第十六章(3) ブランシャール宝石店
ブランシャールに、珍客の訪問があった。しかも、同じ日に二人である。
一人目の客は、大司教コンスタンだった。豪奢な法衣をまとい、巨体を揺すって店内を闊歩する様は、なかなかどうして、宝石店の絢爛な店内においては存外しっくりくるものではあった。
だが、いかんせん、皇都とその周辺領を管轄する大司教ともあろう者が、一介の宝石店の店頭に現れるというのは、前代未聞のことである。
一般客は当然、その姿に恐れをなした。そそくさと店を出てゆく者すら現れた辺りで、店子は慌てて大司教を奥の応接室に案内し、すぐにアルベリクを呼ぶと言い置いた。
全く幸いなことに、アルベリクはその時、ちょうど執務室に在席していた。あるいは、地獄耳の大司教のことなので、目当ての相手が皇都に帰ってきていることを耳ざとく聞き及んでいたのかもしれない。
ともかく、アルベリクは仕掛中の書類仕事を中断し、おっとり刀で大司教の待つ応接室に駆けつけた。
息を落ち着かせ、髪を整え、ゆっくりと応接室の把手を回す。
コンスタンの巨体が目に入る。部屋がやけに狭く感じられた。ブランシャールの応接室は商談を行うことを目的としており、比較的広めの空間を確保しているにも関わらず、である。
アルベリクは愛想笑いを顔面に張り付けつつ、席に腰を下ろした。
「これは大司教猊下。かような場所に足をお運びいただけるとは恐悦の至りです」
大司教は、アルベリクの挨拶を聞いているのかいないのか、わざとらしく頭を巡らせ、部屋の様子を仔細に観察し始めた。
頬周りが一段と太ったように見える。きょろきょろと周囲を見回すたびに、その頬肉が乳房のように揺れた。
──儲かっているのだろうな、と、アルベリクは頭の片隅に思う。
「これが、噂に聞く新しい応接室ですか。……いえ、どうやら違うようですね。よく手入れされてはいますが、家具調度は使い込まれたものですし」
至極穏やかな声で、大司教がそんな感想を漏らす。
瞬間、アルベリクの心に影が差した。聞き捨てならない言葉が大司教の口から漏れたためだ。『新しい応接室』と、彼は確かにそう言った。
(誰ぞがこの豚に密告でもしたのか)
しかし、アルベリクとて商人の端くれである。かような疑念はおくびにも出さない。慇懃な笑顔を頬に張り付けたまま、彼は穏やかに応じた。
「新しい応接室……。それは、いったい?」
「誤魔化さずとも良いのですよ。こちらブランシャールでは、何やら新しい催しを用意されているとか。先々を見据え施策を打つ。それは貴方がた商人の生きる術です。神もお咎めにはなられないでしょう」
たいした地獄耳だ、と、アルベリクは心の中で舌を巻いた。
実のところ、コンスタンの言は芯を食っていた。クラヴィエール公の案件の成功を見越し、ブランシャールではブランド強化の施策を進めていた。コンスタンの語る『催し』というのは、その施策の目玉だった。
この施策は重要な顧客のみにしか知らせていないはずである。その顧客の誰かに、パヴァリア派の者がいるのかもしれなかった。
いずれにせよ、アルベリクに比肩する情報収集力だった。やはりこの男には、商人の器がありそうである。
言葉を失うアルベリクを見て、コンスタンは朗らかに破顔した。
「ご心配には及びません。同業の方に漏らすような愚は犯しませぬゆえ。私どもも、貴方がたと同じく、信用が第一ですのでね」
信仰と信用の類似性に掛けたつもりなのだろう。アルベリクにとっては、笑えぬ冗句だった。
「景気も宜しいようでなによりです。聞けば、先の万博に出展された際は、大変ご盛況だった様子で」
「ええ、お陰様でございます。枢機卿猊下には格別のご高配を賜りましたゆえ」
いけしゃあしゃあと皮肉を返すアルベリク。大司教の目尻が小刻みに痙攣する。この手の応酬はアルベリクの十八番とするところだった。小技が決まった喜びに浸ることなく、アルベリクは流れを己に引き寄せるべく、言葉を重ねる。
「しかし、ご承知のとおり、私共は今懐が涼しくございまして……」
「もちろん、承知しております。ですが、それは今だけのことでしょう。貴方がたは今や暁天の朝日。皇室御用達業者に相成られるのも時間の問題。私はなにも、手付金が欲しいなどとケチなことを申しているわけではございません。ただ、私は貴方の天上でのお立場を老婆心ながら懸念しておるゆえ──」
