表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/99

第十三章(6) 山小屋1

 己の放つうめき声に、アルベリクは呼び起こされた。夢を見る暇もなく目覚めたが、身体は寝汗でぐっしょりと濡れていた。

 ソファーの上で身を起こし、ベッドに視線を投げる。


 ナタリーの姿が、なくなっていた。


 その時は、浴場にでも行ったのだろうと、悠長に考えていた。だが、その考えは誤っていた。


 ふと窓際に目をやった時、アルベリクは小机の上に、置き手紙を発見した。それを読んだ瞬間、彼の背中に戦慄が走った。


 手紙には、一言、「先に山小屋に戻っています」と書かれていた。


 アルベリクは悪態を吐きつつ、コートだけ引っ掛けて外に飛び出した。


 雪は止んでいた。空は未だ藍が色濃い中、東にうす白い色が差し込み始めている。

 新雪の上に、一人分の足跡が残されていた。足跡は、ホテルの玄関から、山に向かってまっすぐ伸びている。


 アルベリクは弾けるように駆け出した。早朝の青い空気の中、白い息を吐き散らしながら。

 しかし、高地の薄い空気の中で、彼の息はすぐに上がってしまった。


 焦っては、山小屋にたどり着くこともできはしない。そう悟ったアルベリクは、(はや)る気持ちを抑え、蛞蝓(なめくじ)のようにゆっくりと山道を登っていった。


 山道を登る中、アルベリクは一つの事実に気づいた。山道には、登る小さな足跡の他に、もう一つ、下る足跡も残されていたのだ。足跡の大きさは、大人の男ほどもある。


 アルベリクは吐き気を催しつつ、その足跡をよっぽど追おうか迷った。だが、ナタリーの安否の方がより心配だと思い直し、引き続き山道を登り続けた。


 ようやく山小屋に辿り着いた時、太陽はアルバールの山嶺の上に完全な姿を(あらわ)していた。


 二つの足跡も、太陽に照らされ、雪の中にくっきりと影を残している。それらは、案の定、山小屋の入口から続いていた。


 玄関前に着いたアルベリクは、呼び鈴を鳴らしもせず、即座に戸を引き開いた。


「ナタリー!」


 居間の中に、ナタリーの姿はなかった。


 アルベリクは、寝室の戸に眼をやった。閉じた扉を前にして、アルベリクは立ち止まる。そして、彼は扉の向こうに向かって声を張り上げた。


「ナタリー、ここにいるのか?」

「入らないで! すぐ準備しますから……」


 声は、すぐに返ってきた。どこか、悲痛さの()もった声だった。


 ──嫌な予感がした。


 アルベリクは、逸る気持ちを抑え、いつも座る窓際の椅子に腰掛けた。その途端、アルベリクの膝が貧乏ゆすりを始める。彼の視線は落ち着かずに彷徨(さまよ)い、窓の外を眺めたかと思えば、再び寝室の戸に眼を投じる。


 じっと座っている事ができず、アルベリクは再び立ち上がり、寝室の前で待ち構えた。


 やがて、「お待たせしました……」という声とともに、寝室の扉が開いた。


 部屋の扉が開いた瞬間、むっと生臭い空気が扉の隙間から漏れ出し、アルベリクの鼻腔をついた。皇都の顧客の寝室で、よく感じた臭いだった。


 ナタリーの顔面は、片側が見るも無残に腫れ上がっていた。おそらく、殴られでもしたのだろう。束ねられていた髪は解け、おくれ毛が幾筋も彼女の顔に張り付いている。瞼は赤く腫れ上がり、充血していた。その眼から、今しも大粒の涙が溢れ、零れ落ちた。


