第十五章(1) 山小屋1
山小屋での夕食を済ませた後、ナタリーがおもむろにこんな話を切り出した。
「この指輪の、お返しをしないといけませんね」
彼女はそう言って、手元の指輪に視線を落とす。
銀の指輪はランプの明かりに照らされて、おぼろに煌めいていた。その輝きがナタリーの瞳に映り込み、陽炎のように揺れる。
独語するように、彼女は呟く。
「二つ目の指輪を、今こそ作るときかもしれません」
「ほう、それは楽しみだな」
ナプキンで口元を拭いつつ、アルベリクが目を細める。その、どこか余裕含みの様子を見て、ナタリーの表情が暗く沈む。彼女は頭をふって、こう応じた。
「でも、今のままでは、作れません。貴方は、肝心なことを隠しているのですもの」
「君に隠し事など、していないつもりだが……」
当惑気味に眉根を寄せるアルベリク。
ナタリーは指輪から視線を逸らさぬまま、僅かに瞼を伏せる。
「この指輪には、どこか仄暗い悲しみが見て取れます。貴方の人生に翳を落とす、何かが……」
アルベリクの表情にも、僅かに翳が差す。
ナタリーに贈った指輪には、彼自身の全てを込めた。そうしなければ、指輪の中に魂を込めることができなかったからだ。
だが、その過程で、混ざってはいけない感情も入り込んでしまったのかもしれない。彼女を不安にさせるような、負の感情が──。
アルベリクは、目を細めて微笑むと、優しく誤魔化した。
「気のせいだろう」
「そうでしょうか……?」
「ああ」
それきり彼は会話を切り上げ、食事の片付けに入ってしまった。
ナタリーは寂しげに肩を落とし、すがるような目で指輪を見つめ続けるばかりだった。
◇
アルベリクの贈った指輪が奏功したか、ナタリーの手は再び動き出した。
しかし、当初設定した納期には、確実に間に合いそうもない。納期延長の交渉が必要だった。
交渉には、アルベリクが出向かなくともことが進むよう、次善の策を用意していた。だが、その策がうまく運ぶ確証はない。
差し迫る納期を前に、アルベリクの精神は少しずつ、だが確実に追い詰められていた。
ある日、アルベリクが山小屋の寝室で寝ている折、夢を見た。いつもの悪夢だった。
一面の闇。その中に、ルカが四肢を力なく垂らしてぶら下がっている。しかし、どうも様子がおかしい。顔が、ルカのものではないように見える。アルベリクは下から顔を覗き込む。
──己の死に顔が、闇の中にぶら下がっていた。舌をだらしなく曝け出し、眼窩から蛆を湧かせて。
「かっ、は……ッ!」
乾咳を吐きながら、アルベリクはがばりと身を起こす。疾駆した後のように、胸の奥で心臓が激しく鼓動する。身につけていたシャツが、汗で胸と背中に張り付いている。
暗闇に目が慣れたころ、ようやく彼は認識する。自らが安全な山小屋の寝室にいることを。
彼の肌着の袖を、華奢な指がそっとつまんだ。
「アル」
囁くように呼ぶ声が、耳元に聞こえる。聴くだけで心を落ち着かせるその声の主は、ナタリーに違いなかった。
彼女はベッドの傍らに跪き、ひどく不安げな表情を浮かべながら、アルベリクの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? ひどくうなされていました……」
「起こしてしまったのか。すまない」
いったいこれまで幾度、こうして悪夢にうなされ、人を心配させてきたことだろう。
やはり寝室は分けたほうがよさそうだ。そんなことをアルベリクがつらつらと考えていると、ナタリーが彼の思考に割り込んで口を挟んできた。
「ルカというのは、貴方のお友達の名前だそうですね」
「……ああ、そうだ。寝言でも吐いていたのか」
「ええ……」
彼女がルカの名を知っているのは、ネイライが山小屋に来た時に伝えたためだ。おそらく彼女はその時に、アルベリクの過去の所業について、ある程度聞かされていたのだろう。
暴行事件のごたごたもあり、彼女はこれまで、そのことについて深堀りはしてこなかった。だが、今は事情が違う。
今こそ、その話をすべきときだと、ナタリーの眼が言外に語っていた。
「──話してくださいますね? 皇都で、貴方が何を見てきたのか。何が貴方を苦しめるのか」
「俺は苦しんでなど──」
「私に、嘘はつかないでください」
ナタリーの指が、手綱を握るかのように、アルベリクの袖を強く掴む。つまらぬ誤魔化しなど、彼女に対してはできそうもなかった。
だが、ただの悪あがきになるとわかっていても、それでもなお、アルベリクは語ることを拒んだ。
「──話したくない」
「話してください」
「話せば、君も俺も後悔するだけだ」
「構いません。話してください」
「どんなに親しい間柄でも、踏み込んではいけない一線がある。それを越えれば──」
「いいから、話して」
断固とした語調で命じられて、アルベリクは思わず怯んだ。ナタリーの眼光の中には、有無を言わさぬ強烈な圧が宿っていた。
アルベリクは深々とため息をつき、諦念を滲ませながら顔を上げた。
「……わかった。話そう。それで君の気が済むのならな」
二人は連れ立って寝室を出て、机の上に置かれたランプに灯を点した。深夜の闇の中では、ランプひとつの灯りなど何の力も持たない。ただ机を挟んで向き合い座る二人の姿ばかりを、暗がりの中に薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。
周囲は全て虚無の黒の中に沈んでいる。世界には、机と、僅かな灯りと、二人の男女しか存在しない。そんな空間の中で、アルベリクはゆっくりと己の物語を語り始めた。
「君は、かつて俺に話してくれたな。愛する者たちを死なせてしまったと」
アルベリクの問いに、ナタリーは黙って頷いた。
「同じだよ、俺も。──俺も、人を殺した。親友を殺した」
ナタリーは、もう一度小さく頷く。驚いた様子はなかった。
「直接手を下したわけではない。だが、あいつを殺したのは俺だ。俺が、あいつを追い詰めたんだ」
それから彼は、彼の半生をひとつずつナタリーに語って聞かせた。皇都に出てきた後のこと、親友ルカと出会った経緯、そして、なぜ彼を追い詰め、死に至らせることになったのかを。
どうということのない、ただの一人の男の物語だった。






