第十八章(2) 馬車・大聖堂跡地
遺産に関する争議が済んだ後のこと。
アルベリクは、皇都の住宅街にローランを馬車で送ることになった。ローランは今や、ブランシャール家の一員である。曲がりなりにも家族である人間を、徒歩で帰らせるわけにはいかなかったのだ。
天蓋なしの二輪馬車である。御者はおらず、手綱はアルベリクが握っていた。ボックスの中で、男二人が窮屈そうに肩を寄せ合って座っている。
手綱を握るアルベリクは、平静を装ってはいたものの、心中はさほど穏やかではなかった。未遂とはいえ、部下に裏切られ、財産を奪われかけたことは、彼の心にひどい憔悴をもたらしていた。
一方のローランといえば、こちらは全く穏やかなもので、満面に微笑みを浮かべて、流れる景色を楽しんでいる。
そのローランの様子を見咎めて、アルベリクが話の口火を切った。
「ぼちぼち、説明して貰う必要があるな。あれはどういう了見だね」
気をつけてはいても、声は自然と不機嫌なものになる。
ローランはその問いに答えず、静かに微笑みながら飄々と呟いた。
「……泰皇陛下との謁見以来、なかなかお話する機会がありませんでしたね」
「そうだな。色々と裏を取る必要があったものでな」
「裏とり……ですか。謁見の場で、何かの調査でも依頼されたのですか?」
「そういう白々しいやりとりは、そろそろやめにしないか。義理とは言え、もうお互いに家族になったのだろう」
「そうですね。家族に──喜ばしいことです」
目を閉じ、しみじみと呟くローラン。ややしてから彼は目を上げ、はにかんだような笑顔をアルベリクに向ける。
「どうお呼びしましょうか。義兄上……などというのは? ふふ……少し気恥ずかしいですね」
「君がそれほどルイーズに入れあげているとは、思わなかったよ」
見ている方が恥ずかしくなるほどの浮かれっぷりに、アルベリクはため息を吐いて閉口した。
ローランはどうやら己の事業に関して、直接的な言及を避けたがっているらしかった。アルベリクとしても、この件は未だ十分な情報を得られておらず、今踏み込むのは得策ではないと考えていた。
馬車は繁華街のブランシャール宝石店の前に近づいていた。繁華街を抜けてから住宅街に向かうのが近道だったのだ。
店の方を眺めていたアルベリクは、訝しげに眉を寄せた。
店の前に、不審な男の姿があった。その男は店の正面玄関と裏路地を行き来しながら、しきりに店内の様子を探っている。
男の顔が、何気なくこちらを向いた。すると、見る間に、男の表情が鬼の形相に変わってゆく。
彼は玄関の前から街路に飛び降りると、馬車に向かって猛然と駆け寄ってきた。
男の顔を、アルベリクはよく知っていた。それは、かつてブランシャールに勤め、アルベリクが自ら追い出した男──アンリだった。
彼は馬の横をかすめて馬車の中に飛び乗ると、その勢いのままアルベリクの上にのしかかった。
アンリの手が、己の懐を探る。懐から引き抜かれた手には、光る何かが掴まれていた。ナイフだ。
刃を掴むその手を天高く振り上げ、彼は憎悪を込めて叫んだ。
「死ね! アルベリク・ブランシャール!」
今しも凶刃が振り下ろされようとするその時、隣に座っていたローランが、アンリに向かって腕を突き出しつつ叫んだ。
「耳をふさいでください!」
直後、甲高い破裂音と共に、アンリの顔が横っ飛びに弾け飛んでいった。耳をふさぐ暇などありはしなかった。
アンリの身体は馬車の片方の車輪に巻き込まれて地面に落ち、木片が折れるような音と共に車輪の下敷きとなった。
馬が狂ったように嘶いて、前足を上げる。先程の音を聞いて恐慌状態に陥ったのだ。直後、馬はアルベリクの静止も聞かず、市場の中を疾走し始めた。
進行方向に、街路を歩く人の姿がいくつもあった。アルベリクは、彼らに向かって声を張り上げる。
