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第十六章(1) 山小屋

 アルバールの山肌に、黒褐色の地肌が目立ち始めた。空にほど近いこの地にも、遅い春が到来しつつあった。


 ある日、いつものように昼食の準備を済ませたアルベリクは、ナタリーに休憩を促すため半地下の工房に降りた。


 鉄扉を開け、工房の中を覗き込むと、作業机を前にして背筋を伸ばすナタリーの姿が目に入った。


 ひと目見て、妙だ、とアルベリクは感じた。いつもの彼女ならば、背中を丸め一心不乱に手を動かしているはずである。そんなときは工房の静寂の中に、工具の発する心地よい声が、断続的に聞こえてきたものだった。


 だが、今の工房はまったく静かだった。天窓から射す陽光の音すら聞こえてきそうである。


 アルベリクは足音を忍ばせてナタリーに近づくと、背後から彼女の横顔を覗き込んだ。


 ナタリーは、机の上の一点を、息を殺して見つめていた。彼女の視線の先では、子供の掌ほどの大きさのブローチが、天窓からの陽光を受けて白く輝いていた。


 そのブローチの姿を見た瞬間、アルベリクの目尻が嬉しそうに垂れ下がった。


「なんだ、もう出来ているじゃないか……!」


 図らずも、喜びの感情が声に乗る。

 その声を聞いて、ナタリーは初めてアルベリクの存在に気づいたようだった。彼女は慌ただしく振り向いて、アルベリクの顔を見上げる。


 アルベリクの想像に反し、彼女は浮かない表情をしていた。それどころか、心やましいことでもあるかのように、取り繕うような笑みさえ見せていた。


 後手でブローチを隠しつつ、彼女は口ごもった。


「いえ、これは……」

「見せてくれ」


 逸る気持ちを隠さず、アルベリクはナタリーに向かって手を差し出す。だが、ナタリーは決して、彼に作品を渡そうとしなかった。あまつさえ、身体をゆるゆると横にずらし、ブローチをアルベリクの視界から隠そうとすらしている。


 アルベリクは内心に沸き起こる苛立ちを抑え込んだ。つまらぬじゃれ合いで時間を浪費する余裕など、今のブランシャールにありはしない。完成品があるというのなら、すぐにでもその目で確認したかった。


 そこでアルベリクは、即座に小さな策を編みだした。彼は不意に意地悪な笑みを目元に浮かべ、指でナタリーの鼻先をかすめるように撫でた。


「無理をしたな。また鼻血が出ているぞ」

「えっ……」


 ほんの一瞬、ナタリーの気が逸れた。その隙に、アルベリクは素早く彼女の横に回り込んで、机の上からブローチを掠め取った。


 ナタリーは泣きそうになりながらアルベリクにすがりつき、非難の言葉を口にした。だが、アルベリクは意にも介さず、天窓から落ちる陽光でブローチを照らし見た。


 すると、にわかに七色の煌めきがブローチの端々で巻き起こり、アルベリクの瞳を焼いた。たまらず、彼は瞼を(すが)める。


 想定していたより、輝きがずっと強かった。子供の掌ほどの大きさしかないブローチであるにも関わらず、それはティアラやネックレスに勝るとも劣らない輝きを放っていた。


 金剛石の配置はデザイン画の通りだったが、一つ一つの石の放つ輝きと煌めきは、常軌を逸していた。まるで空の星々が白日の下に会集したかのように、白く小さな閃光が絶え間なく放たれ続けている。


「……なんという輝きだ……。アルバールの太陽が手に落ちてきたようだ」


 アルベリクの口から、知らずのうちにそんな感想が漏れる。


 しかし、このブローチが真に恐ろしいのは、特筆すべきことが輝き以外にある点だった。


 一言でそれを評するなら、『扇情的』という言葉が妥当だった。


 敢えて輝きを抑えた色石を配置することで、当初ナタリーが目論んでいた通り、楓の葉々の中にくっきりとした陰影をもたらしている。


 ジルベールから(あがな)った魔性の石は、辺部に深い青緑を湛えながら、その芯に強い底光りを抱いて、一種幻惑的な彩りを見せている。


 その劇的な表現は見る者の心を激しく揺さぶり、感動すらもよおさせた。そこに激しい輝きと煌めきが加わると、魔的なほどの魅惑となって、人の意識を恍惚へといざなってゆく。