パヴァリアはこうやって、皇室に絡むほど力量のある業者を骨抜きしてきたのだろう。
アルベリクは、ふと己の手元に視線を落とした。ナタリーから贈られた薔薇の指輪が、暖かな光を揺らめかせ、アルベリクの薬指を抱いている。その指輪の細やかな造形の向こうに、ナタリーの控えめな笑顔が見えるようだった。
一方、顔を上げて前を見れば、人の富を吸い上げて肥えた豚の顔がある。袈裟を着た豚が、人間のような顔をしておもねり笑っている。
もしも、天上にゆくために目の前の豚の履く靴を舐めるか、愛する指輪を抱いて地獄に落ちるか、今すぐ選べと迫られたならば、アルベリクは迷わず後者を選んだことだろう。問うだけ無駄の愚問である。選択肢は一つしか無い。
もはや、これ以上大司教と関わり合うのは時間の無駄だった。アルベリクは、机に両手をつき、土下座するように頭を下げた。
「残念ですが、今はなにもお約束することが叶いません。凡夫の分際でかようなお返事しかできませんこと、心苦しく思いますが、どうかここはご容赦を……」
大司教の顔に浮かんでいただらしない笑顔が、ふいに引っ込んだ。代わって、むっつりと不機嫌そうな表情がその顔面に浮き上がってきた。
「左様ですか。ですが、教会はいつでも門扉を開けております。心に重荷を抱えていらっしゃるなら、いつでもお訪ねください」
言葉こそ優しげだが、声音は横柄そのものだった。
大司教コンスタンとの会談は、これで終いとなった。アルベリクは自ら先導して、コンスタンを出口まで案内する。
と、その途上、アルベリクはそこに居るはずのない人物の姿を認め、思わず足を止めた。
それが、本日二人目の珍客だった。
「これは……、ようこそお越しくださいました──ラウル殿」
店の出入り口近くに立つその男の名を、アルベリクは呼んだ。
以前その名で呼べと言われたからそう呼んだわけだが、実際のところ、彼の本当の名をアルベリクは知らない。もし正しく彼を呼称するなら、ただ『殿下』と呼ぶべきであろう。
店に来ていた客は、その男の姿をただ遠巻きにして、呆然と眺めるばかりだった。よもやこのような場所で、その姿に相まみえることなど想像の埒外だったのだ。
大司教はその男の姿を目の当たりにした瞬間、短い悲鳴を上げて顔を引きつらせた。
「お、皇子……! なぜ、かような場所に」
「大司教猊下はご存知ありませんでしたか。私はこう見えて、無類の宝飾好きでしてね。このブランシャールには、特に世話になっておるのです」
第二皇子はそう言って、悠然と大司教に笑いかけた。
大司教が、咎めるような目でアルベリクを睨む。
「アルベリク殿はお人が悪い。かような場所で第二皇子殿下と鉢合わせにさせるとは。心臓が口から飛び出すかと思いましたよ」
アルベリクは慌てて頭を振る。
「まさか。私も今同じ気持ちですよ、大司教猊下。殿下が本日この店に来訪される予定などございません」
「しかし、こんな偶然など……」
大司教の疑いの目が、今度は皇子の方に向けられる。
皇子は心外そうに目を丸く見開くと、芝居かかった身振りで肩をすくめてみせた。
「いやいや、猊下、偶然というのは恐ろしいものですな」
「白々しいことを。皇国派が間者を使って私の動向を探っていることなど、とっくに把握しておるわ」
「ハハ、間者とは穏やかではありませんな! しかし、皇室は慢性的に人材不足ですし、猊下やアルベリク殿の予定をすべて監視することなど不可能ですよ。よしんばそれができたとしても、各々の行動に即応して動けるほど、私は暇ではありません。私が今日、この店に来ることは、数日前から決まっていたことなのです、猊下」
立て板に水で大司教に向かって語り終えるや、皇子はアルベリクに向き直った。そして、絶句しているアルベリクに向かって鷹揚に頷いてみせた。
「クラヴィエール公から、『絹の涙』を献上したいと正式な内示があったのだ。これで私も晴れて、ブランシャール宝飾のオーナーというわけだよ」
「だ、だとしても、わざわざご足労いただかなくとも……」
「要件がそれだけならば、無論、手紙で済ませたところなのだがな」
皇子はやおらその目を光らせ、ゆっくりと注意深く店内に視線を滑らせた。
「噂の新しい応接室というのがいかなるものか、私も一目見たい」
心臓を掴まれたような心持ちになって、アルベリクは思わず喉をつまらせる。
