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第十七章(1) ブランシャール邸1

 ブランシャール家の当主フランクの書斎に、肌を叩く高い音が響いた。ルイーズの頬は、叩かれたそばから赤く腫れ上がる。


 部屋に入った途端に義父が娘を折檻する場面に出くわして、アルベリクは鼻白んだ。


 娘を見る義父は、鬼の形相を成していた。だが、アルベリクの姿を認めると、彼は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。


「見苦しいところを見せたな。しかし、君にも責任の一端はある。このブランシャールの家長たるもの、絶対的な威厳を示さねばならん。家庭でも、仕事でもだ」


 まったくもって見苦しいと思いつつも、アルベリクは顔色一つ変えず頭を垂れた。


「私の不徳の致すところです。──ですが、私もいかんせん仕事が忙しく、なかなか許嫁の私的な事情に通じることが難しいのです」


 言いながら、ちらとルイーズの顔色を見やる。俯く彼女の顔を、下ろした髪が隠しており、表情は見えなかった。


 義父は憮然とした表情で、娘を叩いた手を擦る。


「ならば、全てルイーズの口から説明させたまえ。妻を御せずに、どうして家や仕事を御せるというのだね」


 彼は返す刀でルイーズに顔を向け、雷のような怒号を放つ。


「ルイーズ! お前は頬の腫れが完全に引くまで、自宅に謹慎だ! そんな顔で出歩かれては恥晒しになるからな!」


 煩わしげに手を一振りし、義父はルイーズに退室を促した。会釈をして出てゆくルイーズに従い、アルベリクも踵を返す。そのアルベリクの背中に、義父フランクが声を掛けた。


「待て、アル。隠居の身であまり商売に口を出すのもどうかと思うが、一つだけ忠告させてくれ」

「なんでしょう?」


「ブランシャールは宝飾品の製造販売を専門とする店だ。昨今は多角化という名目で専門外の事業に手を出している者も多いが、多くの理由から私はそのやり方を好ましくないと考えている。無論、君はそのような流行りに軽々と乗るような真似はすまいね?」

「もちろん、そのつもりです。私には宝飾しかありません」


 即答するアルベリクに、フランクは目を細めて頷いてみせた。


「それで良い。我々の仕事は、人々の喜びのためにこそ営まれなければならない。その点を忘れてはいかんよ」


 書斎を後にしたアルベリクは、そのままルイーズの部屋に向かった。ルイーズは奥のソファーに横たわり、召使いに用意させた湿布を、今まさにぶたれた頬にのせているところだった。瞬間、彼女は痛々しげに眉間に皺を寄せた。


 アルベリクは、努めて穏やかな調子で、彼女に向かって静かに声を掛けた。


「災難だったな」


 ルイーズは部屋の中空を睨みつけながら、恨みがましく呻いた。


「平民出のくせに威張り散らして……。あんなことだから、お母様は早死にしたのよ。……ああ、殺してやりたい」


 こうした殺意の表明は、半ば彼女の口癖のようになっていたものの、今日のそれは特に真に迫っていた。

 アルベリクは窓際の座椅子に腰掛け、おもむろに尋ねた。


「何があったね」


 問われても、ルイーズはむっつりと口を(つぐ)んだまま答えなかった。


「……話したくないのかもしれないが、義父上(ちちうえ)に申し開きするには、ある程度問題のあらましを把握しておかねばならん。状況がわかっていれば、どうとでもうまく説明できるからな」


 召使いが氷嚢を用意して、ルイーズの頬にあてがう。手当が終わるや、ルイーズは手を振って召使いを部屋から追い出した。


 アルベリクと二人きりになったところで、ルイーズはようやく、アルベリクの方に目を向けた。その眼差しに好意的な色は薄く、むしろ皮肉めいた笑いが浮かんでいた。


「貴方は良いわよね。仕事もうまくいってるし、愛人にも優しくしてもらえているのでしょう? 皇后陛下から伺ったわ。ついに、泰皇陛下への謁見も決まったそうね」

「さすがに耳が早いな。ああ、そうだ。ついにな」


 マルブールから戻ったアルベリクの元に、一通の手紙が届いた。封筒の紙質から皇室からの手紙だと察せられた。一瞬アルベリクはそれが皇后からの手紙かと早合点しかけたが、よく見ると封蝋の印璽が違っていた。それは、泰皇の花押(かおう)の刻まれた印璽だった。


 貴重な印璽を崩さぬよう細心の注意をもって封を切り、中の手紙に目を落とす。そこには泰皇への謁見のために参内するよう命じる文章が、達者な筆致で綴られていた。


「おめでとう。これで、念願の皇室御用達になれるというわけね」

「どうやら、そうでもないらしい。正式な辞令を出す前に、この俺を品定めするつもりのようだ」

「そんなものは、形だけのものよ。皇室ってね、くどいくらい形式を重んじる場所なの。だから、貴方たちはもう、内々では皇室付きの宝石商ということになっているのよ。亡きお母様のブランシャール家が、とうとう、正式な皇室付きになったのよ」


