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【書籍発売中】マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師  作者: 宮之森大悟
第十四章 アルバールの芽吹
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第十四章(1) 山小屋の前の丘

 彩火の祭から早くも二週間の時が過ぎたが、未だナタリーの手は止まったままだった。このままゆけば、当初設定していた納期には間に合いそうもない。


 仕事を完遂出来ないなどということは本来あってはならないことだ。そんなことが一度でもあれば、その失態は永遠に顧客間で語り継がれることになるだろう。つまり、ここを乗り切ることが出来なければ、皇室御用達への道は完全に閉ざされる。少なくとも、アルベリクが店主である限りは──。


 今から担当技師を替えるという案も幹部連から上がったが、アルベリクが却下した。ナタリーに代わる技師など、おいそれと見つけられるわけがない。そもそも今回の案件は、クラヴィエール公が直接、リアーヌ──即ちナタリーを指名してきたのだ。彼女以外の人間に任せることはできない。


 事情を話せば判ってくれるという意見もあったが、無視した。怪我をしてしばらく作れませんとでも言えば良いというのか。替え玉であるサラの方は、ピンピンしているというのに。


 なんとしても、ナタリーに復活してもらわねばならない。だが、ひとたび受けた心の傷は、そう易々と癒やされるものではない。あるいは、一生かけて戦わねばならないものかもしれない。


 苦悶遣る方ないまま、アルベリクの足は山小屋の建つ丘の麓に至っていた。皇都で納期の交渉を切り上げ、再びマルブールに舞い戻ってきたのだ。


 顔を上げて小屋の方を見ると、建屋から少し離れたところに、人の姿が小さく見えた。快晴の陽に照らされ、銀色の髪が輝いている。ナタリーだ。


 彼女は丘の上にしゃがみ込み、熱心に足元の何かを眺めていた。おそらく、土の下から芽吹いた春草でも眺めているのだろう。先日降った雨によって雪融けが進み、丘の上にはぽつぽつと山肌が見え始めていた。


 ナタリーは、どうやらスケッチをしているらしかった。彼女は画板を膝の上に載せ、その上に敷いたわら半紙に鉛筆を滑らせている。彼女の足元に薄く残る白雪の合間から、若草色のフキノトウが顔を覗かせているのが見えた。


 素描に勤しむナタリーの表情は、真剣そのものだった。彼女の手は、自然の息吹を前にして何の迷いもなく、紙の上になめらかで柔らかい線を描いてゆく。


 集中力も戻っているらしく、アルベリクが背後まで近づいても、彼女は気づくことなく作業に没頭していた。


 最後の一線を描き終えると、ナタリーは一度大きく伸びをして、再び紙に眼を投じる。


 ナタリーの背後から彼女の素描を見たアルベリクは、思わず息を呑んだ。普段何気なく眼にしている自然の風景が、彼女の眼に()され、手に()かれると、かくも瑞々しく映えてくるものなのか、と。


