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【書籍発売中】マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師  作者: 宮之森大悟
第十四章 アルバールの芽吹
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第十四章(2) マルブールの工房1

 エミール・ジロは、今まさに、己が人生の岐路に立っていることを実感していた。


 虚ろな目が、工房の窓から外を見やる。宵闇に染まる空の下、アルバールの灰色の山嶺が、圧しかかるように眼前に迫ってくる。山と雪と畦道以外、窓の外には何もない。


 恐ろしいところだ、と、エミールは感じていた。皇都とは別の意味で、恐ろしい。


 彼にとって、そこは監獄だった。総じて、眼を引くものがなにもない。学び、作る以外に、できることが何一つないのである。


 食文化はあまり発展しておらず、学舎に併設されたレストランは、毎日飽きもせず同じメニューを提供し続ける。酒も同様で、人口の主要層である鉱夫たちは、味を二の次にしてとかく強い酒を浴びたがる。歌劇、服飾の文化は一部文化人の間にかろうじて存在するが、良くて皇都の一年落ちという有様で、時のエトランゼにでもなったかと錯覚する。


 ここに留まっていては、最新の流行から脱落してしまう。そんな焦りばかりが、日々エミールの心を(さいな)む。当然、本来の目的たる、宝飾技師としての修行に身が入るわけもない。


 エミールは、マルブールの養成所に通う、育成技師の一人だった。もともとは皇都のブランシャール本店付属の工房に通っていたが、合宿という名目で、半ば強制的に、このマルブールに移住させられたのだ。


 上司のディミトリからは、やれブランシャールで大成したければ、だの、技師として成長したければ、だのと熱いことを囀られ、うまいこと乗せられてしまった。一介の見習いが、忠誠心と野心を担保に取られては、引くに引けなかった。エミールは覚悟とともにこの地までやってきたつもりだったが、僻地の洗礼によって、彼の心は早々に打ち砕かれていた。


 この逆境を前にして奮起できる人間ならば、きっと大成できることだろう。だが、エミールはそれができない人間だった。


 付け加えると、純粋に、マルブールの風土も水も、彼の肌には合っていなかった。


 魂の抜け殻のようになりながら、エミールはその手の中で造形用のワックスを研磨していた。リング状に切り取ったワックスを、ケガキした通りに削り込む。


 彼は、自らにノルマを課していた。一日につき最低ひとつ、指輪を完成させること。それは、己の夢の実現に対する宣誓であり、最低限こなすべき日々の約定だった。


 彼には夢があった。皇国一の宝飾技師になるという、大それた夢が。その夢を抱いた日から、彼はそのノルマを心の石版に穿ち、それだけは毎日欠かすことなく続けていた。病の熱に冒された日は、腕の歪んだ指輪を作りもした。馬車で移動する際は、木彫りの指輪を作りもした。


 これを続けた結果、彼はどんな状況でも、それをやらねば気持ちが悪くて仕方がないと思えるようにまでなった。どんなに不安でも、状況が(かんば)しくなくとも、未来に光が見えずとも、手を動かしている限りは、決して後退はしていないと信じることができた。


 彼は己の決め事に対して誠実だった。そしてその意識は、このマルブールの工房に移っても変わらなかった。集中力に欠き、手は止まりがちで、能率は悪かったが、それでも指輪は着々と形を成してゆく。


 工房の中に、他の見習いの姿はなかった。居残って技倆(ぎりょう)を磨こうなどという気骨のある人間は、一人もいないというわけだ。日没後の薄暗がりの中、エミールの座る机だけ、ランプの灯りに照らされて、ぼんやりと浮かび上がっている。目の細かいヤスリとワックスのこすれる白い音が、作業場の中に断続的に響く。


 ふいに、部屋の暗がりの中から男の声が飛んできた。


「隣、空いているか」


 手元の作業に注意が必要だったので顔は上げなかったが、声を聞く限り、さほど若くはなさそうだった。見習いにしては、(とう)が立っている。だが、才能があれば年嵩でも育成対象になるという噂も、エミールは耳にしていた。