 話しているうちに、ルイーズの眼に次第に光が戻ってきた。彼女は氷嚢を片頬にあてがいつつ、ソファーの上でアルベリクに向かって身を乗り出す。


「私ね、新聞も読んだのよ。『金剛石の魔術師』『皇国文化の台風の目』『半島で最も新しい風』『神の目を奪った者たち』……みんな、貴方たちのことを評した見出しよ。宝飾史上の偉業を次々達成し、絵画や彫刻といった芸術にまで貴方たちの仕事は影響を与え続けている。周り中の国が、貴方の店の商品を欲しがって、何年も先の納品を心待ちにしてる。大人も子供も、偉い人も貧しい人も、みんな貴方の店の商品を欲しがってる」

「やけに詳しいじゃないか」


 アルベリクが笑って茶化す。すると、ルイーズは気恥ずかしげに口をすぼめ、乗り出した身体を再びソファの上に横たえた。彼女は天井をぼんやりと眺めながら、かすれた声で呟いた。


「──断言したって良い。貴方は今、皇都で一番恵まれてる」

「それは言いすぎだ。人それぞれ、他人に見えない苦労はあるものさ」

「なら、貴方の苦労話を聞かせてよ。どうせ、誰にも話せないんでしょう?」

「いや、今は、君のことだ。ローランと、うまくいっていないのか?」


 話を戻され、ルイーズはあからさまに顔をしかめる。話の流れでうまいこと話題をそらそうとしていたのだろう。


 打たれた頬に痛みが走ったか、彼女は小さな悲鳴を上げて氷嚢を頬に押し当てた。


 しばしの間、彼女は唇をへの字に曲げて黙りこくっていたが、やがて呻くように言葉を吐き出した。


「……ローランとお父様がうまくいってないの」

「ローランと義父上が?」


 小さく首を縦に振るルイーズ。彼女は眼だけを動かして、アルベリクに問いかけた。


「彼が、外国で事業を始めたこと、知ってる?」

「何……? いや、初耳だ。ブランシャールとは別でか?」

「ええ。宝石商ですらないみたい」

「専門外の仕事なのか……? どんな事業だ」

「知らないの。私にも、詳しくは教えてくれない」


 そう答えるルイーズの眼は、いかにも寂しげだった。


「その事業を続けるために、たくさんお金が要るんだって。それで、お父様にお金を出していただくよう頼もうとしていたの」

「義父上が懸念されていたのは、そのことか」

「ええ。あんな男をこの家に近づけるな、だって。私の知らないところで、お父様と会って話していたみたい。それが上手くいかなかったから、今度は私に説得をしてほしいって……。それで……」


 ルイーズは瞼を伏せ、頬にあてがった氷嚢の位置を直す。彼女が叩かれた理由も、これで明白となった。

 しかし──。と、アルベリクは訝しむ。事業の金を無心したくらいで、そこまでされる道理があるだろうか?

 ローランが語る事業の内容に、何か問題でもあるのだろうか。


 ルイーズが小さくため息を吐く。


「私、最近、ローランのことが、少しわからなくなってる。いつだって忙しそうだし、やっと会えたと思っても、上の空。私のことなんか、どうでも良いみたい。……今度こそは、本物の恋だと思っていたのに……」


 珍しく、気弱な愚痴をこぼすルイーズの姿に、アルベリクは哀れみを禁じ得なかった。


 普段から傲岸気ままな振る舞いの彼女が、そこまで消沈しているのを見てしまっては、さしものアルベリクも一肌脱ごうという気持ちになる。


「わかった。時間がある時に、ローランにも探りを入れてみよう。義父上のことも任せてくれ」


 席を立ち、部屋を出ようとするアルベリクの背中に、ルイーズが声をかけた。


「アルベリク」

「なんだね」


 ルイーズは口をつぐみ、ソファーに据えられたクッションに顔を埋める。アルベリクが辛抱強く待っていると、枕の奥から、くぐもった声が聞こえてきた。


「……ありがとう……」


 勝ち気な娘にとっての、精一杯に殊勝な感謝の言葉だった。アルベリクは軽く笑って答える。


「構わないさ。俺とて、君には随分と助けられているからな」


 ルイーズが皇后と昵懇になってから、アルベリクは皇室内──ことにパヴァリア派の面々の間で顔を知られるようになってきた。そして、先にルイーズが言及した通り、一ヶ月後には泰皇との謁見も控えている。


 皇室派閥の隠然たるせめぎあいがある中、パヴァリア派の皇后と皇国派の泰皇、その両者の間を渡り歩くことができる者など、皇国広しといえどアルベリク以外には有り得なかった。そのような真似ができるのも、ひとえにルイーズの存在が大きかったのだ。


 アルベリクは、ルイーズに向かっておもむろに向き直り、深く頭を下げた。


「君に感謝を伝えることを疎かにしていたように思う。俺の方こそ、ありがとう、ルイーズ」


 ルイーズはさっと頬を紅潮させ、何ごとか言わんとして口を開きかけたが、その言葉が口をついて出る事はついになかった。

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