「良い絵だ」


 技師の背中に向かって、アルベリクは声を掛ける。すると、ナタリーははっとして顔を上げ、声のした方を振り返った。


 振り返ったナタリーに、アルベリクは慈しみを込めた微笑みを向ける。

 呼応するように、ナタリーの顔の上にも笑顔が花開いた。


「おかえりなさい。──びっくりしました」

「集中しているところを邪魔するのは悪いと思ったのでな」


 彼女の手元の画板をアルベリクは一瞥する。


「休んでいる間くらい、仕事の手を止めたらどうだ」


 ナタリーはゆっくりと(かぶり)を振った。


「心の中にあるものを外に出すことと、外にあるものを心の中に取り入れることは、全く違います。素描は、私にとって大切な時間です」


 言いながら、ナタリーはまっすぐに立ち上がる。と、ナタリーの膝がふいにがくりと折れ、彼女の身体は泥濘の上で仰向けにかしいだ。

 彼女の身が泥を被る寸前、咄嗟に伸ばされたアルベリクの腕が、彼女の身を受け止めた。その身体は、存外軽かった。


 アルベリクの腕の中で、ナタリーは顔を赤らめ、小さくなって恐縮する。


「す、すみません……! ずっとしゃがんでいたからかしら……足がしびれて……」

「気をつけろ。君は──」


 突然に、ある想いがアルベリクの心を奪った。


 アルベリクを見上げるナタリーの瞳は、皇都にはない燦然たる空気の中にあって、清澄(せいちょう)な輝きを放っていた。


 人の瞳を宝石に例える倣いは数多あれど、現実の石と比肩できるそれは指折り数えるほどしかない。しかし、数多くの宝石をその眼に映してきたアルベリクをしても、彼女の瞳ほど輝く逸品など、未だかつて目にしたことがなかった。


 アルベリクは、この宝石を手に入れたいと思った。そして、次の瞬間気づく。──既に、この宝石は己のものだということに。


 彼女は確かに言った。己の魂を、すべてアルベリクに捧げると。


 ──しかし、果たしてそれは本当だろうか。


 彼女とは口約束を交わしただけだ。しかも、状況が状況だけに、彼女がいっときの気の迷いで、あのような提案をしてきたという可能性も否めない。


 確かめたかった。彼女の誓いが真実かどうかを。


 アルベリクはゆっくりともう一方の手をもたげると、その指先で、ナタリーの頬にそっと触れた。その瞬間こそ、彼女はどきりと身体を震わせ、身を固くしたものの、その緊張はすぐに解けていった。彼女はゆるゆると瞼を閉じ、頬をアルベリクの手に委ねる。


 ふくよかな唇に指先で触れると、熱い吐息がかかる。恐れも、怯えもない。彼女は、アルベリクの想いを受け入れようとしていた。


 唇を重ねる。その瞬間、ふわりとした感覚がアルベリクの中を吹き抜けた。


 多幸感。これほどの幸福をもたらす口づけを、アルベリクはいまだかつて知らなかった。


 柔らかな唇の間から彼女の中に入ると、とろりとあたたかい舌がアルベリクを迎え入れる。脳髄から甘く痺れるような感覚が滲み出し、背骨から全身に広がる。何もかも初めてだった青春時代に似た歓びが、全身を駆け巡る。


 もっと早く会いたかったという痛恨と、運命の人に出会えた歓喜が、ないまぜになりながら、柔らかく豊かな幸福感の中に染みて消えてゆく。


 支配欲と所有欲とが渾然となって、アルベリクの目の奥に渦を巻く。あらゆる思考が地平の向こうへ飛び去り、幸福な衝動だけが、けたたましい音を耳の奥に鳴らし始める。


 ただ目の前にいる女の全てを、手に入れたい。思いの発露は口づけだけに留まることなく、彼の全身がその情愛を表現しようとしていた。


 何がナタリーの琴線に触れたのだろう。男の指が彼女の耳に触れたときか、はたまたうなじに唇が触れたときか。突然に彼女は「あっ」と短く叫び、アルベリクの身体を肩で押し退けた。そして、山小屋に向かって逃れるように駆け出した。


 ナタリーは風に吹かれたスカーフのように走って、山小屋の扉の中に飛び込んだ。閉まった扉の内側から、閂を掛ける乾いた音が響いた。


 アルベリクは即座に、己の失態を悔いた。これでは、あの卑怯者のネイライとまるで変わらないではないか。


 彼は慌てて山小屋に駆け寄ると、扉の奥に向かって、差し迫った声を投げかけた。


「すまなかった……! 気を悪くしたのなら──」


 だが、その言葉を遮って、ナタリーの悲痛な声が返る。


「違います! 貴方は何も悪くありません。これは、私の問題なのです……」


 その声は、扉のすぐ向こうから聞こえた。扉を伝って、か細い涙声が聞こえてくる。


「自分がこんなに欲深いなんて、思ってもいませんでした……。まさか、こんなに……」


 アルベリクは扉に手と額を付き、ナタリーに聞こえるように、かつ努めて穏やかに、ゆっくりと語りかけた。


「開けてくれないか。話をしよう」

「……無理です」

「無理かな。閂を開けてくれるだけで良いんだが」


「貴方との口づけは、あまりにも甘美に過ぎました。まるで、生まれる前からこうと決められていたような感覚……。割符のように、ぴったりと重なり合うような感覚……。貴方も、感じませんでしたか?」