 やがて、認識世界から自らとブローチ以外の存在が消え去り、ただ闇の中にしどけなく横たわる宝飾の姿を、呆然と眺めることしかできなくなる。


 アルベリクは己の頬を叩いて、自らの意識を現実に引き戻した。


「……なんだ、これは……蠱惑的な……。どうも──光が強すぎて酔ったらしい。頭がくらくらする」


 アルベリクの様子をひとわたり眺めていたナタリーは、諦念に満ちた表情とともに肩を落とした。


「やはり、貴方はそう感じますか……」

「自慢かね? ──いや、それで良い。君ほどの才能の持ち主ならば──」


 アルベリクの言葉を遮って、ナタリーが言葉を挟んだ。


「──お話があります」


 その声には、断固たる意思が滲んでいた。彼女がこういう物言いをする時は、大概の場合、その後に込み入った議論が繰り広げられると相場が決まっている。


 アルベリクはうんざりして、腹の底からため息をつく。しかしすぐ、てきぱきと椅子を引っぱって来て、ナタリーの隣に座った。


「聞こう」


 ナタリーは頷くと、椅子を引き摺り、アルベリクと膝を突き合わせるような形で座り直した。それからアルベリクの方を真っ直ぐに見据え、おもむろに語り始めた。


「私の作品は、あらゆるものの精を集めて作られています。……名もなき花、作者不詳のブローチ、遠く記憶の彼方にある音色、そして、貴方の存在……。でも、同時に、私の心のさざめきも、うねりも、色濃く反映されているのです。それは、時に欲望にまみれた、私的なものであるかもしれません」

「話が見えんな。何が言いたい?」


 貧乏ゆすりをしながら、アルベリクが唸る。

 持って回った言い方から察するに、ナタリーはどうやら、言い難いことを後回しにしようとしているようだった。


 なおも話を続けようと、ナタリーは口を開きかけた。しかし、すぐに彼女はその口と瞼を閉じ眉根を寄せ、苦しげに顔面を絞った。


 やがて、意を決したように唇を引き結ぶや、彼女はやおら身を乗り出し、その鋭い眼差しをアルベリクの方に振り向けた。


「では、はっきり言います。その子を世に出すのは、やめましょう。また新しく作り直しますから、どうか……」


 たまらず、アルベリクは作業台を平手で叩いた。


「莫迦な! 既に当初の納期は過ぎているのだぞ。これ以上製作に時間を割くことはできない!」

「わかっています! ですが、その子からは、何か危険なものを感じるのです!」


 危険だと? と、アルベリクは鸚鵡(おうむ)返しに問うた。およそ、宝飾の批評の場にそぐわぬ言葉である。アルベリクは怒るより前に、呆気にとられてしまった。


 しかし、それが逆に彼の毒気を抜いた。アルベリクは相好を崩し、いっそ軽く声を出して笑った。


「危険とはな。──どこがだね。この作品からは、非凡な魅力を感じる。きっと、誰もが惹かれ、魅了されることだろう」

「貴方は殿方だから、わからないのでしょう……。まさにそれが、良くないのです。それこそまさしく、私の宿業なのです」


 ナタリーは再び、アルベリクの手元に視線を落とした。その手に輝くブローチの姿を、悲しげに見やる。


「その子を作っている間、私の心は貴方に焦がれ、狂おしく悶えていました。その気持ちが、その子にはそのまま反映されています。私の狂気と欲望が、その子の姿には色濃く現れているのです。かわいそうですが、その子には私と同じように、この小屋の中で一生を終えてもらわなければなりません」


