第十七章(5) 聖地グリアエ・四季の家2
ジルベールは、手にした長剣を大きく一振りし、ゆっくりと腰の鞘に収めた。素人目に見ても、その所作は剣の扱いに慣れた者のそれであるとわかる。
彼は段の上から腕を組み、傲然と笑ってアルベリクを見下ろした。
「はじめまして、じゃあねえよな、赤目烏。そんな不義理を言われたら、俺は寂しくて泣いちまうぜ」
「ジルベール・ガロア……なぜ……」
アルベリクが驚愕する様を見て、ジルベールはさも愉快そうに笑った。
「驚いたか。そうだろうな。お前の驚いた顔が見たくてよ。これからも長い付き合いになるんだ。挨拶は派手にやらねえとな」
ジルベールが笑って肩を揺らすたびに、彼の着る金刺繍の衣や、身につける宝飾品の数々が瞬く。彼が頭に頂く王冠には大粒の真紅の宝石が嵌め込まれており、それが彼の身分を証立てているかのようだった。
そして、彼の胸には、勲章のごとく揺れる『絹の涙』の姿があった。第二皇子が、泰皇に献上したはずの品である。それが、今、ジルベールの胸で妖しい輝きを放っている。
並べ立てられた証拠を前にしても、アルベリクは未だに、彼が本当に泰皇であると信じられずにいた。それゆえ、彼は思わず、無作法に問うた。
「……なぜ、お前がここに……?」
「決まってるだろ。俺がガロア皇国の泰皇だからだ」
「……莫迦な」
「冗談に聞こえるか? だが、真実なんだよ。さっき俺が話してたのを、お前だって聞いてただろ?」
確かに言われてみれば、彼の声は、貧民街の酒場で聞いた声に相違なかった。
それでもなお、アルベリクは彼の言を信じようとしなかった。彼は、己が白昼夢を見ているものと疑い、それを振り払うために頭を振った。
ふと泳がせた視線の先の段上に、横たわる神官たちの姿があった。白い大理石の上に鮮やかな赤色の血が広がっており、神官たちはその血の池の中に沈むように倒れている。微塵も動く気配はない。
倒れる神官たちの姿を震える指で指し示し、アルベリクは喉から声を絞り出した。
「神の口耳が……血が……」
「ああ、神の御威光とやらで復活するなら厄介だったが、どうやらそんなことはなかったな。あるいは、こいつらは復活できる程の聖性が無いにも関わらず、神の代理人を気取っていやがったのか。まあ何れにせよペテン師には違いなかったってわけだ」
「……殺したのか……」
「ああ」
こともなげに、ジルベールは頷いた。
「なぜ」
アルベリクの質問に、ジルベールはすぐには答えなかった。彼は突然踵を返し、横たわる神官の一人に近づいていった。そして、慄くアルベリクの見ている前で、その身体を踏みつけ、思い切り足蹴にしはじめた。
「先日、俺の影武者が殺されてな。状況から推察するに、犯人はこいつらでまず間違いがねえ。おおかた、教皇からの暗殺指令が出たか、マドレーヌの仇討ちか……」
遺体はジルベールの足に何度も蹴られ、段を転がり、最後には水飛沫を上げて水路の中に沈んだ。ジルベールはすぐに別の死体に目をやり、また同じように蹴り飛ばし始めた。
「……くそ、こいつ重いな、ブクブク太りやがって」
ジルベールがぼやくと、影法師の一人が前に進み出て呟く。
「片付けます」
「ああ、頼む」
手をひらつかせて答えると、ジルベールはもう興味を失ったように死体の傍から離れた。
「目障りだったのなら、すまんな。すぐに片付く。で、他に訊きたいことは?」
再び眼前に戻ってきたジルベールは、爽やかに笑いながらそう宣った。しかしその眼には、これ以上この話題に触れるなという言外の圧が感じられた。
様々な出来事が一挙に訪れたことに加え、暴力への恐怖も相まって、アルベリクの思考は、すでに混乱の極致にあった。模糊とする思考を整理しようとして、アルベリクは今一度、確かめるように尋ねた。
「泰皇……泰皇陛下……?」
「そう言ってるだろ、さっきから」
「では、貧民街の酒場に入り浸っていたのは、いったい……?」
「だから、それが俺だってんだよ」
「泰皇陛下ならば、執務を疎かにはできないはず……」
食い下がるアルベリク。しかし、ジルベールはその言葉を一笑に付した。
「執務ってのは、謁見やら教会へのご機嫌伺いのことか? ハッ! あんなもん、猿回しの曲芸と同じだぜ。予め決められた通りの受け答えやら作法さえ覚えてしまえば、誰がやろうと同じことだ」