「退け! 馬が暴走している!」
すんでのところで人々は馬車に気づき、路肩に飛んでどうにかやり過ごしてゆく。
馬は、住宅街とは反対側の教会街まで走って、ようやく落ち着きを取り戻した。アルベリクは馬をなだめすかして足を止めさせると、馬車を降りて近場の街灯の柱に手綱を結びつけた。馬は汗をびっしょりとかいて荒い息を吐いており、一度休ませなければ住宅街には戻れそうにない。
アルベリクにしても、動転する気持ちを落ち着かせる時間が必要だった。
大きく深呼吸をして、周囲を見回す。
教会街は、先般行われた大規模な焼き討ちにより、廃墟のごとき様相を呈していた。大聖堂にしても、美しいステンドグラスをはめ込んでいたバラ窓は、壁ごと崩れて見る影もない。
周囲には貧民街から流れてきた浮浪者の姿が、ちらほらと見受けられた。かつてベツレヘム教の縄張りだった場所は、すでに暗黙のうちに貧者の縄張りと化しつつある。この教会街が細民窟に姿を変えるのも、時間の問題であろう。
馬車から降りたローランが、アルベリクの横に立ち添い、同じ風景を見やる。アルベリクは彼の方には目をやらず、崩れた聖堂の屋根を見つめたまま、呻くように呟いた。
「あれは、アンリだった……」
馬車に駆け寄ってくるアンリの恐ろしい形相が、アルベリクの脳裏にこびりついていた。その表情のまま、彼はこめかみから血を吹き出し、回る車輪の下敷きになって死んでいった。
耳の中に、骨が砕けた時の板の割れるような音が、繰り返し反響する。既に思い出したくもない光景の筆頭であるにも関わらず、その記憶は幾度となく脳内で反芻され、その度に鮮明さをいや増してゆく。
アルベリクは苦悶に顔をしかめながら頭を振った。
一方のローランはというと、どういうわけか、至って冷静なものだった。
「アンリはブランシャールを辞めた後、結局職につけず、酒浸りの日々を送っていたようです。娘さんは、結局病死したとか」
普段と変わりない穏やかな声で、どこか他人事のように彼は語った。
「……なぜ、君がそんなことまで知っている、ローラン?」
「人づての噂ですよ。しかし、まさかあのような凶行に及ぶとは思いもしませんでしたが……。恐ろしいことです」
そう呟くローランは、少しも怖がっているようには見えなかった。むしろ、愉快そうな微笑みすら浮かべている。
アルベリクは、己の腹の底に煮え立つような苛立ちを覚え始めた。彼はローランを睨むと、その胸元に手を差し伸べて言った。
「さっきのはなんだ、見せてみろ」
ローランは微笑んだまま、懐に手を差し入れる。取り出したのは、小型の銃だった。先程の破裂音は、この銃から発せられたものなのだろう。
ローランから銃を受け取ったアルベリクは、その形状を矯めつ眇めつ眺めた。
「これが、君の『商品』か……」
「片手で扱える六連回転式小銃です。東国で開発されたものを、私が工場ごと買い取りました」
アルベリクは、目を上げてローランを睨みつけた。
「──ついに、馬脚を現したな」
「それが、命を救った相手に向かって使う言葉ですか?」
ローランは、そう言って苦笑する。
彼は崩壊した大聖堂の方を見やり、静かに呟いた。
「……ここは少し、風が強いですね。中に入って話しませんか」
アルベリクが肯うと、ローランは近くに座り込んでいた物乞いの少年を手招きして呼び寄せた。少年は施しを期待し、目を輝かせてローランの元に駆け寄ってくる。
ローランは少年の手に銀貨を載せる。彼の家族全員が、一日は食っていける額だ。
「馬を見張ってくれ。戻ってくるまで無事なら、追加でこの三倍を払う。盗んだほうが得だ、などとは考えるなよ。これは、ブランシャールの赤目烏の馬車なのだから」
