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【書籍発売中】マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師  作者: 宮之森大悟
第十四章 アルバールの芽吹
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第十四章(4) 山小屋

 指輪を完成させたアルベリクは、それをその日のうちにナタリーに贈ろうと考えていた。


 ナタリーに己の魂を預けると誓ったあの日から、既に六日も経っていた。その間、アルベリクは彼女の住む山小屋に泊まり込み、彼女と生活を共にしていた。己がいないことで彼女が孤独を感じるというのなら、常に側にいるべきだと考えたためだ。


 しかし、いざ指輪を渡そうという段になると、不安が鎌首をもたげてきた。


 ──相手への贈り物として手作りの指輪を用意するなど、いささか独りよがりではないだろうか?

 ──俺の作ったものを貰って喜ぶ人間が、はたしてどこにいるだろう?


 今更考えても詮無いことが、次々に思考を占め始める。

 だが、誓いを立てた以上、何も成さないわけにもいかない。

 アルベリクは夕食の準備を進めつつ、思考を堂々巡りさせていた。


 悩み事があると、人間は大概、他のことが手に付かなくなるものだが、このアルベリクという男は違った。パニックに近い状態に陥るほど、普段の生活が丁寧になるという妙な癖があった。


 その日の夕食の席で、皿のスープから一匙口に含んだ瞬間、ナタリーは驚いたように目を見開いて、アルベリクを見やった。


「なにか、良いことでもあったかしら」

「うん? 何がだね」

「今日のお夕食は、いつにも増して、美味しい気がします」

「そうかな。いつもと変わらんだろう」


 いかにも平気な顔をして話をしているが、この間にも、アルベリクの心には嵐が吹き荒れていた。実際のところ、食事の味などもわかってはいなかったのだ。


 乾ききったスープの皿をパンの欠片で執拗にこすりつつ、アルベリクは考えていた。この一切れを咀嚼して飲み下したら、話を切り出そう、と。


 しかし、そんなことをまごまごと考えている内に、ナタリーの方が先に話を始めてしまった。


「貴方と、こうして一緒に過ごすようになって、もうどれくらい経つのでしょう」


 しみじみとひとりごちるナタリー。懸案を後回しにできたアルベリクは安堵の表情を浮かべつつ、穏やかに答えた。


「泊まり込みを始めたのは、そう、ちょうど一週間前からだな」

「初めて会った時からは?」

「半年弱といったところだろう」

「たったそれだけですか? もっとずっと前から、一緒にいたような気がしていました」

「密度の濃い時間を過ごしてきたからな」

「時間の流れは、一定ではありませんね。いずれ、貴方と一緒に過ごした時間は、これまで生きた時間より、長くなるのでしょう」

「気の長い話だな」

「きっと、すぐですよ」


 ふいに、ナタリーは真顔になる。彼女は背筋を伸ばし、ゆっくりと頭を下げた。


「アル。一週間、ずっと一緒にいてくださって、本当にありがとうございました」

「どうしたんだ、改まって」

「明日から、仕事に戻ります」


 明瞭なその声からは、強い決心と覚悟とが、はっきりと感じられた。


「もう大丈夫なのかね」

「ええ。貴方が側にいてくださったから……」


 思い出を宝箱にしまうように、彼女はそっと瞼を閉じる。それからゆっくりと眼を開くと、確信を込めてこう言い切った。


「──貴方は確かに証してくれたのです。貴方の魂が、私とともにあることを」


(違う)


 アルベリクは心の中で叫ぶ。己の想いの証明は、そんなものであるはずがないのだ、と。

 ナタリーは、早合点してしまったのだ。ただの気遣いに過ぎぬ行為を、約束の遂行であると。

 早々に、彼女の誤解を正さねばならない。もう、迷っている暇はなかった。


「ナタリー。受け取ってほしいものがある」


 そう言って懐の化粧箱を掴んだ瞬間、アルベリクの心臓が跳ね上がった。


 なにがあったというわけではない。ただ、この中に収められた指輪をこれから渡すのだと思うと、言い知れぬざわめきが全身の動脈を揺り動かしたのだ。


 アルベリクはこの感覚を知っていた。ずっと若い時分に、初恋の娘に贈り物を渡したことがある。その時の感覚に、近しいものがあった。


 思春期の若造でもあるまいしと、頭ではそう思う。だが、心はどうにも言うことを聞いてくれなかった。


 手を懐に差し入れたまま、動けない。筋肉が意思を受け付けず硬直する。皇族と相見えたときすら、これほど緊張することはなかったというのに。


 震える手で、化粧箱を懐からどうにか取り出す。蓋を開けると、己によく似た指輪が、黒い天鵞絨のベッドの上にふてぶてしく鎮座していた。


 他の誰のためでもない。目の前の女のためだけに作った指輪である。そんなものを渡されて、果たして相手は喜ぶだろうか──?