 エミールは手を動かしながら、声の主に向かって答えた。


「ああ、空いてるけど……。他も空いてるんだから、どこでも好きな場所に座れば良いじゃない。わざわざ隣に座らなくても」

「ランプの灯油がもったいなかろう」


 ケチくさいことを、と思い、エミールは顔を上げた。


 隣の席の椅子を引き、今しも座ろうとしている男の姿を見て、エミールは目を引き剥いた。


「ぼ、ボス……!」


 黒衣の魔商、マルブールの赤目烏と呼ばれ、業界内で恐れられる男がそこにいた。


 エミールは今まで、この男のことを遠巻きにしか見たことがなかった。大幹部たちの中央に立ち、常に声を張り上げ檄を飛ばしている恐ろしげな男。眼光鋭く、いつも遠くを睨みつけている冷酷そうな男。皇国貴族たちの覚え目出度(めでた)く、最近では聖域にまで出入りしつつあるという立志伝中の人。それが、今エミールの隣の席に座ろうとしている。


 しかも、あろうことか、今の彼はしっかりと作業衣を着込み、腕をまくって作業の準備に取り掛かろうとしている。その姿は、一介の職人の姿にしか見えなかった。


 アルベリクは、苦笑しながらエミールの顔を見た。


「流石に店主の顔は覚えているか。確か、君はエミールだったかな」

「そう……、そうです! エミール・ジロといいます!」


 アルベリクは小さく会釈すると、名前以外興味がないとでも言いたげに机に向き直った。


 一方のエミールとしては、これを千載一遇の好機と捉えていた。今まで、ブランシャールの幹部連で直接話をできたのは、良くてディミトリどまりである。彼も大幹部であることに違いはないが、店主のアルベリクとは比べるまでもない。何しろ、『マルブールの赤目烏』に目をかけられた技師は、軒並み出世し、売れっ子になっているのだから。ガストン然り、リアーヌ然り……。


 どうにかここで彼と親睦を深め、目をかけてもらえるようになれば、栄達の道も開けるかもしれない。そう思うと、沈んでいたエミールの心がにわかに奮い立った。


 とはいえ、いきなり自己アピールなど始めても煩わしいだけだろう。見たところ、アルベリクは用があってこの工房にやってきたようだ。まずはそのあたりをきっかけに、話しかけやすい雰囲気を作ってゆくべきだ。エミールはそう算段した。


「その……どうして、ここに……?」


 エミールがおずおずと問う。すると、アルベリクはエミールに一瞥をくれて、ぶっきらぼうにこう答えるのだった。


「作らねばならないものが出来た。皇都に戻っている時間も惜しくてな」

「ボス、製作もされるんですか!?」


 アルベリクはエミールの問いに答えなかった。彼は黙ってデザイン用紙を机の上に広げ、鉛筆を手に取る。


 半島にその名を轟かすブランシャールの王たる男が、一体いかなる作品を作ろうというのか。いやが上にも興味を惹かれた。


 エミールが固唾を飲んで見守っていると、アルベリクは不興げに顔をしかめ、彼にしては控えめな口ぶりでたしなめる。


「おい、ジロジロ見るな。気が散る。君は自分の作業に戻りたまえ」


 目上の人間の言葉を無視できるほどの胆力は、エミールにはなかった。彼はしぶしぶ己の作業に戻ったが、五分も手を動かさないうちに、またアルベリクの方へ眼をやってしまう。


 一方のアルベリクはもう、エミールのことなど構いはしなかった。彼はデザイン用紙に眼を落としたまま、じっとして動かない。


 一向に手を動かそうとしないアルベリクを見ているうちに、エミールは半ば飽いてしまった。そして、自らのノルマがいまだ半分も進捗していないことを思い出すと、泡を食って自分の手元を見返すのだった。


 工房に再び、ヤスリがけの音が響き始める。だが、今やそれを聴くのは、エミール一人ではなくなっていた。

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