ち上がった。だが、すぐに膝の力を失い、床に突っ伏した。

 アルベリクが彼女を支え起こそうと立ち上がる。すると、サラは床の酒瓶を転がしながら、アルベリクの膝にすがりついた。


「貴方は、まだあの頃の貴方なのよね……? 優しかった、見習いアル……」


 そんなサラの姿を、アルベリクは憐れむように見下ろしていた。一瞬、彼の手がサラの頭を撫でようと伸ばされたが、その意思が遂げられることはなかった。アルベリクは手を下ろすと、眼下のサラに向かって断然と言い放った。


「──サラ。この際だから、はっきりしておこう。俺は、彼女に何もかも捧げると決めたんだ。俺の全ては、彼女のためにある。といって、決して変な意味ではない。純粋に、一人の人間として、彼女に尽くすつもりでいるんだ。だから、君もつまらない男のことなど忘れて、新しい生き方を真剣に考えるべきだ」


 膝にすがりつく腕を、アルベリクはそっと外して立ち上がった。


「……俺は帰るぞ。いいか、身体にはくれぐれも気をつけろ。何しろお互い唯一無二の身だ」


 アルベリクが部屋を出ようとするまで、サラは呆然と彼の姿を見守っていたが、やがて弾けるように立ち上がり、手近な酒瓶を勢いよく投げつけた。酒瓶は部屋の壁に衝突し、激しい音を立てて砕け散った。


「……ばかにしないでよ。ばかにしないでよ! 私は人よ! 技師よ! 女よ! ヤスリなんかじゃない! あんたとは違う!」


 サラは、滂沱の涙を流しながら、喚き散らす。一方のアルベリクは、砕けた酒瓶を一瞥しただけで、サラの方にはもう見向きもせず、部屋を出ていった。


 部屋の外に出たアルベリクの耳に、サラの声が聞こえてくる。


「何もかも捧げるって……。あの人の何もかも独り占めにするの……? ……そんなの……ひどすぎる……。私は、もうどんなに求めたって、ほんの爪の先ほどの欠片すらもらえないのに……」


 アルベリクの足が、一瞬、止まった。彼女に、一度くらい情けをかけたところで、ナタリーは許してくれるのではないか。そんな考えが、ちらと頭をかすめる。サラの方とて、それで機嫌を直してくれれば、素直に言うことを聞いてくれるかもしれない。


 だが、アルベリクの踵が返ることはついになかった。


「すまない、サラ……」


 出口に向かって歩きながら、アルベリクは口の中で、誰にともなく呟いていた。

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