大司教と同じ理由で、皇子はこのブランシャールを訪れたというのだ。言い換えれば、パヴァリア派と皇国派の主要人物が、全く同じ目的でこのブランシャールの店に集ったということになる。
(そんな偶然が、あるはずなかろうが)
間者の話というのは、あながち大司教の被害妄想というわけでもないのかもしれない。そう考えると、アルベリク肚の底にひやりと冷たいものが流れた。情報に通じた権力者ほど恐ろしいものはない。特に、アルベリクのような小悪党にとっては。
彼の動揺が表に滲んでいたらしい。皇子はアルベリクの表情を見ると、慌てた様子で手を胸の前で振った。
「いや、勘違いしないでくれたまえよ。これは真に、私の単なる好奇心の衝動に過ぎない。他意はないし、たとえどんな代物であっても咎めるつもりはない」
そう語る皇子の声は、あくまで穏やかだった。頬にも口元にも柔らかい笑みが浮かんでいる。
しかし、目だけは笑っていなかった。
アルベリクは、今や皇子の勢いに飲まれていた。貴公子と呼ぶには、この第二皇子はいささか俊豪の才気に溢れすぎていた。
(これはそう易々と食える相手ではない)
皇子が何を目的として店に訪れたかは知れない。だが、件の『応接室』を見せた結果、彼が機嫌を損ねる可能性は大いにあった。この施策は、そういう類の代物だったのだ。
なにより、皇子の属する皇国派は、泰皇を領袖としてガロア皇国の独立を目指しており、ベツレヘム教会との敵対を画策していると噂されている。アルベリクが大司教と共にいた事は、皇子にとっては疑念の種になっているはずである。
いまこの瞬間が潮目であると、アルベリクは直感した。
ふと傍らを見ると、捨て置かれ不興げに唇を尖らすコンスタンの姿が眼に入った。その姿を見た瞬間、アルベリクの脳裏に一つの妙案が閃いた。
アルベリクはやおら身を翻し、大司教に対して向き直った。
「お伝えし忘れておりましたが──。猊下」
突然水を向けられた大司教は、驚いたように目を瞬かせた。
「何でしょう?」
「私に贖宥状を贖う権利は、もはやないのです」
アルベリクは神妙な顔で頭を振りつつ、大司教に向かってそう宣言した。困惑しきりといった表情を浮かべる大司教。
「これは異なことを……? 貴方は既に、贖宥の石をお持ちのはず。それが、贖宥状を贖うための──」
「贖宥の石は、既にございません。私がこの手で破壊いたしました」
一瞬、大司教の周囲の時が停まった。次いで彼は己の耳を疑うように、アルベリクに向かって文字通り耳を傾けた。
「……は、……は?」
アルベリクは、己に相対する耳孔に向けて、再び同じ言葉を繰り返した。
「石は破砕し、土に返しました。ご容赦ください。それでは、私は皇子殿下をおもてなしいたしますので、これにて。──君、大司教猊下を出口までご案内しなさい」
問答無用とばかりに、アルベリクは話を切り上げ、近くに侍っていた店子を指で呼び寄せた。店子は困惑しつつも、大司教の斜め前に立ち、腕を伸ばして出口の方を指し示す。
あまりに突然の出来事に、大司教も第二皇子も、ただただ呆然とアルベリクの顔を眺めていた。ことに、大司教などは口を真ん丸に開け放ち、かつて無いほどの間抜け面を公然と晒していた。
先に我に返った皇子が、瞳をわずかに動かし、アルベリクの目を見た。そこに狂気の光がないことを認めると、今度は大司教コンスタンの顔を一瞥した。その呆けた面を見た瞬間、こらえる暇もなく皇子は吹き出した。まさに失笑であった。
一度笑ってしまえば、あとは堰を切ったような笑いが溢れ出す。皇子は最初こそ口元を抑え、含み笑いのようなものを漏らしていたが、やがてこらえきれなくなったのか、声を上げて笑い出した。
身体を折って狂ったように笑う皇子の姿は、一種異様だった。アルベリクは他の客の目を憚りつつ、そんな皇子を窘める。
「ラウル殿」
「いや……いや、失敬。ここに私がいると迷惑になるな。応接室に参ろうか。もはや十分に痛快な思いをさせてもらったが、やはり女官たちに土産話を持ち帰りたいものでね」
笑い悶える皇子を、アルベリクは半ば押し込めるように奥の間に連れ込んでゆく。
「それでは、大司教猊下。ごきげんよう」
廊下の向こうに消える寸前、アルベリクは大司教の方に向き直り、丁寧に一礼してみせた。
暗い廊下の向こうから、皇子の上ずった声が響く。
「いかん、笑いが止まらん……」
一人残された大司教コンスタンは、ただ間の抜けた顔をぶら下げて立ち尽くすばかりだった。