第十五章(2) 山小屋2
宝飾技師の夢断たれた若き日のアルベリクは、逃げるようにマルブールを出奔し、働き口を探すため皇都に向かった。
しばらくの間、彼は糊口をしのぐための労働に従事していたが、やはり夢を捨てきれず宝石商へと身を転じた。その時に職場として選んだのが、ブランシャール宝石店だった。彼はそこに、見習いとして潜り込んだのだ。
生来の眼力を頼りに、アルベリクは宝石商として順当に名を成していった。夢の跡地に空いた巨大な穴を塞ぐため、彼は猛然と働いた。
使える手段は全て使い、販売成績を積み上げた。彼のもたらす宝石に間違いはないと、顧客からはもっぱらの評判だった。
そんなおり、彼に出会いが訪れた。
ブランシャールに新しく入ってきた異国人の同僚、ルカ・ランベルディ。彼は隣国のパヴァリアで宝飾商人の息子として産まれ、この皇都で修行しにきたという。
アルベリクは当初、純粋な好奇心と共に彼と付き合っていた。異国の宝飾知識を持つ者が珍しかったのだ。だが、繰り返し話してゆくうちに、彼の人柄に惹かれ、やがて真の友人となっていった。
二人は切磋琢磨しながらブランシャールで台頭し、販売成績を争う好敵手にもなった。
ときにその頃、アルベリクには憧れの女性がいた。とある富豪の娘で、名はフェリシテといった。
凛とした知性と清廉さの持ち主であり、さらにその心を写し取ったように、彼女は真っ直ぐな美しさを持ち合わせていた。
たまに彼女と挨拶をする機会があったが、若いアルベリクは彼女に笑顔を返してもらうたびに、天に登るような心地になった。
ルカがブランシャールの販売成績月間首位を初めて獲得した日、彼はアルベリクに独立の意思を告げる。懇意にしている富豪に出資してもらい、皇都の片隅に小さな店舗を構えるつもりだという。
快く応援するつもりのアルベリクだったが、ルカの後ろ盾となっている富豪の名を聞かされた瞬間、愕然とする。
その富豪というのは、フェリシテの実父だったのである。ルカは、密かにフェリシテとの婚約も済ませていた。
アルベリクは表面上ルカを応援する素振りを見せていたが、一人になると荒れて物に当たり散らし、呪詛の言葉をひたすらに吐き続けた。
時を同じくして、アルベリクは顧客の離脱に悩まされていた。理由を探ったところ、あろうことか、ルカがアルベリクの顧客名簿を持ち出していたことが発覚した。
アルベリクは大いに怒り、復讐を誓った。己を裏切った男に、必ずや代償を支払わせてやろうと。
そんな折、アルベリクは店のオーナーであるブランシャール伯爵から、一つの命を受ける。サント侯夫人の入札に参加し、取引の権利を掴めという。厳命だった。
サント侯夫人はブランシャールに在籍していた頃のルカの顧客だった。独立したルカの店に鞍替えするために、サント夫人が一計を案じたのである。
いわば、この入札は半ば出来レースというわけだった。
「その入札に成功すれば、俺はブランシャール伯爵の婿養子になるという約束だった。失敗すれば、クビだ。顧客名簿を取り返さないことには、どのみち店には居られない。俺とて引けない状況だったのだ」
「そこまでして出世にこだわる理由が、私にはわかりません」
「そうかな……。君も、俺と同じだと思っていたが」
「どういうことでしょう……?」
アルベリクは、己の胸を親指で衝いて示した。
「──ここに、ばかでかい穴がある。夢を諦めたその日から、ずっと。今もその穴から隙間風が吹いている。このがらんどうを、そのままにしてなど居られない。何かで埋めなければ。違うか?」
アルベリクの問いに、ナタリーは言葉を返すことができなかった。
ナタリーもまた、同じほどの穴をその胸の奥に抱えている。なにもかもを飲み込む、深淵を。それは、彼女自身がかつて口にしたことだった。
アルベリクは話を続ける。
「俺はサント夫人に多くの好条件をぶら下げて、ルカの店を入札対象外にするよう仕向けた。ブランシャールとしては、夫人とのパイプを維持することが大きな目的だったから、ある程度の逆ザヤは許容できたのだ」
さらにアルベリクは、ルカの店舗に偽造の手紙を送り、入札の日時と場所を間違えるように仕向けた。入札の前日、アルベリクは素知らぬ顔でルカと酒を飲み、「明後日の入札は……」などとわざと間違った日時を会話に挟んだりもした。
かくしてルカは入札当日にサント侯夫人の邸宅に来訪せず、アルベリクは難なく出来レースを制したのだった。
ルカは、当てにしていた案件を失注したことで資金繰りに失敗し、義父との関係も悪化。路頭に迷った挙げ句、自宅の裏庭で首を括った。
彼の葬儀にいけしゃあしゃあとやってきたアルベリクは、形見分けの場で顧客名簿を奪い返した。
その場でフェリシテから強烈な面罵を受けるも、彼の心は既に凍っており、いささかの痛痒も感じることはなかった。
後にフェリシテも精神を病み、腹の中の赤子と共に服毒自殺を遂げたという。
アルベリクの復讐は成った。しかし、胸に開いた虚無の穴は、以後ますます広がりゆくばかりだった。
「俺の話は、これで全てだ」
無表情で、アルベリクがつぶやく。その一言を境に、部屋の中に重苦しい沈黙が満ちた。
ナタリーは、真っ青になって震えていた。だが、彼女は気丈にも、その視線をアルベリクの眼から離すことはなかった。今にも泣き出しそうになりながらも、唇を真一文字に引き結び、愛する者の唾棄すべき半生を必死で受け止めようとしていた。
告別の場の喪主のような口ぶりで、アルベリクはナタリーに問うた。
「後悔しているか? 聞かなければよかった、と」
ナタリーの目の端に、光るものが見えた。しかし、その雫がこぼれ落ちるのを、アルベリクが見ることはなかった。彼女は顔を背けつつ立ち上がり、真っ直ぐ工房の奥へと消えていった。
残されたアルベリクは、机の上で頼りなく揺れる灯りを、死人のように静かに、ただじっと見つめていた。
何かが終わりを迎える時の、あの全身を苛む寒々とした感覚ばかりが、アルベリクのがらんどうの胸の中を吹き抜けていた。






