第十三章(7) 山小屋2
皇都に戻ったアルベリクを待ち受けていたのは、ネイライ頓死の一報だった。
帰郷先から皇都へ帰る途中、馬車の中で多量の血を吐いて、そのまま絶命したらしい。
皇都の宝飾界隈は、今やその話で持ちきりだった。筆頭技師を喪ったボーマルシェは大混乱に陥り、彼らの請けていた契約の大半が反故となったという。
この訃報を聞いた瞬間、アルベリクの記憶に蘇ったのは、以前ナタリーから聞かされた話だった。
彼女はかつて、幾人かの男と交わったが、彼らは皆、ことごとく命を喪っていったという。早晩のうちに血を吐き、帰らぬ人となったと。
山小屋でナタリーとネイライが出くわした日、ナタリーは顔面に大きな痣を作っていた。アルベリクはその時、彼女が受けた暴力は、その顔面のものだけだと思いこんでいた。
──だが、本当にネイライは、それだけで済ませたのだろうか?
記憶の糸を紡ぎ合わせる中で、アルベリクは唐突に全てを理解した。ナタリーが流した涙の本当の理由も、彼女がなぜアルベリクを皇都に帰そうとしなかったのかも。
ナタリーが何を思って、己の魂をアルベリクに託したのか。アルベリクには、その気持ちが今、おぼろげながら理解できた。ずたずたにされた尊厳や誇りを、人として最低限必要なだけ維持するためには、そうするほかなかったのだ。
ネイライの遺体は、皇都の墓所に葬られたという。天涯孤独だった彼の喪主は、ボーマルシェのリュファスが務めた。
アルベリクは、葬られたばかりのネイライを、己の手で今一度殺してやりたい衝動に駆られた。叶うことなら、まだ柔らかい墓土の下からやつの死体を引きずり出し、その動かぬ心臓に刃を突き立て、八つ裂きにしてやりたいと、そう願った。
そのための道具と人足まで雇い、鋭利な刃まで買い込んだ。だが、彼の意思は、ついに果たされず終わった。
彼の行動を押し留めたのもまた、ナタリーが彼に告げた言葉だった。
──私は貴方を信じたいし、貴方から、信じてもらいたい……。
月の青く輝く夜。使われぬまま役目を終えた一振りの刃が、執務室の机に突き立てられていた。緩やかな曲線を描く刃の端が月光を受け、コバルト色の光を放っている。傍らには茨の指輪が無造作に転がり、こちらも月光をその身に受けて、つややかに輝いていた。
人を傷つけることしかできないふたつの無機物は、あくまで己の造形美をアルベリクの眼前に誇示していた。
ふいに、アルベリクの頬に涙が伝った。
顎から伝い落ちた雫を手に受け、掌を見やる。赤黒い王冠が、ひとつ、ふたつと掌に跡をつけてゆく。
血涙だった。
「赤目烏は、涙も赤いか……」
無表情のまま、アルベリクは誰に言うともなく、そう独りごちていた。
◇
先日の暴行事件からこちら、ナタリーの進捗は芳しくなかった。彼女の手が、動かなくなったのだ。
皇都から戻ったアルベリクは最初、机に向かうナタリーの姿を見て安堵したものだった。だが、彼女の肩越しに机の上を見た瞬間、アルベリクの平安は軽々と打ち砕かれた。ロウ付けも石留めも仕損じた残骸の山が、目に飛び込んできたのだ。
多くの失敗を積み上げても、彼女は捨て鉢になることなく懸命に手を動かしていた。だが、細工が必要な段では指先が震え、まともに加工ができていなかった。
集中力も散漫だった。アルベリクが背後に立つと、彼女はびくりと震えて振り向くのだ。
「おかえりなさい、アル。早かったですね」
平静を装って、ナタリーは微笑む。その笑顔の裏で、彼女は己の痙攣する指先を、そっと作業着のポケットに隠していた。アルベリクの赤い眼が、その仕草を見逃すはずもなかった。
「早々に仕事を切り上げてきた。──少し休もうか」
小山になった金属の残骸をちらりと一瞥してから、アルベリクは努めて穏やかな調子で尋ねた。
「でも、納期が……」
「それについては、なんとかする。今は休んだ方が良い」
──ひとまず上に行こう。アルベリクはそう言って、腰の重いナタリーを半ば強制的に机から引き剥がし、居間に連れてゆく。二人分の白湯をコップに注ぎ、机の上に置いてやると、ようやくナタリーは休もうという気になったようだ。
彼女は震える指でコップをとり、その端を唇に近づける。熱い湯が喉を通ると、頑なだった表情がわずかにほぐれ、安寧が全身に広がっていった。
人心地ついてから、ナタリーはおもむろに口を開いた。
「その……皇都では……」
「うん?」
言い淀むナタリーに、アルベリクは眼で続きを促す。彼女は机の上で自らの指を固く握りながら、絞り出すような声でアルベリクに尋ねた。
「皇都では、変わったことなどありませんでしたか?」
あるかないかと問われれば、当然、あった。邪悪かつ卑劣な同郷人・ネイライの死という大事件が。
彼の命の存否を、明らかにナタリーは懸念していた。
己の責で人の命が失われることを、彼女は恐れている。それが、たとえ己に暴力を振るった相手であっても。
あるいはそのことを気に病んで、作業の手が覚束なかったのかもしれない。
アルベリクはしばし思案した後、慎重に言葉を選んで、彼女の問いに答えた。
「……君を襲った暴漢は、やはりネイライで間違いなかった。だが、安心しろ。やつには法律家を伴ってきっちり抗議しておいたから、もう二度と来ることはない」
「そ、そう、ですか。あの方と、お話をされたのですね」
「ああ。よっぽどやつの顔面にこの拳を埋め込んでやりたかったがな。君に免じて、それは差し控えることにした」
「そうでしたか……良かった……。それなら、良いのです。それなら…………」
その瞬間ナタリーが見せた、泣き笑いにも似た安堵の表情を、アルベリクは生涯忘れなかった。
そしてまたこの瞬間、アルベリクは人生を賭して彼女を守り抜こうと決意した。
この世界にはびこる全ての悪意、黒い欲望、そして、彼女の幸福を阻害する全てから、彼女を守り切ろうと、心に誓ったのである。