 怒りに震える声で、アルベリクは静かに問うた。


「奴に、やられたんだな……?」

「いいえ、違います……!」


 必死の表情で、ナタリーはかぶりを振った。


「違う? 何が違う? その顔はなんだ?」

「……その……強盗が……帰ったらここにいて……」

「強盗だと……?」


 ナタリーの眼は、アルベリクを一切見ようとしなかった。


 ──彼女は、嘘をついている。


 敢えて問いただす必要すらない。彼女は、嘘が下手だった。


 鬼の形相で佇むアルベリクを見て、ナタリーはますます悲しげに顔を歪めた。


 彼女は無理矢理に笑顔を作り、おずおずとアルベリクの前に手を差し出した。人類の至宝たる、十本の細指だった。


「ごめんなさい……。でも、指はこの通り無事です……。きっとまだ、貴方のお役に立てるはずです……。だから……」


 言う間にも、ナタリーの瞼から、涙が引きも切らず溢れ落ちる。


 直視に耐えぬ光景だった。アルベリクは割れるほど歯を食いしばり、白むほど拳を握りしめていた。


 彼は衝動的に踵を返すと、入り口に向かって大股で歩き出した。その背中に、ナタリーは慌てて声を掛ける。


「ま、待ってください! どこに行かれるのですか」

「今すぐ、皇都に戻る」押し殺した声で、アルベリクは答える。

「戻って、どうされるつもりですか……?」

「決まっているだろう。この手で奴を(くび)り殺してやる!」


 抑えきれぬ感情が喉の奥から迸り、アルベリクの声を獣の咆哮のごとく荒ぶらせた。ナタリーを振り返った彼の眼は、殺意を宿して爛々と輝く。


 ナタリーはアルベリクの背中にしがみつき、彼を押し留めた。


「待ってください……! そんな恐ろしいことを、口になさらないで……」

「だが、奴に君の存在を吹聴されるのもまずい。今のうちに消しておかねば……」


 扉に向き直り、アルベリクは独語するように低く呟いた。


 コートを掴むナタリーの指に、力が加わる。彼女は涙を流しながらも眦を決し、アルベリクを厳しく叱責した。


「気を確かに持ってください……! 本気でそんなことを思っていらっしゃるのなら、私は貴方を軽蔑します!」

「……無論、本気だ。軽蔑するなら、するが良い。害成す者の首を()ね、邪魔なやつは排除する。俺はそうやって、皇都でのし上がってきた」

「……ルカという方に対して、そうしたようにですか」


 場違いな名を耳にし、アルベリクの眉が、ぴくりと動く。

 彼は再びゆっくりとナタリーに首を向け、静かに問うた。


「奴に聞いたのか」


 ナタリーは口を(つぐ)んで答えなかった。彼女の言葉は、ネイライの来訪を明白に証明していた。


 もはや、彼女との問答は無用だった。アルベリクは身を大きく捩ってナタリーの手を振り払い、再び歩を前に進め始めた。


 ナタリーは、負けじと今度は両腕で後ろからアルベリクの腰を抱え、全体重をかけて彼を引き留めた。


「待ってください! 行かないで! 今日だけは、どうか、そばにいてください……!」


 必死の声に、アルベリクは思わず足を止めた。


「私を、守ってください……お願いします」


 アルベリクが出ていった後、再びネイライが舞い戻ってくることをナタリーは恐れたのだろう。それもありえないことではなさそうだった。


 懇願されて無下に断ることもできず、アルベリクは低く唸った。


 今や殺意の権化たるアルベリクだったが、背中から伝わる体温と息遣いが、彼の内に吹き荒ぶ嵐を、次第に遠のかせていった。


 ナタリーはアルベリクの背中に顔をうずめ、しばしの間、じっと押し黙り、彼の心臓の鼓動を聞いていた。やがて彼女は頃合いを見て、諭すような声で静かに語り始めた。


「……アル、よく聞いてください。私には本来、人の人生にとやかくいう資格はありません。私自身、決して良い人間ではないのですから。私は、人のものに手を出す泥棒です。欲望にまみれ、穢れきった、惨めな生き物です。──でも、それでも──」


 ナタリーの両の手がアルベリクの身体の上を滑り、彼の胸元で止まった。その手は、まるで心臓をつかもうとするかのように、彼のみぞおちを押し包んだ。押し付けられた彼女の額から、アルベリクの身体の中に声が響いてくる。


「私は貴方を信じたいし、貴方から、信じてもらいたい……。貴方とは、そういう関係になりたいのです」


 アルベリクは己の胸を掴む手を、自らの掌の中に収めた。その手は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。