 彼女の言わんとしていることが、アルベリクにもようやくにして理解できた。


 ものを作っている間、作者は自らの作品に極めて主観的に没入してしまうことがある。その結果、今回のように、完成形の品質が作者の当初想定していたものよりもずれてしまう場合が、多からずあった。


 ナタリーのように、一作ごとに集中し、想いを込めて作るような性質の技師は、特にそのような傾向が強い。これは言い換えると、品質にムラが出やすいということになる。


 このような品質のムラをなくすため、納期に余裕のある場面では、製作途中で第三者の品質確認を経る場合もある。工房によっては、新人は先輩から逐一作りを確認され、途中工程で作り直しを求められることもある。


 しかし、彼女ほど実力のある作り手が、中間検査を受ける場面はまずない。それに、今回は納期も厳しい。省いても影響の少ないであろう工程は、極力省いて仕事を進めていた。


 また、品質にムラがあるといっても、今回は『当たり』の方──つまり、瑕瑾(かきん)ではなく逸品の方に振れていた。デザイン時点で想定していたよりも、遥かに出来が良かったのだ。尋常の技師であれば、誇らしげに胸を張っているところである。


 ではいったい、ナタリーは何を恐れているというのか。


 彼女が恐れていたのは、まさしくその過剰品質だった。


 真に優れた作品には、作家の魂や想念が宿る。だが、その想念が倫理的に正しいものか否かは、作品の品質とはまた別の評価軸となる。


 今作には間違いなく、ナタリーの強い情念が宿っていた。それは、情けを求める女の欲望であり、その色香はひどく人の心を惑わせる。ナタリーは、まさにそれをこそ危惧していた。この作品は、世に混乱をもたらすかもしれない、と。


 ──彼女の作品は、決して世に出すな。


 ガストンの警句が、脳裏をよぎる。これまで耳の奥に幾度となく反芻された言葉が、今にしてようやく、現実と紐付き始めようとしていた。


 しかし、である。アルベリクには、手元のブローチが、言うほどに危険な代物のようには、どうしても見えなかった。


 なるほど、たしかにこのブローチは、ナタリーの精神性が色濃く反映されたものかもしれない。しかし、アルベリクの自慢の眼で見る限り、そこになんらかのやましさや、邪悪さのようなものは、一切見受けられなかった。むしろ、彼女の強い想いや情念は、宝飾の輝きに深みと豊かさを与え、純粋に人の心を魅了する力となっていた。


 ブローチは、アルベリクの手の中で、切なげに、求めるように瞬く。そのいじらしい姿を見るにつけ、これを世に出さないのは人類への叛逆のようにすら思われた。


「……親の一存で、子の行く末を縛ることなどできない。彼女は、出たいと言っている。この山小屋を出て、自らの魅力を世に問いたいと」


 決して妄言などではなかった。優れた石、優れた宝飾品は、(おの)ずから語る。強い力を秘めた作品ほど、無言の言を雄弁に語る。アルベリクにはその声が聞こえた。アルベリクに聞こえる声が、ナタリーに聞こえぬ道理などないはずだった。


 今日に限って言えば、真を語っているのはアルベリクの方だった。そもそも、ナタリーは危険なものを感じるというが、具体的に何がどう危険なのかなど、彼女に説明できようはずもない。


 ナタリーは苦悶していた。ちぎれるほど唇の端を噛み、眉根に深く皺を刻んで。


 やがて肺の腑を吐き出すほど大きなため息をつくと、彼女は地の底を這うような声で呻いた。


「…………わかりました。ですが、覚悟だけはなさってください。子の成したことは、親の責任。その子が外で何を成したとしても、それは親である私たちの罪であると……」


 アルベリクの耳朶の上を、ナタリーの言葉がそよ風のようにかすめてゆく。


 激しく煌めくブローチの姿は、既にアルベリクの眼と心を囚えて離そうとしなかった。

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