第十五章(5) 貧民街の酒場
机の上に置いた右手に、とろけるような光が瞬いている。
仕事が一段落し、ブランシャールの事務所の人影は既にまばらだった。そんな中、アルベリクは一人執務室に残り、ぼんやりと己の手を眺めていた。
否。正確には、己の手の指に嵌った指輪を、じっと見つめていた。
素晴らしい作品だった。目をやる度に、ため息が出る。控えめな造形の中に、狂おしいほどの美しさが秘められている。
そんな品を、彼女は己のためだけに作り、捧げてくれたのだ。これほどの幸せが、他にあるだろうか。これは世界にたった一つの、特別な作品なのだ。その事実は同時に、この作者にとって己が特別であることの証でもあった。
惜しむらくは、この作品のことを、公然にできないことだった。現在の店の方針として、『リアーヌ』は単なる造形の美しさだけでなく、その技術の稀少性も売りにしている。誰も持っていない、最高の作品を持つ栄誉こそが、リアーヌという商品群の価値にほかならない。
そのような状況にあって、当の売り主が、自慢気にその希少な商品を身につけていては、大いに顰蹙を買ってしまう。
それで、アルベリクは、普段の生活でこの作品をひけらかすことは控えていた。顧客や取引先と会う時は、必ず指輪を外して出かけることにしていた。
だが、本心のところ、彼はこの指輪の存在を、誰かに伝えたかった。ただ自分一人で鑑賞し楽しむだけでなく、誰かに見せびらかして自慢をしてみたかったのだ。
さりとて、アルベリクには、語り合える友の一人もいない。サラの顔が目に浮かんだが、彼女の前でナタリーの話をすれば、またややこしい事態に発展するであろうことは想像に難くない。
そんなことを考えていると、不意に、アルベリクの脳裏に、うってつけの男の顔が浮かび上がってきた。そこで、彼はその男を訪ねることにしたのだ。
貧民街の薄暗い路地裏にある、打ち捨てられたように佇む酒場。薄汚れた装いの浮浪者が道端に屯するような場所で、身なりの良いアルベリクの姿はいかにも場違いだった。
立て付けの悪い扉を開くと、安酒と油の匂いでむせ返りそうになる。夜の営業時間だというのに、店の中は閑散として活気がない。幾人かの客がカウンターに座り、店の主人と話し込んでいるくらいで、テーブル席に座る者の姿はほとんど見えない。
店の装いも、扱う商品も、なにもかもが貧相なものだったが、その一角に座る男の姿だけは、異様なほど浮き立って見えた。
男は机の上に幾重にも広げた書類と向き合い、今しも、その上に軽やかにペンを走らせているところだった。
「ジルベール」
アルベリクが男に声を掛けると、その男、ジルベールは、顔を上げて破顔した。
「よお、会いたかったぜ! ピエールから聞いた。契約はうまくいったみてえだな」
「おかげさまでな」
机を挟んで相向かいに座ると、カウンターの奥からやってきた主人が、アルベリクに注文を尋ねた。安酒など飲む気にもなれず、ジルベールにおすすめの品を尋ねる。すると、ジルベールはメニューに無い品を主人に告げて、彼を追い払った。
「あんたはいつもここにいるのか?」
「んなこたねえよ。今日は本当にたまたまさ。あんたとは運命の糸で結ばれているらしいぜ」
「気味悪いことを言うな」
ジルベールはけたけたと楽しげに笑いつつ、諸手を広げてアルベリクに問うた。
「それで? 今日はなんの用だ」
「特に用はない。ただなんとなく、誰かと話がしたかっただけだ」
「友達、いなさそうだもんな、あんた」
憮然とするアルベリクを見て、ジルベールは再び笑う。笑ってから、机の上の書類に目を滑らせ、何事か書き連ねて傍らの鞄に詰め込んでゆく。
「忙しそうだな」
「少しな。でも、今日はこれで店じまいだ。あんたの方はどうだい。クラヴィエール公の仕事は、順調かい」
「少し、進捗面で難儀している。だが、なんとかなる」
「そうか。やつも相当楽しみにしているらしいからな。なんとか頑張ってくれよ」
「公と面識があるのか」
「こう見えて顔が広いんだぜ、俺は」
「どうやって知り合ったんだ」
「皇国派の知り合いの伝手でな」
その時、話に割り込むように、店の者が料理と酒を持ってやってきた。