「俺は君を信じる。当然だろう」


 静かに答える男の眼には、既に憎悪の光はなかった。ただ、この哀れな女を、どうかして慰撫したいという想いが、その瞼の奥に滲み始めていた。


 アルベリクの背中に額を押し付けたまま、しかしナタリーは首を横に振った。


「いいえ、私の言葉の意味を、きっと貴方は理解していません。貴方に婚約者がいらっしゃることはわかっていても、もう、だめです。私のこの気持ちには、もう、嘘がつけません」


 細い指が、アルベリクの指の間に絡まる。その指に力が込められ、二人の手は分かちがたく絡み合った。


 華奢な腕が、よりいっそう強く、アルベリクの身体を抱きしめる。決して離すまいとするように。


 水面に滲むインクのように、アルベリクの中を緊張がじわじわと広がってゆく。


 ナタリーが何を言わんとしているか、それは、アルベリクにも容易に察せられた。だが、なぜ今、急にそんな話をしようと思い立ったのかについては、まったく理解が及んでいなかった。


 彼女の気持ちに、どう応えるべきか。己の気持ちはどうなのか。混乱する思考を整理する暇もなく、続く言葉は解き放たれた。


「私の心は、すべて貴方に捧げます。今日から、私の魂は貴方のものです」


 このような状況でなければ、胸の高鳴りを抑えることはできなかったかもしれない。アルベリクとて、己の中に燻る想いを知らぬ訳ではなかった。


 だが、今、この場で発せられるには、ナタリーの言葉はいささか唐突すぎた。アルベリクは当惑し、肩越しにナタリーの顔を覗き込もうとする。だが、彼女はアルベリクの背中に額をうずめたまま、顔をあげようとしない。


「なぜ……」


 思わず発せられた問いを、ナタリーの声が遮った。


「おっしゃりたいことは、わかっています。でも、どうか、何も言わず、受け取ってください……。私の心は、この魂だけは、他の誰のものにもしたくないのです」


 思いつめた声だった。


 問いたいことはいくらでもあった。だが、もしもこの願いを受け入れなければ、彼女はそのまま消えてしまいそうな気がした。そんな予感めいたものが、アルベリクの胸中を去来していた。


 アルベリクは、ナタリーの手をそっと身体から解き、彼女と正面から向き合った。


 青褪め、輝きを喪った悲壮な顔が、振り返ったアルベリクを出迎えた。昨夜彼女が見せていた健やかな笑顔は、既に遠い夢の記憶のように感じられた。


 アルベリクとしては、もうこれ以上、寸刻たりとも彼女にそんな顔をしていてほしくはなかった。


 彼はナタリーの肩にそっと手を置き、努めて穏やかに、こう切り出した。


「俺には、許嫁がいる。だから、君の申し出を正式に受け取るわけにはいかない」


 ナタリーの眼に絶望が宿りかけた瞬間、アルベリクが即座に言葉を挟んだ。「だが──」


 彼はゆっくりとナタリーに顔を近づけ、他聞に憚るように、彼女の耳元で小さく囁いた。


「だが──いいかね、この小屋にいる間は──その間だけは、君の望む通りに──……」


 顔を引き離し、再びナタリーの顔を覗き込む。見る間に彼女の瞼から、大粒の涙が溢れ出した。だが、その表情には、僅かではあるが、安堵の光が差し込んでいた。


「ありがとうございます……。それで、十分です。ご迷惑は、おかけしませんから……」


 アルベリクの懐にナタリーはおずおずと入り込み、その胸の中に顔をうずめた。そうしてから、彼女は、低く長く、苦しげな嗚咽を漏らし始めた。


 アルベリクは、その悲痛な嗚咽を腕の中に受け止め、抱きしめた。彼女の魂を受け止める手立ては、それより他に見つからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本作書籍化いたしました!
こちらの青いカバーが目印です。
書籍化にあたり加筆修正を行い、Web版より読みやすくなっていると自負しております。
お買い上げいただけると大変嬉しいです。
よろしくお願いいたします!

▼▼▼ 画像をクリックすると、Amazonのページに移動します ▼▼▼
マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師1 マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師2
▲▲▲ 画像をクリックすると、Amazonのページに移動します ▲▲▲


特典情報もあります!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