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第十七章(2) 聖地グリアエ・後宮

 荘厳な後宮の只中に、影法師のような黒衣の商人の姿があった。窓の外の庭園には春の陽光が燦然と降り注いでいたが、アルベリクの姿はその陽を浴びてなお暗い。彼の存在は、華麗な後宮の大広間の中に、拭っても消えぬ滲みの如き不協和をもたらしていた。


 彼は、頭上の天蓋に視線を向けていた。そこには、グリアエ王国の歴史を伝える見事な漆喰絵画が、遥か部屋の奥まで延々と(えが)かれていた。


 下に視線を向けると、吹き抜けの高い側壁の上部に、グリアエ王国からの歴代王妃の肖像画が並べ掛けられているのが見える。


 五十余りある肖像画の額縁は、それぞれ人の身長をゆうに超える大きさを誇っている。だが、広大な空間の中に掲げられると、不思議と好適な大きさに見えてくる。


 それら肖像画の一枚一枚をつらつらと眺めていると、アルベリクの胸の奥に熱い感慨が込み上げてくる。


 先日、皇室より内示があった。後宮に飾られる現皇后の肖像画に、『絹の涙』が描かれるというのだ。


 そう、『絹の涙』は既に第二皇子の手すら離れ、今や泰皇の所有物にまで成り上がっていた。第二皇子はこの逸品を泰皇に献上し、その対価として立皇嗣の権たる錫杖を泰皇から下賜されていた。


 事実上の、皇位継承権簒奪である。


 この事件は、半島全土を震撼させた。ことに、パヴァリアの王室関係者や教皇周辺は色めき立ち、泰皇の行為を専横と取って猛烈に非難したものだった。


 だが、かような経緯があれど、アルベリクは己の内なる高揚を抑えることができなかった。


 古代グリアエ王朝時代から連綿と続く壮大な歴史の中に、自分たちの仕事が列せられるのである。これほどの光栄があるだろうか。


 アルベリクは神妙な面持ちで肖像画を見上げつつ、その内心では快哉を叫んでいたのだった。


 ふいに視界の端に閃く光を感じ、アルベリクは反射的に振り返った。


 大広間の入口に、三人の人影が見えた。光っているのは、そのうちの一人が身につけている装飾であるらしい。その人物の歩みは極めて優美であり、他の二人と比べると違いは歴然としていた。


 それが皇后マドレーヌの姿であることは、遠目からでもひと目でわかった。


 付き従う二人はどちらも世話係であり、警護の人間ではないらしい。アルベリクはそれを信頼の証であると受け取り、胸の内で密かに感じ入った。


 皇后らがまだ遠くにいるうちから、アルベリクは彼女らに向かって頭を深く下げて敬礼した。それから顔を上げるよう言いつけられるまで、彼は微動だにしなかった。


 頭を上げると、微笑む皇后の顔が一番に目に飛び込んできた。次いで彼の視線は、その胸に輝くブローチに吸い寄せられた。ブローチの姿を見た瞬間、アルベリクは破顔する。


「絹の涙をお召しでしたか」

「……ええ……。良人が、普段から身につけるようにと」


 顧客の胸に自分の店の商品が留まっているのを見るのは悪い気がしなかった。ましてやそれが、気に入りの技師と共に苦労して制作した逸品であるならなおさらである。


 頬がほころびそうになるのを懸命にこらえつつ、アルベリクは再び皇后に向かって頭を下げた。


「本日は、お招きに預かり光栄の至りです」

「ようこそいらっしゃいました。後宮は初めてだったかしら」

「はい」

「そうだったわね。ルイーズはよく連れてきているのだけれど」

「許嫁と懇意にしていただき、感謝の念に堪えません」

「感謝しているのは、むしろ私の方です。心を許せる友というのは、得難いものですからね。それに、あの子はベルティーユと同じくまっすぐで、賢いから、宮中の無用な政治に敢えて近づくこともない……」


 皇后は深くため息を付いて、しばしの間天井の肖像画に視線を投じていた。その横顔からは、宮中での派閥争いに翻弄される気苦労を、ありありと見て取ることができた。


 彼女はやおら振り返り、アルベリクに向かって微笑んだ。


「頼んでいた品ができたそうね」

「はい」

「見せていただける?」

「はい、こちらに」


 アルベリクは持ってきた鞄から、四辺が二の腕ほどの大きさの、平たい化粧箱を取り出した。三人の女たちが見守る中、アルベリクはおもむろにその蓋を開く。


「ああ……」


 皇后の口から、慨嘆の声が漏れる。


 化粧箱の中に収められた納品物のブローチは、紛れもなく傑作と評されるべき逸品だった。


 本体の中央に配された緑柱石が、ひときわ目を引く。インクルージョンが少ない、大粒の石だった。ブランシャールが保有する在庫の中で、最も希少な品を選んで取り付けたのだ。