運ばれてきたのは、やけに焼き色の濃い肉料理と、貧民街の酒場にしては上等の葡萄酒だった。二人は杯に酒を注ぎ、乾杯を口にする。
「──まあ、俺のことより、あんたのことを聞かせてくれよ」
そう言って、ジルベールは人懐っこい笑いを向けてくる。アルベリクは言葉をつまらせ、口ごもった。
手に入れた宝物の自慢をしたくてここに来たわけだが、開口一番にその話をするのは気が引けた。話の流れの中で、さり気なく見せびらかしてやりたいという、つまらぬこだわりがあったのだ。
さりとて、己の話をするというのは、アルベリクの最も苦手とすることだった。ナタリーにすら、胸襟を開くのにありったけの覚悟を必要としたのだ。
「……さて、何を話したものか……」
「仕事のことでいいだろ。どうせ同業者だ、共感できる愚痴の一つや二つ、あるんじゃないのか?」
言って、ジルベールは皿の上の肉料理を勧めてくる。彼が一切れ摘んで食うのを見てから、アルベリクもそれに倣った。塩気の多い、いかにも肉体労働者の好みそうな味だった。しかし、肴には好適で、出された酒がよく進んだ。
僅かに浮つき始めた頭で、アルベリクはしばし思案したが、特に語りたいことなど思いつかず、首を振った。
「……クラヴィエール公の案件以外、関心はないな。最近、店のことは部下に任せているんだ。実際のところ、俺などいなくとも店は回るのかもしれんな」
「ははッ、それなら俺と同じだな。俺もこう見えて、人の上に立つ身だ。あんたの気持ちはわかるぜ。俺なんぞ居ても居なくても仕事の結果は変わりゃしねえ。だから、俺は一計を案じたのさ。俺とよく似たツラの乞食を雇って、そいつにお仕着せを纏わせて、適当に頷かせておくよう躾けたのさ。おかげで俺はこんなところであんたと駄弁っていられるってわけだ」
「良い身分だな」
「それで仕事はつつがなく回るんだぜ、笑えるだろ」
「さっきの書類は?」
「ありゃ副業さ。……いや、本業かな? まあ、いずれにせよ、表向きの仕事じゃねえ」
「危険な仕事じゃあるまいな」
「どんな仕事にも危険はあるさ。安全な仕事なんざ、この世にはない。そんなものがあると考えながら仕事をするのが、一番危険だ」
「……違いないが」
このジルベールという男には、どうにも不思議な魅力があった。極めて怪しげな人物であるにも関わらず、人懐っこい笑顔とあけすけな態度で、人の心の内側にするりと入り込んでしまう。端正な顔立ちと物腰からも、彼がそこら辺に転がる駄石とは明らかに違うと判断できた。
彼と話すうちに、アルベリクは、ある一つの印象を心に抱いた。
この男は、似ているのだ。かつて己が殺した親友、ルカ・ランベルディに。
再び似たような男に好意を抱き、近づこうとしている己を感じ、アルベリクは自嘲気味に笑った。
窓の外で、祭のような掛け声が聞こえる。歌うような声と、太鼓の音。それらが、宵闇に沈みつつある街の風景の中にこだましている。
だが、よくよく聞けば、それは祭囃子ではなかった。
グリアエ王朝の復古を唱える人々が、昼夜問わず街を練り歩き、己の主張を誰彼問わず聞かせて回っているのだ。
その声は次第に近づき、アルベリクたちの居る酒場の横を通って、大通りの向こうへ消えていった。
「貧民街でもあの手の輩を見かけるようになったか」
「貧民街だからこそ、じゃねえのか。不満は昔からあったぜ。パヴァリアの傀儡を脱し、グリアエの栄光よもう一度、ってな」
ジルベールはそう言ってせせら笑うと、ふいにアルベリクに顔を近づけ、声を潜めた。
「──教会もぼちぼち化けの皮が剥がれてきたな。かつての東征で抱えた借金を返す必要があるとはいえ、阿漕に金を集めすぎだ。──あんた、コンスタン大司教を知っているか」
「知っているも何も、時折俺の店にも訪ねてくる」
「あの豚がわざわざやってくるなんてのは、相当なことだぜ。一体どういう用件でだ?」
「贖宥状を売りに来る」
「贖宥状ってのは、あれか、教会の新しい集金手段だな。だが、あれは、あのクズ石を買った人間にしか売りに来ないはずじゃねえか?」
「買ったんだ。だが、もう手元にはないがね」
「どういうことだ?」
「砕いて土に返した」