アルベリクは呻いた。影武者がいれば、お忍びで禁中から離れるだけの余裕は生まれるかもしれない。下町訛りが強いのも、貧民街の人々と交流する中で身につけたものと考えれば合点がゆく。
おそらく泰皇は、パヴァリアの傀儡となることを良しとせず、自ら密かに巷間に入り、国の実情の把握に努めていたのではなかろうか。
宮中で神官たちから語られる世情と、国の実情にどれほどの乖離があったのか。それはアルベリクの知る由もないところである。だが、皇后が泰皇を評して語った『豹変』は、そうした巡察の結果だったのかもしれない。
アルベリクは戸惑いつつもなお、質問を続けた。
「……なぜ、宝石商などに身をやつして……いらしたのですか」
「もとは純粋に宝石が好きで、道楽で始めたんだがな──色々あって、国庫から旗揚げ費用を引き出す手段になった。しまいにゃ、そっちの目的の方がでかくなっちまった」
そう言って、ジルベールは寂しげに笑う。
初めてジルベールと出会った時のことを思い出す。
稀少石とはいえ、石一つに五十億クルトも請求するのは明らかに法外だった。だが、実際にはその金額は石の費用などではなく、兵や武装その他の調達、有力諸侯の懐柔費用等に充てられたということなのだろう。
おそらくこの男は、こうやって多額の資金を国庫から着服し、反逆の準備に充ててきたのだ。
つまるところアルベリクは、己の預かり知らぬうちに、眼前の男の策謀に加担してしまったことになる。
アルベリクが険しい表情のまま黙考していると、ジルベールは焦れたように唸った。
「このまま、そこに転がっている奴らが腐り果てるまで、俺の来し方の思い出を一切合切語るってのも悪くないが、生憎それほど余分な時間はねえ。納得してもらうしかねえだろうな」
納得などできようはずもないが、現実は現実として受け入れねばならないことを、アルベリクとて理解していないわけではなかった。
だが、眼前の光景は、受け入れるにはあまりにも現実感に乏しい。
先程まで横柄にこちらを見下していた神官たちは、既に遺体となって、影法師の手によって次々と水路の中に放り込まれてゆく。
影法師は漆黒のフードを目深に被り、同色の装束に身を包んでおり、その素肌も顔も、一切見て取ることができない。その姿は天窓からの光を受けてなお黒く、まるで彼らの居る空間に、人の姿をした巨大な穴が空いているかのようだった。
ジルベールは、その影の塊を顎で指し示し、唇を歪めて笑った。
「こいつらは、こんな時のために選りすぐった精鋭だ。人を殺めることに関して、こいつらの右に出るものは、半島広しといえどそうはいねえ。これからも、諸々の場面で活躍してもらうことになるだろう」
剣呑な言葉が、次々とジルベールの口から放たれる。
その相貌は、もはや貧民街の酒場で管を巻いていた、あの宝石商のそれではない。野望と力とに魅入られた男の顔であった。
ジルベールは、血に汚れていない段に歩みゆくと、そこに座り、再びアルベリクに相対した。
狼のように鋭い目が、冷たくアルベリクを見据える。
「ときに赤目烏よ。お前はマドレーヌの奴にまで媚を売って、宝飾品を作ってやっていたらしいじゃねえか」
アルベリクの心臓が、早鐘を打ち始める。冷たい汗が幾粒も額から吹き出し、顎の先まで伝い流れて、庭園の下生えの中に幾滴も落ちてゆく。
ジルベールは言葉を切って、その手で、腰に差した剣の柄頭を握りしめた。
「ベツレヘム教は、この国を蚕食する害虫だ。そんなものに与する奴を生かしておくわけにはいかねえ」
咄嗟に、アルベリクの舌が言い訳を繰り出した。
「恐れながら、私が皇后陛下のご入用に応えましたのは、よんどころない事情があってのこと……」
「誰が言い訳を許した?」
冷たく言い放つジルベール。アルベリクは、もはやいたたまれず、蛙のように平伏して目を閉じた。
アルベリクは地面に投じた己の両手を重ね合わせ、そっと薬指の指輪に触れた。遠くマルブールで己を待つナタリーの姿が、瞼の裏に鮮明に映し出される。
(すまない、ナタリー……)
己の死をアルベリクは覚悟し、歯を食いしばった。
と、突然、頭上から激しい笑い声が響き渡った。