 その本体には、線状細工の施された極細の鎖が幾筋も繋げられていた。白金でできたその鎖のひとすじひとすじには、極小粒の金剛石が編み込まれており、それらの一粒一粒が、窓からの光を受けて、七色の光をちらちらと瞬かせている。

 皇后がブローチを手に取ると、その鎖飾りが揺れて、さらりと繊細な音を奏でた。


 三人の女たちはうっとりと目をとろけさせ、ブローチの(かざり)が綾なす煌めきに酔いしれていた。


 皇后のみならず、その取り巻きをも魅了したことは、その作品が真に価値あることを証明していた。本物の審美眼を持つのは、大いなる魅力を放つ存在の隣にいるものなのだ。


 作品から片時も目を逸らすことなく、皇后がぼんやりと呟く。


「心から感謝いたします。まさしくこれこそ、私の望んだ通りのものです」


 皇后マドレーヌは、手にしたブローチを侍女に手渡した。その次の瞬間、アルベリクは思わずあっと短く声を上げてしまった。


 彼女は、その手で『絹の涙』を己の胸から取り外したのだ。そして、同じ場所に、たった今手にしたブローチを留めさせた。


『絹の涙』は、泰皇が普段から身につけるようにと命じたはずの品である。それを自ら外すという行為に、いかなる意味があるのかなど自明のことだった。


 アルベリクは目の前で繰り広げられた小さな反逆を戦慄とともに見守っていたが、当事者である三人の女たちは、あくまで優雅な所作を保つばかりである。


 皇后が目配せすると、侍女は袖の下から掌ほどの大きさの鏡を取り出し、皇后に向かって掲げてみせた。


「新しく描かれる肖像画に、このブローチを使えたらどれほど良いか……」


 皇后はそう呟いて、物憂げに嘆息する。


 彼女は、反抗の証を手にしたかったのだ。アルベリクが贖宥の石を砕いたのと同じように。


 しかし──と、アルベリクは思う。いったい、『絹の涙』の何がそうも気に食わないというのか。


 その疑問を、アルベリクは恐れることなくそのまま問うた。


「恐れながら、『絹の涙』をお召しになった陛下も、私は大変麗しく思えますが……」

「……私は……。ごめんなさい、気を悪くなさらないで欲しいのだけれど……。この『絹の涙』のことが、あまり好きではありません」

「それは──」

「怖いのです。その宝石を見る時の、良人の眼が……」


 皇后の瞳の中に、明白な畏怖の色が滲む。


「あの方にとって、私は絵画と同じなのです。鑑賞することで、自らの中の野心と欲望を奮い立たせようとしているのです……」


 皇后の唇が震える。その震えを止めるためにか、彼女は唇を引き結び、身を固くした。しかし、そのか細い指先が己の胸のブローチに触れるや、彼女の畏れはまたたく間に雲散霧消していった。彼女は長い吐息の後、再び毅然と目を上げる。


「泰皇陛下に謁見なされるそうですね」

「は……」

「貴方がたも、これで晴れて御用商人の一員ですね」

「恐れ多いことです」


 言葉の意図をアルベリクが汲みかねていると、皇后は身体が触れるほどに歩み寄ってきて、辺りを憚るような小声でアルベリクに耳打ちをした。


「あの方には、ゆめゆめ油断なさられないように。私などより、遥かに恐ろしい方です」


 その言葉でアルベリクは思い出した。いつだったか、グリアエの庭園でルイーズを人質に取られた時のことを。その時の戦慄は、未だに彼の中に(おき)のように残っている。


 どの口がそう囁く? そんな悪態が喉元まで出かけたが、アルベリクはすんでのところで飲み込んだ。そして、努めて穏やかな声で問うた。


「泰皇陛下は、以前伺った時とお変わりありませんか」

「ええ……。むしろ、野心の火はますます強く燃え上がっているようにすら見えます」


 答える皇后の瞳に、憂いの色が広がる。


 皇后は窓辺におもむろに歩み寄ると、空を仰ぎ見た。東の空──その下には、彼女の故郷であるパヴァリアがあるはずだった。


「今や、教皇聖下までもが、この『絹の涙』を所望されている……。枢機卿の名誉を挽回し、教会の権威を誇示するには、そうするしかなかったのでしょう……」


 言葉を切り、皇后はアルベリクに向かって振り返る。逆光の中に、憂いを帯びた瞳だけが、朧な光を保ったまま浮かんでいた。


「ですが、泰皇陛下は、それを拒否なされました」


 アルベリクは息を呑む。彼女の言葉の意味するところを、アルベリクとて理解できないわけがなかった。泰皇は、ついに教皇に対して明白な叛意を突きつけたのだ。事態は、急激に悪化しつつある──。