ジルベールはしばしの間、きょとんとした顔でアルベリクの顔を見ていた。やがて、彼は弾けるように笑い出した。腹を抱え、かかとで床を打ち鳴らし、ひとしきり笑ってから、目尻を拭きつつ彼は苦しげに呟いた。
「あんた、大したタマだな。審判が怖くはないのか」
「怖くないと言えば嘘になる。だが、俺はこの眼で見た物だけを信じることにした」
「……いい心がけだ。気に入ったぜ」
彼は盃を手に取ると、その中身を一息で煽って空にした。口を手の甲で拭いつつ、言葉を続ける。
「実際、教会の連中がやっていることはまるっきりインチキってもんさ。自分で火をつけた家を消火して回って英雄気取りをしているだけだ。自分たちで人の心に邪悪の火をくべておいて、その火を消せるのは私共でございと救世主ヅラするのがやつらのやり方だ」
「……どういうことだ?」
「退廃の都、皇都アコラオン。それが、この街につきまとうイメージだ。あんたもその価値観に随分と振り回されてきたんじゃないか、え、赤目烏よ」
「その名前で呼ぶな」
「手段を選ばず、死肉をついばみ、死体の中から最高の輝きをまさぐり出して運ぶ烏。まさにこの皇都にぴったりのイメージだと人々は言うだろう。だが、グリアエ王国時代にそんな人間がいれば、間違いなく市中の鼻つまみ者さ。あの時代は、倫理的な議論が盛んだったからな」
「そうなのか? この街はずっと、今のような気質だと思っていたが」
「俺の話の要点はそこだよ。つまり、この街の気質ってのは、ある時期を境に一変したってことなのさ。その時期ってのははっきりしていて、王国滅亡、ガロア皇国建国の瞬間からだ。つまり、皇国建国と同時に、そういう価値観を意図的に広めてきた連中がいるってことだ」
「……それが、ベツレヘム教だとでもいうのか」
「御明察。皇都に享楽と退廃と欲望の価値観を敷衍してきたのは、他でもないパヴァリア・ベツレヘム神聖教国だ。罰するべき悪がいないと宗教ってのは成り立たねえ。この国は隣国の傀儡国家となる過程で、邪悪の養殖場にされちまったわけだ。そうすりゃ布教も楽になるし、国力も削げる。一石二鳥だ」
「陰謀論に興味はないな」
「陰謀論じゃねえよ。事実だ」
「なぜそう言い切れる」
「俺が知っているからさ」
「酔っているな……」
ため息を付いて、アルベリクは己の額に掛かった髪をかきあげる。その手に嵌る指輪が、窓の光を照り返してちらりと光った。
ジルベールの目に、興味深げな光が宿る。
「ときに、その指に嵌めているものはなんだよ」
「気づいたか」
「これみよがしに見せられちゃあな。どうせ、その話がしたかったんだろ?」
アルベリクは苦笑しつつ、肯った。そして、問われもしないまま、この作品を手に入れた経緯や、如何にこの作品が優れているかを、眼前の男に滔々と語りだした。
ジルベールは、アルベリクの自慢話を、静かに黙って聞いていた。アルベリクがひとしきり語り終えると、彼は鷹揚にうなずいて微笑んだ。
「稀代の技師が、あんたのことを想って、あんたのためだけに、手づから作った指輪ってわけか……」
「どう思う」
「それを俺が答えるのは、野暮ってもんだぜ。のろけ話は犬も食わねえよ」
そう言って、ジルベールはしばしの間けらけらと笑っていたが、突然真顔になってアルベリクの顔を覗き込んだ。
「だがなあ、前にも言ったよなあ。俺も、欲しいんだよ。この世界の誰もが欲しがるような、俺だけの宝を。神すらもそいつを手に入れたくて、たまらず喧嘩を売ってくるような、そんな強烈な宝だ」
その物言いに、冗談めかしたものが無いことを見て取って、アルベリクは鼻白む。
「さすがに、神から喧嘩を売られたくはないな」
「贖宥の石を砕いたやつの台詞じゃあねえな」
「──違いない」
二人の男らは、顔を見合わせて吹き出し、声も高らかに笑い出した。
それから二人は、夜も更けるまで延々と、宝飾の話題で語らい続けた。商売も政治も抜きにして、ただ純粋に美しいものの話をする。それだけのことだったが、アルベリクにとってそれは、全く愉快な時間だった。
だが、アルベリクがこの場所でジルベールと出会うことは、以後二度となかった。