「──はっは! 何だ、その顔! 冗談に決まってるじゃねえか。お前の言う通りだよ。商人なら、売ってくれと言われれば誰にだって売る。それで良いんだ」
呆気にとられるアルベリクを余所に、ジルベールは身を揺すって笑い続けた。ひとしきり笑うと、彼はぴたりと笑うのを止め、真顔に戻った。それから、ちらと天に目を向け、思い直したように首を横に振った。
「……いや、違うな。違う。今まではそれで良かったが、残念ながら、これからはそうはいかねえ。宝飾品は、この国の命運を左右する鍵だ。おいそれと敵国にくれてやる道理はねえ。今日これより、皇室御用達業者のパヴァリアへの輸出を禁止する。だが安心しろ、パヴァリア禁輸による機会損失分は、皇室が全て補填する。お前らに損はさせねえ」
語り終えると、ジルベールは膝に手をつき、おもむろに立ち上がった。
「お前への用件はそんなところだ。何か質問はあるか?」
謁見の機会は、突風のように過ぎ去ろうとしていた。振り回されるだけ振り回されたアルベリクは、朦朧とする頭を奮い立たせ、質問を絞り出そうとしていた。聞きたいことは、いくらでもあるはずなのだ。
最初に彼の頭に思い浮かんだのは、皇后マドレーヌの控えめな笑顔だった。
「皇后陛下を処刑されたとか……」
恐る恐る、アルベリクが問う。すると、ジルベールの目つきが、再び険しいものに変わった。彼は目を細めてアルベリクを睨み、押し殺した声で答えた。
「……ああ、そうだが。何か、文句があるのか?」
「なぜ……」
「愛しているから、殺した。こっから先は、あの女にとっちゃ地獄でしかねえ。俺を憎みながら生きてほしくはなかった。悲しみと苦しみの中で生きてほしくなかった。だから、殺した」
狂気──。アルベリクの脳裏に、その一語が浮かぶ。およそ、正常な倫理観による判断ではない。
「……これから……何をなさるおつもりですか……」
「さしあたっては、パヴァリア派の連中やベツレヘム教の神官共を、お前の瞳と同じ色に染め上げる」
緋色。血と炎と滅びの色。それらが皇国を席巻する様を、アルベリクは己の瞼の裏に幻視した。
眼を周囲に向けてみれば、楽園の如き花園は蹂躙され、夥しい血で染められている。
今、この場で起きていることは、これからこの国で起こるであろうことの縮図だ。
「しかし、そのようなことをなされば……」
「ああ、教皇だって黙っちゃいまい。矜持を保つために、是が非でもこの『絹の涙』を奪いに来る。だが、そうは問屋が卸すものかよ。こいつは俺のものだ。俺のレガリアだ。誰の手にも渡さねえ」
ジルベールは己の胸から『絹の涙』を取り外すと、眼前に持ち上げてまじまじと見つめた。彼はしばしの間、うっとりとした眼差しでその稀代の宝飾品に見とれていたが、やがてその瞳に怪しげな光が灯り始めた。
熱に浮かされたように、ジルベールは呻く。
「……ああ……こいつは本当に素晴らしいぜ……。こいつを見ていると、俺を縛る鎖の全てが、断ち切られるような気がするんだ。俺の全てを肯定し、俺に望むままであれと語りかけてくるようだ……」
──望むままであれ。
ナタリーはあの『絹の涙』を作る間、ずっとその想いと戦い続けていたのだ。愛する者をその死の胸に抱き、刹那の幸福に身を任せてしまいたいという欲望と──。
そして、彼女は誰よりも、宝飾の持つ力を知っていた。宝飾は、人の魂を揺り動かし、導く力を持っている。それゆえに、力を持つ宝飾品の取り扱いは、より慎重に、思慮深く行うべきだったのだ。
アルベリクの全身に、針でさすような痛みを伴って、悔恨の念が駆け巡る。
ジルベールは突然、忘れごとを思い出したように両の掌を打ち鳴らす。そして、やおら目を輝かせ、アルベリクの方に向き直った。
「そう、思い出した。ブランシャールには手始めに、武器を調達してもらうことになっていた。最新鋭の銃を一万丁。息子の部隊に持たせたいんでな」
突拍子もない発言に、アルベリクは目を回しかけた。
「お、恐れながら、それは出来かねる相談です。ブランシャールは宝飾店です。武器など扱ってはおりません」
「そうかな? お前のところの金毛の小烏、たしか、ローランとか言ったか。あいつが、既に外国に工場を贖って製造を開始しているはずだぜ。前金は渡してあるからな」
(ローランだと!? 莫迦な……?)
