第十五章(4) ブランシャール邸
クラヴィエール公に納品日延期の打診をするため、アルベリクは皇都に戻っていた。
公爵とのやりとりにあたって、アルベリクはその仲介を、己の許嫁であるルイーズに頼んでいた。彼女は零落した伯爵家の娘とはいえ、今やアルノー公爵夫人や皇后陛下とも懇意にしており、皇室にも顔が利くようになりつつある。
それどころか、今やクラヴィエール公本人やその夫人、娘たちとも家族ぐるみで付き合いがあるというのだから、彼女の社交力たるや刮目すべきものがあった。
この強力なコネを有効活用しない理由はない。アルベリクが頼めば角が立つであろう願いも、ルイーズを通して伝えれば通る可能性が高くなると踏んだのだ。
そして、その目論見は見事に当たった。
アルベリクがブランシャール本邸の自室で机に向かっていたところ、ルイーズが勢いよく扉を開いて室内に飛び込んできた。ノックなどない。気を許した相手には、遠慮や淑やかさなど見せないのが彼女の性質だった。
「公爵様からお返事が来たわ」
許嫁の不躾にも慣れたもので、顔色ひとつ変えずアルベリクは振り返った。
「どうだったね」
「私の頼みごとが珍しいというので、了承してもらえたわよ。夏の万博に間に合わせてくれればそれで良いって」
「そうか……。助かった。ありがとう」
「何を言っているの。これは家のためでしょう。貴方のお仕事のことはちっともわからないけれど、私が頭を下げて通る道があるのなら、いくらでもそうするわ」
「本当に助かった。これで、しばらくは時間を稼げる。俺はこれからまた留守にするが、義父上によろしく伝えてくれ」
そう言って頭を下げると、アルベリクは再び机に向き直った。
ルイーズは心外とばかりに眉を吊り上げる。
「それだけ? 嘘でしょう。そんな薄情なことってあるかしら。いくら忙しいといっても、婚約者を長いこと放っぽりっぱなしなのよ。独りで過ごす寂しさを、ねえ、貴方考えたことがあるの?」
アルベリクは、きょとんとしてルイーズを見た。言うに事欠いて、彼女の口からそんな言葉が放たれるとは思っていなかったのだ。
「寂しい? 俺が居なくてか?」
「……まあね」
改めて問われ、バツが悪そうに口ごもるルイーズ。
彼女はおそらく、婚約者としての体裁を保ちたいと考えているのだろう。なにしろ、十人の婚約者から三行半を叩きつけられた娘である。しかし、実際に許嫁らしいことを言葉として口に出してみると、あまりに上滑りするものだから、きまりが悪くなったのだ。
アルベリクは苦笑して、そのことをあげつらった。
「寂しい訳がなかろう。ローランを呼んで仲良くやっていたようじゃないか」
「知っていたの……?」
苦々しげに呟くルイーズ。「ああ」と無感情につぶやき、アルベリクはみたび机に向かう。
「大胆なことだ。愛人を自宅に連れ込んで楽しむとはな」
「責めているの?」
「いや──。だが、まだ駆け落ちしたいと君が思っているなら、それは全力で止めたいとは思っているがね」
「……駆け落ちなんて、無理よ。ローランだってそう言ってる。わかってるくせに」
「なら、なんの問題もないな」
「──怒らないの?」
「愛人の一人や二人くらい、目をつぶるさ。俺とて、君との関係は維持しておきたい。君は今や、ブランシャールにとって有益な人物に成り上がったのだからな。マネキンなどと呼んだことも、謝ろう」
アルベリクとしては、この言葉をもって話を終いにするつもりだったのだが、ルイーズはなおも食い下がった。
「……貴方だって、いるんでしょう。出張先に、内縁の一人や二人」
アルベリクは訝しんだ。彼女の意図は、一体どこにあるのだろう? プライドを守るための単なる意趣返しか、それともアルベリクを十一人目の男にしたいのか。
いずれにせよ、ナタリーとの関係が明らかになると諸々の意味でまずいことになる。そう考えたアルベリクは、何も答えずに誤魔化すことを決め込んだ。
すると、ルイーズはその無言を都合よく解釈したらしい。得意げに鼻をふくらませ、胸を張った。
「図星ね。わかるもの」
「なぜそう思った?」
「ほっとけない感じが、なくなった」
「君は世話焼きなところがあるからな」
「良い伴侶でしょう」
「どうかな。男は放っておいたほうが良い時もある」
ルイーズは不興げにふんと鼻を鳴らして唇を尖らせる。
しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼女の表情は意地悪な笑みに取って代わった。
「ね、どんな人なの?」
「許嫁の愛人のことなぞ、聞きたいのか」
「そりゃそうよ。貴方だけ私のことを知っているなんて、不公平だもの」
「そうか、なるほど。しかし、何も言うことはない。言っておくが、愛人がいるとも俺は明言していないからな。言質を取られて後から揉めるのはごめんだ」
「はぁ? そんなつまらないこと、私がするとでも?」
「歳を重ねれば、どうなるかわからん」