少年は、赤目烏の名を聞いた途端、にわかに怯えたように顔をこわばらせ、大きく何度も頷いた。そして、すぐさま踵を返すと、周囲に屯する浮浪者たちをぐるりと睨め回して、叫んだ。
「てめえら、この馬車に変な色気を出すんじゃねえぞ! 赤目烏様の馬車だ! 失われたとなれば、どこに逃げ隠れしても、あの緋の眼が居場所を見つけ出して、その嘴が胸から心臓を引き摺り出すぞ!」
周囲はしんと静まり返り、風の音しか聞こえなくなった。遠巻きに見守っていた浮浪者たちの中には、そそくさと逃げ去る者の姿すらあった。
アルベリクは不機嫌に顔をしかめ、ローランを見やった。
「どうなっているのだ、俺の評判は」
「名誉なことですよ。この街では」
「あんな物乞いの少年にまで、名前を知られているとはな」
「もはや、皇都で貴方の名を知らぬものはありません。『悪いことをしていると、赤目烏がやってきて、お前の心臓から宝石を抜き取ってしまうよ』。母親がむずかる子を躾ける時の常套句だそうですよ」
「悪鬼扱いかね……」
二人は連れ立って、外れかけた扉の隙間から大聖堂の中に入り込んだ。
大聖堂の中は、天井が崩壊していることもあって、存外に明るかった。だが、崩壊した礼拝堂の中で祈りを捧げる者の姿は、もはやどこにも見当たらない。
代わりに目についたのは、ここにも入り込んだ浮浪者たちであった。彼らはどこかで獲得してきた残飯に食らいつき、食べかすを床に散らかしている。その食べかすを狙って、人を恐れぬ烏が彼らの足元に集っていた。
ローランは、礼拝堂に残された長椅子の端に座り、アルベリクを招いた。アルベリクは、僅かに間を開けて、彼の隣に座る。
荒廃した礼拝堂を一瞥して、アルベリクが呟く。
「無残だな……」
すると、眉一つ動かさず、ローランはこう言い捨てた。
「己の撒いた釘を己で踏み抜いただけでしょう。教会の退廃は目に余るものがありました」
──自業自得。今のアルベリクには重く響く言葉だった。アンリの今際の顔が、再び脳裏に蘇る。
身体の芯に震えを感じ、アルベリクは思わず右手の指輪に触れかけた。だが、指輪に触れる寸前に、彼のその手は止まった。
指輪は、変わらぬ輝きを保ったまま、空の青さを映して美しく輝いていた。人の醜さも、アルベリクの愚行も、世の穢れを何一つ知らぬがゆえに、指輪は永遠の美しさを保っていた。
残飯を啄んでいた烏が一声鳴き、飛び立ちざまに聖堂の床に糞をたれた。それを見た瞬間、アルベリクは衝動的に手から指輪を外し、ハンカチに包んで懐に収めた。頭を垂れて、遥か彼方の伴侶を想う。懺悔とも悔恨ともつかない、苦い感情が喉と胸の奥に染み出してくる。
ややあって、アルベリクは顔をもたげる。殺伐とした厳しさが、その面相に宿っていた。
「──義父上を殺したのは、お前か……?」
「まさか!」
ローランは目を丸くして首を横に振った。だが、アルベリクの疑念は、そんな答えひとつで晴れるわけがなかった。
「義父上は、心臓を一突きで殺されていたそうだ。そこいらの野盗にできることではない」
「それは、単に、刃の当たりどころが悪かったのでは……」
「君には動機がある。義父上は、君の新事業に反対していた。君の事業を進めるにあたって、義父上の存在は邪魔だったのだろう」
「……確かに、私と義父上の間には若干のわだかまりがあったかもしれません。それは認めましょう。ですが、だからといって、実際に凶行に及ぶわけがないでしょう。ルイーズだって、いつも言っていたのでしょう、殺してやりたいって。でも、実際にはそんなことはしなかった」
僕だって同じです、と、ローランは続ける。それからふっと笑いを漏らし、こう付け加えた。
「……そもそも、よしんば僕が殺したとして、それを今ここで正直に白状すると思いますか……?」
