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【書籍発売中】マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師  作者: 宮之森大悟
第十四章 アルバールの芽吹
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第十四章(3) マルブールの工房2

 アルベリクの手は、作業台の上で微動だにしなかった。いざ創作に入ろうという段になると、一体何から手を付ければ良いものか、途方にくれてしまったのだ。


 若い頃は、憧れや野心だけを糧に無心で手を動かしていれば良かった。それだけで、新鮮な輝きを放つ宝飾品を次々と生み出すことができた。その頃は、宝石のこと以外、何も考えることはなかった。ただひたすら、美しいもののことだけを考えていればよかったのだ。この世で最も美しいものは、自分の手の中で産み出されると信じて──。


 だが今は、その頃の己とは違う。あらゆることを知り、あらゆる辛酸を嘗めた。良いことも、悪いことも、楽しいことも、苦しいことも、喜びも、悲しみも、純粋なことも、汚いことも。その結果、彼は濁り、曇った。


 アルベリクは自問する。若き日のまっすぐな気持ちを失った己には、もはや作品を作る力はないのだろうか、と。


 彼は自らの頬を張り、(かぶり)を振った。考えたところで、詮無い話なのである。たとえどんなに拙いものであっても、今、それを必要としている人間が居るからには、手を動かして作るしかないのだ。


 アルベリクはまず、手元の帳面に詳細な工程表を書き付けた。やるべきことの全てを細部まで洗い出すことで、『何をやれば良いのかわからない』という状況からは抜け出せる。こうした工程管理の手法は、ブランシャールに入ってから身につけたものだった。


 モチーフは既に決まっている。『自画像』である。しかし、ただの自画像ではない。ある一人の孤独な女性のそばに寄り添う、想いを込めた自画像だった。


 となれば、最初の工程は、既に決まっているモチーフの、実現方法を決めることだった。さほど時間があるわけでもない中、十年も工具に触れていない素人同然のアルベリクが、本職のようにロウ付けを駆使し、凝った(かざり)を目指すのは無謀すぎる。かといって、誰にでも作れるような品では没個性になり、テーマを実現できなくなる。


 アルベリクは悩んだ末に、月型甲丸(つきがたこうまる)の指輪に彫りを施すことに決めた。古めかしい素朴な作風になるだろうが、個性は出しやすいだろうと考えたのだ。


 次いでデザインの工程である。試しに紙の上に画を描いてみたところ、それがまた、驚くほど下手くそだった。線が思うように引けず、実現したいことの万分の一も紙の上に反映できないのである。デザインはなかなか決まらず、描いては消しを繰り返すことになった。


 工作から離れて久しい彼の指は、完全に鈍りきっていた。線を引くにもこの体たらくでは、細工の段ではどうなってしまうものか。先が思いやられた。


 一日をこの工程に空費した。途中、何度も作業を投げ出そうかと思ったが、思いとどまって机にかじりついた。二日目になると、指の動きに変化が見られた。幾度も描いては棄てを繰り返すうちに、次第にかつての勘が戻ってきたのだ。


 三日目にしてようやく、満足できるデザインに辿り着いた。そこで彼はついに、制作の工程に入ることとなった。


 地金の材料は、比較的加工の容易な銀に決めた。


 坩堝で溶かしてから、引き伸ばしては焼きなまし、一度指輪の形に整える。この工程も難儀なもので、指輪はなかなか美しい曲線を描こうとしない。ちょっと油断すると、金属の表面はざらつき、波打ち、けばだってしまう。しかし、構いはしなかった。ここから先は、試行回数がものをいう段階だった。


 指輪に彫りまで施し、全体を眺め、改善点をあげつらう。納得できなければ、鋳潰して最初からやり直す。ときには宝石を留めて全体のバランスを見て、良くなければ使う石を見直すことも厭わなかった。


 彼はその指輪に、己の全てを込めた。ただ純粋に宝飾に恋していた頃の己を。誰からも顧みられず、絶望した夜の己を。抜け殻のようになりながら、逃げるように皇都に上がっていった時の己を。内に空いた穴を埋めるように、宝石販売の仕事に精を出した日々の己を。生まれてはじめて成果を上げる喜びを味わった日の己を。出世するに従い、転落の恐怖を覚えて眠れなくなっていった夜の己を。


 それらの全てを詰め込んでなお、不思議なことに、指輪は決して濁りはしなかった。栄光は栄光として。暗黒は暗黒として。その陰影を誤魔化すことなく描いたならば、作品はむしろ鋭利な輝きを放ち始める。