「心変わりを恐れていては、人を愛することなんかできないわ」
「本気で言っているのかね」
「ええ」
「なるほど、君は真っ直ぐだな」
「そのせいで、婚約を十度も反故にされたけれどもね。でも、私は母譲りのこの性格を変える気はないの」
ルイーズは半ば冗談めかしてそう言ったが、アルベリクは彼女を笑わなかった。彼は真っ直ぐに許嫁の目を見て、重々しく答えた。
「それがいい。願わくは、その真っ直ぐさを矯めることなくこの先も過ごしてほしい」
アルベリクの誠実な応対は、ルイーズの動揺を誘った。彼女は誤魔化すように咳払いをひとつすると顎をつんと上げ、努めて高慢に振る舞ってみせた。
「言われなくったってそうするつもりよ。ベルティーユ様やマドレーヌ様は、私のこの性質を気に入ってくださっているんだから」
若いながら、この家で唯一貴族の血を引く者として、凛然たる姿を見せなければならない。そんな挟持が、反り返った彼女の胸元に漲っていた。
しかし、同時に彼女はまだ幼さを残す齢十六の娘でもあった。いまだ好奇心旺盛な年頃である。
先程からずっと、ルイーズはアルベリクが机に向かって何をやっているのか、気になって仕方がない様子だった。そこで、彼女はちょっと首を伸ばし、机に向かうアルベリクの手元を覗き込んだ。
「ね、ところで、貴方さっきから、何をしているの?」
「贖宥の石をな、鋳潰そうと思ってな」
彼の手は小さなやっとこを掴み、今まさに銀製のブローチから橄欖石を取り除こうとしていた。
これには、さしものルイーズも泡を食ってしまい、アルベリクの肩口を掴んで押し留めた。
「待って待って、もったいないわ! それひとつで何億もするのでしょう? 売っぱらっちゃえば良いのよ。欲しがってるプチブルジョワジーがたくさんいるわ。うまくすれば買値より高く売れるかも……」
自然と始まる皮算用に、アルベリクは思わず苦笑する。彼女のこういうところは、流石に商人である父親に似ている。そして、アルベリクは実際のところ、商才においては彼女に及びもしないのだ。モノに対する認識ひとつとっても、この違いなのだから。
アルベリクは目を細め、ゆっくりと頭を振った。
「いや、これでいいんだ。俺はもう、こいつとは縁を切りたい」
「エン?」
「魂の繋がりのことを指す東洋宗教の言葉だ」
ふうん、と、生返事をするルイーズ。明らかに、興味などなさそうである。
アルベリクは、そんなルイーズに構うことなく、嬉々として語り始めた。
「これは橄欖石の宝石だ。橄欖石は、地上でこそ希少石としてもてはやされているが、地下深くには人の命より多く溢れている。この世界を構成するのは、橄欖石といっても過言ではないくらい、ありふれた石だ」
語りながら、石を挟む爪の一本一本をやっとこで矯め、取り外す。
窓の光にかざすと、石の内部が透けて見えた。肉眼でも、無数のインクルージョンとクラックがはっきりと見える。驚くほど粗悪な石だった。陽光を透かした濃緑色の光は、アルベリクの緋色の瞳に当たるや、泥のような褐色に変わった。
「だが、俺はこの石が好きだ」
「好きなのに、潰すの?」
「ああ」
「なぜ」
その問いに、アルベリクは答えなかった。彼はすり鉢の中に石を入れ、すりこぎを石にあてがうと、その頭に木槌を叩きつけた。鈍い音を立てて、石はあっけなく割れた。二度、三度と槌で打つ度に、石は少しずつ細かな破片に分かれてゆく。
石が砂粒ほどの大きさになった頃合いで、アルベリクは立ち上がり、すり鉢を携え部屋を出た。慌ててルイーズも後を追う。
廊下から応接間に入り、そこからまっすぐ裏庭に出る。広大な庭園の片隅の、小さな花壇の前でしゃがみ込むと、アルベリクは黒い土を浅く掘った。そして、今しがた粉々にした橄欖石のかけらを、穴の中に投じて埋めた。
長い時間をかけて地の深くに潜り、いつか再び美しいひとつの晶として結実する日がくる。遥か未来に来るその日を、アルベリクは祈った。
その様子を後ろから見ていたルイーズは、静かに呟く。
「──貴方、やっぱり変わったわ」
「そうかな」
手についた土を払いつつ、アルベリクは立ち上がる。その眼差しはいかにも清々としていた。
ルイーズは、ほんの刹那、眩しそうに目を細めた。それから、薄く笑う。寂しげでもあり、悲しげでもあり、それでいて、そこはかとなく嬉しそうにも見える、そんな不思議な笑顔だった。
「ええ。でも、きっと変えたのは、貴方の愛人。私じゃない」
「嫉妬でもしているのか?」
眉を上げ、冷やかすようにアルベリクが問うと、ルイーズは「まさか」と即答してせせら笑った。そのときにはもう、ルイーズの表情はいつも通りのそれに戻っていた。
会話はそれきりだった。くるりと踵を返し、ルイーズは館の中に帰ってゆく。
去りしな、彼女はアルベリクに顔を向けず、こう言い捨てた。
「でも、今の貴方と、もう一度初対面で出会えたらって、思うわ。ちょっとだけね」
その声は、春の庭園の中で、妙に明るく響いていた。