アルベリクは見逃さなかった。呟くローランの瞳の中に、ほんの僅か、妖しい光が瞬くのを。
──この男は、間違いなく、やっている。
確信が宿る。だが、確証はない。証拠がなければ、これ以上ここで問答していても無駄であろう。
アルベリクは頭を振って、話題を移した。
「──わかった。義父上の件はもういい。問題は他にもある。君の新事業……武器の売買か。泰皇陛下にも一万挺の銃を納品するそうだな」
「ええ、ご存知でしたか」
嬉しそうに笑みを見せるローランを見て、アルベリクは顔をしかめる。
「君は、自分のやろうとしていることがわかっているのか? 人を殺すための道具を、作って売りさばこうとしているのだぞ」
「そうですね、僕はもっと早くこの事業を進めるべきだったかもしれません。そうすれば、僕はアンリを雇うことができた。彼の娘も死なずに済んだかもしれません」
詭弁だ──。アルベリクは胸の内で毒づく。彼の理屈は一理あるが、ならば武器販売以外の事業で人を雇えば良いはずである。
アルベリクはうんざりしたようにため息を吐くと、俯き加減に呟いた。
「──ブランシャールは宝石店だ。人の喜びと、幸福のために我々は──」
「ハハハ、あの老人と同じことをおっしゃるのですね。赤目烏と恐れられている方の言葉とは思えません」
「皮肉か」
「違います。貴方を讃えているのです。わかりませんか。この皇都では、稼ぎ、踏みつけ、成り上がった人間だけが正義であり、真実であり、善人なのです」
「その行き着く先を、お前は今しがた見ただろう。あのアンリの姿を。俺のような人間が、お前の言うように生きるなら──」
「それは当然ですよ、義兄上」
ローランは、アルベリクの言葉が終わるのを待たずに口を開いた。
「誰かが富や幸福を手に入れたら、その対価は支払われなければならないんです。犠牲も対価も払う覚悟のない人間が、富を求めてはいけない。貴方から教わったことです、義兄上。
幸せだけを手に入れて、安穏と死ぬことなどできはしません。もしもそれができる人間がいたとすれば、他の誰かがその尻拭いをしなければなりません。
それが彼らです。彼らの死の上に僕たちの幸福は成り立っています。そして僕は、それを全肯定します。全て覚悟の上で、僕は幸せになろうというのです」
ローランは言葉を切ると、満足げな表情で、破壊された大聖堂を見回した。
「これからは戦争の時代が始まります。泰皇派と教皇派に分かれ、大陸全土に飛び火する戦いが……。
その中で誰が勝者となるかはわかりませんが、確実な需要が一つあります。──それはもちろん、武器ですよ。
このような場面に備え、僕は前々から武器の買収に努めてきました。また、安価に武器を得られるルートも確保しています。皇国を守るための武器は、ゆくゆくは全て、ブランシャールが取り仕切ることになるでしょう」
ローランは、死の商人になるつもりなのだ。あるいは、旗色次第ではパヴァリアや教皇軍への密輸もやりだしかねない。
アルベリクは、もう一度長い溜息を吐く。痛み出した頭を抑えつつ、彼は呻いた。
「君の言わんとすることは、概ね判った。──だが、残念だったな。俺が管財人になる以上、君への融資の機会は永遠に訪れない」
「義兄上が管財人である以上は、そうでしょうね。ですが、これは所詮第一幕に過ぎません。有利なカードは僕の手元にあります。ブランシャール家は僕がゆっくりと蚕食し、いずれはすべて平らげてみせます」
「ローラン、貴様……!」
「勘違いしないでください。これは、僕なりの最大限の敬意なのです。師を──父を超えることこそが、子として為せる最高の恩返しなのですから」
そこまで言うと、彼は人懐っこい笑顔を作り、はっきりとこう言いきった。
「ただ僕は、貴方のようになりたかったのです」