 ──無論、感じていた。心のどこかでずっと探し求めていたものを、ようやく見つけたような、完成された感覚。思い出しただけで、全身が感動に震えるような、そんな感覚を。


 アルベリクは、彼女が自分と同じ時に、同じ喜びを感じていたことに、状況も忘れて感慨を覚えていた。

 しかし、一方のナタリーは、それを喜ばしく思ってはいないようだった。


「だから、これ以上は、もう無理なのです」


 なぜ、と問うより先に、ナタリーの言葉が続いた。


「これ以上を求めたら、貴方が死んでしまう……!」


 悲鳴のような声だった。

 夫を死に追いやった病のことを言っているのだと、アルベリクは即座に理解した。

 彼女が愛を求めれば、その対価として、愛する者の非業の死が待っている。

 あまりに不釣り合いな天秤だが、それこそが、彼女の背負う人生の荷だったのだ。


「……お休みを頂いている間、貴方のことばかり考えていました。寝ても覚めても、頭の中は貴方のことばかり。──独りで無為に過ごしていると、私はだめになってしまう……。……寂しくて……。

 でも、この孤独は決して消えはしないのです。この病がある限り──。深遠な闇が、私の内奥にあって、何もかも飲み込んでゆく……。愛した人の微笑みも、宝石の燦然とした輝きも……」


 鼻を啜る音が、扉を越えてアルベリクの耳に聞こえてくる。


 アルベリクは、すぐにでも扉の向こうに行って、彼女をもう一度抱きしめたかった。できないことではない。裏から小屋の中に入る方法を、アルベリクはいくつか知っていた。


 だが、その企図を、ナタリーは先んじてやんわりと拒絶した。


「莫迦なことを言ってごめんなさい。どうか、今日は、麓で過ごしてください……。もし今、この扉が開いたら、きっと自分を抑えられなくなる……」


 最後通牒のようだった。この一線を超えれば、アルベリクの命はない。そして彼の死は、おそらく再びナタリーに、癒えぬ傷を刻みつけることになるだろう。


 しかし、彼女の抱える宿命としての孤独を看過することも、決してできはしない。


 打開策を考える必要がある。だが、この場でできることの選択肢は、もうあまりなさそうだった。


 アルベリクは再び扉の先に向かって、静かに語りかけた。


「君の気持ちは理解した。だが、君は誤解している。君は独りじゃない。──君は俺に魂を預けると言っただろう。ならば、俺も君に魂を預ける。今日、この日から、俺の魂は君のものだ。お互いに持ち合おう。それぞれの荷と、それぞれの宝を」


 返事はなかった。


 信用を得られていないかもしれない。アルベリクはそう思った。少なくとも、己は彼女と触れ合うまで、彼女の言葉を信じることができなかったのだから。


 しばしの思案の後、アルベリクは決然と言い放った。


「待っていてくれ。必ず、証だてしてみせる。必ずだ」


 その日はそれだけ言い残してアルベリクは山を降りた。


 ヒステリックな動揺は、一晩眠れば大概落ち着くものである。翌朝に山小屋を訪れてみると、ナタリーは普段どおりの落ち着きを取り戻しており、はにかみながらもアルベリクを山小屋の中に迎え入れてくれたのだった。


 彼女はアルベリクが訪ねてくるや、前日の無礼を侘びた。アルベリクは気にしていないと返す。それで、この一件は仕舞い。少なくとも、ナタリーはそう考えているようだった。


 だが、アルベリクの中では、この件は終わっていなかった。

 むしろここからが、長い証明の始まりだったのだ。

【改稿内容:2023-12-18】


・「祭の日に降った雨によって雪融けが進み」という描写がありましたが、誤りのため修正しました

・「ないまぜ」という表現が重複している箇所が気になったので、修正しました

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