「──あの方は、戦争を望まれているのです。パヴァリアの傀儡国家から脱し、この国を真の独立国家たらしめるために」


 戦争。想定した中で、最悪の言葉だった。


 町や村で噴き出した戦火を血の雨が消す──そんな風景が、アルベリクの脳裏にありありと描き出された。『絹の涙』は、その陰惨な光景の只中で、笑うように輝いていた。


 感情を押し殺した声が、アルベリクの喉から絞り出される。


「有り体に申し上げれば……私には、政のことは分かりません。陛下の御心も……。ただ……『絹の涙』が血の記憶の中に置かれるのは、忍びないことです。あれは我が虎の子の技師が、手塩にかけて作り上げたものなのですから」

「それが、今の時代に力を持って生まれた者の宿命ということなのでしょう。その『絹の涙』には、それだけの力があるのです」


 アルベリクは侍女の手の中でまどろむように横たわる『絹の涙』の姿を見た。

 見るにつけ、魂がとろけるほど美しい、自慢の娘だった。


 もっと、誇りたかった。彼女の素晴らしさを。この美しさを、あまねく世に問いたかった。


 しかし、彼女はあまりに美しすぎた。彼女がその姿を誇示すればするほど、人の心はかき乱され、世情は荒廃してゆく。


 誰もが彼女を手に入れたいと願う。その願いが叶うなら、どんな手段とて選ぶことだろう。例え、他の者を地獄の底に叩き落としてでも……。


『彼女の作品は、決して世に出すな』


 ガストンの警句が、アルベリクの耳の奥で不吉に響き渡る。

 ──だが、もはや、取り返しはつかない。


 アルベリクは悩ましげに目を伏せる。すると、皇后マドレーヌは励ますように相好を崩した。


「そのような顔をなさらないで。私とて、決して無力というわけではありません。また、今や心強い味方も得ました」


 彼女はそう言うと、己の指先で胸元のブローチをそっと撫でた。


「これから、私はあの方にお会いします。野心に駆られた陛下をお止めできるのは、今や、私を措いて他にありません」


 そう言い放つ皇后の眼には、ある種の決意が見て取れた。巌のように凝り固まった眼窩に、透徹した瞳が静止している。


 それは、殉教者の眼だった。


 アルベリクの背筋に冷たいものが走る。


「お考えを改めるおつもりはありませんか? パヴァリア派の有力者を仲介するなり──」

「これは、私とあの方の、極めて私的な問題です。派閥争いとは無縁のことです」

「しかし、皇后陛下にもしものことがあれば──」


 もしそうなれば、パヴァリア派は求心力を失い、崩壊の憂き目を見ることだろう。そうなれば、グリアエの勢力図は皇国派一色に染まってしまう。危うく保たれていた均衡が崩れ、情勢は動乱の只中に転がり落ちてゆくことになるだろう。


 乾坤一擲の大博打を打とうというのである。アルベリクからすれば、無謀な賭けにしか見えなかった。


 だが、皇后の意思は揺るぐ様子もなかった。


「無論、覚悟の上です」


 断然と皇后は言い放つ。

 彼女は今一度窓の外に視線を投じた。その眼が、遥か遠くを見やる。


「この都のことを、悪く言う者もあります。その点について、けっして否定するつもりはありません。力のあるものが力のないものを陥れ、神職者は世俗に堕し、淫蕩と堕落が跳梁跋扈している。それが、この皇都アコラオンという街の飾りなき実相です。そのような悪徳の根を掘り、枝をたどれば、全てはベツレヘム教会に行き着くこともまた、重々承知しています」

「陛下、そのようなことをおっしゃられては……」

「ですが! それでも、私はあのお方の考えるような、破壊に依る現状変更を認めるわけにはいかないのです。たとえ腐敗しきった平和でも、血の海の上に成り立つ変革よりはましというものです」


 皇后は頬を上気させ、息を荒らげる。それを見た侍女が気遣わしげに彼女に近寄り、その背を撫でた。


 皇后は再びアルベリクの眼に視線を戻すと、はっきりとこう口にした。


「私は、あの方を、心から愛しています」


 その眼差しは、すこぶる穏やかなものだった。これから決死の説得に向かおうという者の壮絶な形相はすでに失せ、代わりに、ただ一人の男を愛する喜びのみが、その美しい相貌を彩っていた。


 彼女は胸元のブローチに指を触れ、愛おしげにその姿を見た。


「このブローチは、きっと私に勇気を与えてくれることでしょう。私は、あの方に伝えたいのです。この私の胸の中で眠る安らぎを。生命の讃歌を。平和がもたらす歓びを。もう一度、若く何も知らなかったあの頃のように……」


 皇后は、自らの善と美と清純に、残りの命を賭けようとしていた。

 しかし、少なくともアルベリクからすれば、彼女の考えは、乙女の夢想の如きにしか思えなかった。


 結局、アルベリクは皇后の心を変えることも叶わず、後宮から帰途につくこととなった。


 皇后マドレーヌ処刑の報がアルベリクの耳に届いたのは、この後宮での対話の翌日のことだった。

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