 と、突然、彼の耳の奥で、かつての師匠である老ガストンの声が響いた。


 ──技師ならば、己の作品に挟持を持て、アル。己の作品をもう一度見てみろ。作品に恥ずべきところがないのなら、胸を張って世に問え。


 その師匠の言葉に忠実でいられたのは、あの蓮の指輪を作った時だけだった。その蓮の指輪は今、ナタリーの手元にある。


 いま一度、己の作った指輪を見る。欠けたるところも過ぎたるところも、アルベリクの眼には見つけられなかった。


(指輪よ、俺はお前を信じる。俺をもう一度だけ、技師にしてくれ)


 アルベリクは机の上で化粧箱を回し、指輪の姿が見えるようナタリーの方に差し向けた。


「その……こういうものなんだが……」


 おずおずと差し出された化粧箱を手元に引き寄せ、ナタリーは指輪の姿に視線を投じる。


 その瞬間、息を呑む声が、ナタリーの唇の間から漏れ出た。


 細い指が指輪をつまみ、瞳の前に運ぶ。もう片方の手が流れるようにルーペを取り出し、委細を詳らかにしようとする。


 沈黙の中、二人の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。実際、指輪を見るナタリーの息は明らかに乱れており、一方のアルベリクもまた、落ち着きなく息を荒らげていたのだった。


 ついにアルベリクは沈黙に耐えかね、口を挟んだ。


「君がこの間語ってくれた話を、自分なりに色々考えてみたのだ。君が一人の時、どうしたら孤独を感じずにいられるか。永遠に満ちぬことへの絶望から、どうやったら君を引き離すことができるか。そう考えたとき、結局つまるところ──」


 間隙を埋めるように語り続けるアルベリクを、ナタリーの手が制した。


「──アル。少しだけ、静寂を下さい」

「……あ、ああ」


 ナタリーは己の指に指輪を嵌めようとして、苦心していた。手が震えて、なかなか指輪の腕が通らなかったのだ。


 そこでアルベリクは彼女に近づき、横からその手を取って助けた。それでようやく、指輪は彼女の薬指に収まった。


 ランプの光に指輪をかざし、その姿を撫でるように見るナタリー。


「これを──私にくれるのですか……?」


 視線を指輪に釘付けにしたまま、呆然として彼女は問うた。


「ああ、そうだ」

「……この世にたった一つ、貴方が、ただ私のために……私のためだけに作ったもの……」

「やはり、判るのだな。そのとおりだ。それは、俺が作った。君が独りでないことを証明するために」

「そんな……ああ……。こんな……こんなことが……本当に……」


 ひどく狼狽しつつ、ナタリーは何度も頭を横に振った。


 その手が、わなわなと震えながら、懐から何かを掴んで取り出す。ゆっくりと開かれた手の上には、彼女の宝である蓮の指輪が載っていた。


 ナタリーは、ずいぶんと長いこと、黙って二つの指輪を較べ見ていた。しばらくして、その目がおもむろにアルベリクを仰ぎ見る。彼女の頬は紅潮し、二つの瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいた。


 ふいに、彼女の鼻から、一筋の血が流れ落ちた。ナタリーは慌てて、手で口元を覆う。


「ごっ、ごめんなさい、興奮しすぎて鼻水が……」

「いや、鼻血だ」


 アルベリクは咄嗟に懐からハンカチを取り出し、ナタリーの鼻先を抑え込んだ。次いで首の根元をもう片方の手で掴み、圧する。


 唐突な静寂が訪れる。すると、アルベリクの腹の中に、どうしようもない可笑(おか)しみがこみ上げてきた。横隔膜が痙攣した瞬間、ナタリーの頭が訝しげに動く。やがて含み笑いが漏れる頃になると、たまらずに彼女は自らの頭を抑える手を払って、アルベリクの顔を振り仰いだ。


「な、何がおかしいのですか?」

「こんなことで……それほど興奮することかね」


 アルベリクはたまらず、声を出して笑った。ナタリーは再び顔を赤くして、彼の不躾を咎めた。


「こんなことなんて、そんな! あなたには、これが私にとってどれほど大変なことか、わかっていないのです!」

「ほら、興奮するな。鼻血が止まらんぞ」


 再び彼女の鼻の穴から赤い雫が垂れてきたので、アルベリクは今一度ハンカチを鼻の下にあてがった。今度は決して笑わず、ただ静かに彼女が落ち着くのを待つ。荒かったナタリーの呼吸が整い、頬や耳の紅潮が引いてくる。


 頃合いを見て、アルベリクは静かに呟いた。


「……悪かった。君の宝飾への愛は本物だ」


 ナタリーは目だけ動かして、咎めるようにアルベリクを見上げた。


「あなたの作品への、ですよ……。ああ、大変、手が震える。落としてはいけない……」

「大丈夫だ。指輪はちゃんと指に嵌っている」


 血が止まったのを見定めた後、アルベリクはナタリーの隣に、膝を突き合わせて座った。彼女の手を取り、しっかりと握りしめる。それから身を乗り出し、眼前の娘の、涙で溶けて落ちそうな瞳を覗き込んだ。


「いいか、ナタリー。俺はここに俺の半生を穿ちこんだ。──俺は、ずっと君のそばにいる。苦しい時、孤独に負けそうになった時、この指輪を見て、俺の顔を思い出して欲しい」


 ナタリーはその言葉を噛みしめるように瞼を閉じた。その瞼の端から、涙がふた筋、走り落ちる。


 再び開いた瞼の中に、磨き上げられた碧色の瞳が煌めく。

 その瞳は今一度手の中の指輪を捉え、一層の光を放った。

 掌を天に向かって掲げ、彼女は断然と言い切った──。


「やはり、貴方は私にとって、最高の宝飾技師です」

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