 アルベリクは無心に彫り、留め、穿った。己の生を、魂を、刻み込むかのごとく。


 幾度も手が止まる。直視できない幾つもの過ちが瞼を焼き、冷や汗を催す悔恨が腹の底から湧き上がる。それら一つでも作品に混じれば、全ての輝きが失われるかもしれない。その恐怖が、アルベリクの指を震えさせる。


 だが、その恐怖に負けて、選り分けることなどしてはならない。形の良いところだけつまんで差し出すような真似は、してはならない。全てを込め、さらけ出す以外に、選択肢はないのだ。


 今、作ろうとしているのは、己の形代なのである。輝きが失われるとすれば、装い、ごまかし、偽った時だ。アルベリクは、そう信じた。そう信じて、(たがね)の頭を槌で打った。


 一週間の日が過ぎた頃、ついに指輪は完成した。


 当初の予定通り、月甲丸型の指輪だった。本体の頂上には、緋色の瞳を模したカボションカットの紅玉が載っている。そして、その腕には、一羽の烏の半生が、異時同図法でもって丹念に描かれていた。


 たいへんに素朴な指輪だった。使われている技術は高度ではなく、まかり間違っても傑作などと呼べる代物ではない。そもそも、己の全てを込めた手作りの指輪など、想いが深すぎて呪術めいてすらある。


 だが、ナタリーに贈る品としては、これが正しいようにアルベリクには思えた。


 アルベリクが椅子の上で伸びをして、大きなため息をつく。その姿を見て、エミールが興味深げに彼の机を覗き込んできた。


「できました?」

「おい、勝手に見るな」


 アルベリクは肩でエミールの視界を遮り、彼の眼から指輪を隠した。エミールはやや不満げに眉根を寄せ、口を尖らす。


「完成したのですよね?」

「まあ、な」

「なら、後学のために見せて欲しいです。僕は早く一人前になって、ブランシャールに貢献したいのですから」


 必死に取り縋るエミールだったが、アルベリクはその様子を一笑に付すばかりだった。


「そういう意味では、これは参考にならんよ。この作品は、あくまで個人的なもの──アマチュアリズムの延長上にあるものだ。君はプロになるためにここにいる。違うか」


「たしかにプロになるために僕はここにいます。でも、今はプロじゃない。学ぶためにここにいる見習いです。そういう立場からいえば、たとえアマチュアの作品であっても、学べるものは全て学びたいし、どんな小さなことでも吸収していきたいんです」


 真剣な眼でこうまで頼み込まれては、アルベリクも簡単に否と言うことができなかった。


「……仕方あるまい」


 アルベリクは渋々といった様子で、エミールに自らの手製の指輪を手渡した。

 掌に載せて視線を投じた瞬間、エミールの喉から呻き声が漏れる。

 それきり彼が黙り込んでしまったので、アルベリクは若干苛立ちを見せて呻いた。


「……おい、どうした。なんとか言え」


 エミールはしばしの間指輪を見ながら黙考した後、おもむろにこう問うてきた。


「これは、奥さんへの贈り物ですか」

「いや……」

「愛人?」

「余計な詮索はよせ。指輪の感想だけ聞かせろ」

「いや、だってこれは……」


 エミールには、その先を続けることができなかった。


 例えばどこかの幼子が、愛する父や母の姿を紙の上に描いたとして、その巧拙を云々することに何の意味があるだろう。


 だから見せたくなかったのだ、と、アルベリクの眼が言外に語っていた。その視線から目を逸らしつつ、エミールは慎重に言葉を選ぶ。


「売り物には、ならないですね。元々そんなつもりもなさそうですが」

「ああ、そうだな」

「でも、美しいです。──息を呑むほどに」


 一瞬、アルベリクはその言葉を冗談かと疑ったが、指輪を見るエミールの目は誠実そのものだった。


「正直、僕もこんな作品を作って、誰かに贈ってみたいものです。心を込めて作った、世界に唯一つの宝物を──」


 そう呟くエミールの声には、強い活力が宿りつつあった。


 素人の拙い作品ではあるが、彼の心を刺激する何かしらがあったのかもしれない。それならば、ともするとこの邂逅は、この技師志望の若者にとって、良いことだったのかもしれない。


 エミールは目を上げ、真っ直ぐにアルベリクを見た。その眼には、今や強い決意の光が漲っていた。


「デザイン画、もう要らないですよね。貰っても良いですか?」

「駄目に決まっているだろう」


 そう答えつつ、アルベリクの手は疾風のごとき勢いで、エミールの掌から指輪を奪い取っていた。

【改稿内容:2025-1-27】


・描写に前後関係の矛盾があったため、修正しました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] プロローグで出てきたブランドの『ジロ』を産んだのがこの若い技師なら アルベリクは良い影響を与えられたのですね。
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