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第十五章(3) 山小屋3

 目を覚ました時、アルベリクは己の頬に木目の感触を感じた。机の上に突っ伏して眠っていたのだ。

 昨夜の一件の後、ベッドに戻らず沈思しているうちに、気を失うように眠りに落ちたのだろう。


 窓から差す朝の光が、瞼の間から瞳孔を刺す。鎧戸を開けたまま眠ったのだったかと訝しみ、顔を上げる。


 すぐ隣に、ナタリーが座っていた。彼女は机に肘をかけ、ぼんやりとアルベリクの顔を眺めていたが、アルベリクが起きるや、そそくさと背筋を伸ばした。その瞼は赤く腫れ上がり、見るも無残なものだった。


「徹夜したのか?」

「利き手を、出してください」


 ナタリーはアルベリクの問いに答えず、有無を言わさず命じる。


 訝しく思いつつも、アルベリクは言われるがままに手を差し出した。すると、ナタリーはその手をそっと取り、薬指に指輪を滑り込ませた。緋色の眼が無意識的に動き、指輪の姿を捉える。


 二つ目の指輪──。そうと見て、間違いなかった。


 モチーフこそ、一つ目の茨の指輪と同じだったが、造形はまるで異なった。当然、腕の内側に棘は突き出ておらず、嵌めても指が傷つくことはない。磨き込まれた腕の感触は、なめらかで肌に心地よかった。身に着ける者が不快にならないよう、心づくしがなされていることがよく分かる。


 加えて、その意匠もまた素晴らしいものだった。


 支え合う二輪の薔薇の花を、色石と七宝とで見事に表現している。宝石の配置による記号的な意図もさることながら、非記号的なニュアンスの中に、アルベリクの優れた目でしか識別できない豊かな感情や想い、情、あるいは祈りといったものが散りばめられていた。


 それはあたかも、彼のためだけに作られた言語のように、アルベリクの深奥に刺さり、共鳴し、彼の心を強く揺さぶった。


 しかし、今のアルベリクにとってそれは、あまりに扇情的に過ぎた。見ていると感情が揺さぶられ、とても直視できない。アルベリクは(おのの)いて、指輪から目を逸し、ナタリーを見た。


「……なんだ、これは……」

「これは、私の願いです」

「──願い」


 ナタリーは頷き、アルベリクの眼を覗き込んだ。


「つらい時、耐え難いとき、この作品を見て、そして思い出してください。私が心から、貴方の幸せを願っているということを」


 どこかで聞いた言葉だと思い、アルベリクは眉をひそめた。すると、彼の心を察したかのように、ナタリーが頷く。


「そう、それは、貴方がくださった指輪の、対になるものです」


 ──不釣り合いだ。


 アルベリクは直感的に、そう思った。


 指輪は、アルベリクの人生を、否定も肯定もせず受け入れようとしていた。彼の歩んできた道に寄り添い、支えようという気概が、その内奥からにじみ出ていた。


 それは、まさしく願いであり、祈りだった。一人の男の人生が、幸福であるようにとの、願い。


 アルベリクは衝動的に、その指輪を外したくなった。だが、いざ指輪に触れようとすると、胸が締め付けられ、全身が拒絶しにかかってくる。


 自らの手では、それを外すことができそうにもなかった。それゆえアルベリクは、右手をナタリーの前に掲げ、彼女に向かって請うた。


「外してくれ。……受け取れん」

「なぜですか……?」

「なぜだと? それは俺の台詞だ。昨晩の俺の話を聞いていなかったのか?」

「もちろん、聞いていました」

「なら、こんな物を作る気になどなれないはずだ!」


 声をうわずらせ、アルベリクは叫ぶ。ナタリーは動じず、静かにゆっくりと首を横に振った。


「私に見えているのは、苦しむ今の貴方です。私を支えてくださる、今の貴方です。私は、この目で見た貴方を信じます」


 ──目に見えるもののみ信じろ。目に見えないものをこそ願え。


 ガストンが度々口にしていた言葉だった。


 ナタリーはアルベリクの手を取り、彼の指に嵌る指輪の腕を、指先でそっと撫でた。


「私は、私の信頼の証として、この指輪を贈るのです。貴方は、私の想いを受け取れないとおっしゃるのですか? 私を、信頼に値しない女だと……」

「そうは言っていない」

「では、どうか、受け取ってください。貴方の幸福を祈って、一生懸命作りました。きっと、気に入っていただけるはず……」


 その言葉を聞くや、アルベリクは横目でナタリーを睨んだ。


「……なぜ、俺の幸福なんぞを祈る?」

「……なぜって……」


 ナタリーの瞼の端から再び涙が滑り落ち、泣きはらした跡の残る頬にさらに一筋跡をつける。

 アルベリクは難渋を眉間に示し、声を絞り出した。


「俺に、この指輪を受け取る資格はない」


 断固としてそういうと、アルベリクは己の右手を更にナタリーの方へ押しやった。


 だが、ナタリーはその手を片手で柔らかく握るばかりで、決して彼の指から指輪を外そうとはしなかった。濡れた頬と瞼をもう一方の袖で拭い、鼻をすすり、涙を呑む。


 やがて、彼女はおもむろにアルベリクの頬に手を添え、今一度自分の方を見るよう仕向けた。そして彼女は、額同士が触れるほど顔を近づけ、アルベリクの緋色の目を覗き込んだ。


 直後、アルベリクの唇に、暖かくふくよかなものが触れた。


 重なった唇から、ナタリーの存在が己の中にじわりと染み込んでくる。幸福な真綿に包まれたような感覚。その感覚に、アルベリクの意識の輪郭があわや崩れかけた。


 永遠のように長い一瞬の後、ナタリーはアルベリクから顔を離す。

 真摯な眼差しが、アルベリクの瞳を見据えていた。


「……私はもう、貴方と一心同体なのです。貴方が笑ってくれたなら、私も幸せな気持ちになります。貴方が悲しむのなら、私もひどく悲しいのです。貴方の苦しみが続くのなら、私もずっと苦しみ続けることでしょう。そしてその悲しみや苦しみは、きっと私の作品の質に跳ね返ってくる」

「……それを人質にするのは、卑怯だろう……」


 アルベリクが呻くと、ようやくナタリーの目の中に悪戯めいた笑みが差した。


 再び、ナタリーの両手がアルベリクの手を握る。冷たかったその手は、アルベリクの体温を受け取って、今やアルベリクの手より温かかった。


 今一度、指輪を見る。わずかに手を動かすだけで、窓からの光を受けて指輪は瞬く。

 天才技師による入魂の作だった。これほどの宝を持つ者は、天下に幾人もないだろう。アルベリクのみ嵌めることを許された、彼だけのレガリアだった。この権利を棄てることは、何らかの冒涜ですらあるような気がした。


 既に、彼の人生は己だけのものではない。自らの苦しみが目の前の娘の苦しみになり、自らの幸福が目の前の娘の幸福になるというのなら、幸福はもはや、アルベリクに課せられた義務だった。


 アルベリクは意を決し、ナタリーの小さな手をそっと握り返した。


「……わかった。受け取ろう。君の魂の形代として。俺自身への戒めとして」


 窓の外に目をやる。アルバールの空の鮮やかな青が、アルベリクの瞳を焼いた。

 山の空は、永遠と変わらぬ輝きを誇りつつ、二人の姿を見下ろしていた。

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