第十七章(3) ブランシャール邸2
ブランシャール邸の自室にて、アルベリクは召使いの協力のもと、礼服に着替えていた。
礼服は、皇室から直々に下賜されたものである。漆黒の生地を繋いだ儀礼装の下に、真紅のシャツを身につける。胸元には黄金のブローチを留め、そこから黒色のタイを吊るす。その装いは、皇国の正装ではなく、グリアエ王国時代の、第一級の正装だった。それを、敢えて現代に復活させ、アルベリクの身体に合わせて仕立てさせたのだ。
傍らで、ルイーズが座椅子に身を沈め、着替えの様子をぼんやりと眺めていた。
その瞼は無残にも赤く腫れ上がっていた。彼女は幾晩もの間、敬愛する友の死を悼み、泣き暮らしたものだった。だが、彼女は少なくともこれまでのところ、アルベリクの前では、気丈にも一滴の涙すら見せようとしなかった。
ルイーズは不安げに眉根を寄せて、アルベリクの顔を見上げた。
「本当に行くの……?」
「それを聞いてどうする。今更、謁見を取りやめることなどできはすまい」
召使いの掲げる上着に袖を通しながら、アルベリクは答える。
その上着を掴んで引き剥がすような気力は、ルイーズにはなさそうだった。彼女は半ば諦め気味に座椅子の背もたれに沈み込むと、ぼんやりと窓の外を見やった。
「自分の妻を手に掛けるような相手と、会ってどうするの。媚でも売るの?」
「場合によってはな」
ルイーズの顔に、あからさまな嫌悪が広がる。
「お金のためなら、魂を捨てるというの?」
「君の口からそんな言葉が聞けるとはな。若いというのは良いことだ。日々学び、成長し──」
「はぐらかさないで」
険を帯びた声。アルベリクは肩をすくめる。
「……正直、俺には陛下のお考えがわからない。お会いしたこともないからな。だから、今日の謁見の際に伺いたいと思う。それをせねば始まらん」
アルベリクは仕事のようにてきぱきと答え、脇のテーブルに手を伸ばす。着替えのために一時外していた指輪を、彼は手に取った。
手が震えた。薬指に指輪を通そうとするが、持つ手が定まらず、なかなか指先が輪を通らない。指の腹を輪の裏に押し付けると、ようやく彼の手は指輪を受け入れた。
指輪の腕のなめらかな感触を確かめて、手を握りこむ。じんわりと、ナタリーの想いが肌を通して伝わってくる。
もはや手は震えていない。勇気と自信が、腕に、脚に、漲る。
皇后も同じ気持ちだったのだろうか。そんな考えが、ふとアルベリクの頭をかすめる。その考えを端に追いやるように、彼は頭を軽く振った。
彼女は策を弄するにはあまりに純粋すぎた。故に死んだ。二の轍は踏まない。
アルベリクはあたかも平時の出勤のごとく「行ってくる」と呟き、自室の扉に手をかけた。
彼の耳の後ろで、がた、と、椅子を蹴る音が聞こえた。
「……行かないで。行っちゃだめ。行ったら、貴方まで殺されるわ」
悲痛な声だった。いまだかつて、彼女の口からそのような声を聞いたことは、一度たりともなかった。
アルベリクは驚いて、思わず振り向いた。手を握りしめ、身を固くしたルイーズの姿が、視界の真ん中に飛び込んでくる。その眼は、今にも泣き出しそうにうるんでいた。
あまりに哀れな姿だった。見るに耐えず、アルベリクは無意識に顔を背ける。
「心配するな。俺にそんなことをされる謂れはない。俺は陛下と対立しようとは思わんよ」
彼はそれから口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、こう付け加えた。
「だいたい、君にはローランがいるだろう。万が一の時は、彼を頼ればいい」
その一言が、あるいは余計だったのか。ルイーズは突然眦を決してアルベリクを睨むや、つかつかと彼に歩み寄って鋭く令した。
「アルベリク、こっちを向いて」
言われるままにルイーズの顔を見るや、すかさず横面に平手が飛んできた。高い音が出たが、さほどの痛みは走らなかった。
「莫迦にしないで。私は、貴方の許嫁なのよ」
ひりつく頬を撫でながら、アルベリクは文句の一つも返そうと思ったが、思い留まった。ルイーズの両の目から、大粒の涙が走り落ちるのを見てしまったからだ。
アルベリクは憮然としつつも、若く激情的な許嫁に向かって殊勝に頭を下げた。
「──すまない。だが、心配しすぎだ。万が一はそうそう起こらん。安心しろ」
取り繕うように、二、三度、婚約者の小さな肩を叩く。そうしてから、アルベリクは逃げるように部屋を出た。
「根拠もないくせに!」
厚い扉を貫いて、ルイーズの非難の声が聞こえてくる。だが、アルベリクはもはや拘泥せず、足早に邸宅を出ていった。