まったく想像の埒外にあった男の名が、泰皇の口から告げられる。その名を聞いた瞬間、アルベリクは激しい動揺を顕にした。
だが、泰皇は彼の驚愕など意に介さず、話を続ける。
「この世を支配するのは、力と権威だ。ブランシャール、お前たちは、その両方をこの俺に齎してくれるというわけだ。是が非でも、期待に応えろ」
泰皇ジルベールは、そう言ってからおもむろに剣の柄に手をやると、ゆっくりと鞘から引き抜いた。金属の擦れる掠れた音が庭園内に響き渡る。剣の切っ先が、天井に向けて高く掲げられる。天窓から差す陽の光が、長い刀身に反射して眩く輝く。
泰皇は、声高く宣言した。
「今日、この日から、新生ガロア皇国の歴史が幕を開ける! 偽りの神々を廃し、その支配から脱する日が、ついに来たのだ。これよりは、この私が新しい神となって、正しく臣民を統べることとする。かつて寸断されたグリアエの神話の続きは、既に紡がれ始めている。皇国に眩い輝きをもたらす赤目の烏、お前のその名は、新しい皇国の悠久の神話の中に紡がれることになるだろう」
口上を終えると、泰皇は剣を翻して、大理石の段上に突き立てた。激しい音とともに、石が砕けて周囲に飛び散る。石を穿って突き立った剣は、しばらくの間低く唸りながら細かく震えていた。泰皇が柄頭を抑えると、その唸りも震えもにわかに止まった。
泰皇は段上からアルベリクを見下ろし、傲然と言い放った。
「即興曲を奏でるぞ、赤目烏。これからの物語は、俺たちが作る」
◇
泰皇によるベツレヘム排斥宣言は、その日のうちに皇都の住民に周知され、翌日には皇国全土にあまねく布告されることとなった。
そして、早くも同じ週のうちに、皇都内のあらゆるベツレヘム教関連施設に退去命令が出された。その内容は横暴極まりなく、翌週には施設の解体を実施するというものだった。
命令は果断として実行された。多くのベツレヘム教関係者は、莫大な財産を放棄して皇都の外に逃げ出したが、気骨のある者は聖堂や教会に居残り、崩れ行く建物と運命を共にした。
泰皇の手の者が火矢を射掛けると、聖堂の屋根という屋根に、紅の炎が舞い踊った。その炎は、皇都アコラオンの郊外にあるブランシャール邸の窓からも、容易に目視することができた。
ブランシャール家の者たちは、総出で二階のベランダに立ち、赤く染まる皇都の空の縁を、呆然と眺めていた。
アルベリクも、家の者と肩を並べて、険しい表情のまま、その光景を眺めていた。その傍らで、ルイーズは顔を蒼白にして震えていた。彼女は狼狽しきっており、アルベリクの腕にすがりついてやっと立っていられるほどだった。
アルベリクは、哀れなルイーズの手を掴み、語気強く彼女を励ました。
「大丈夫だ、ルイーズ。あの火は、俺たちのところには届かない。大丈夫だ」
しかし、聖堂を焼き尽くす炎は、決して対岸の火事ではなかった。
業火は、アルベリクの胸元にも迫っていたのである。






