第十三章(5) ホテル
二人がホテルに到着したのは、夜もとっぷりと更けた頃だった。ジョアンに捕まって長いこと話し相手をさせられたせいである。
特等の部屋に入り、分厚い扉に鍵をかけた直後、祭の終わりを告げる鐘が鳴った。
重い響きが奏でられる中、ナタリーは、開口一番、こう言い放った。
「デザインは変えません」
仕掛中の案件の話だとアルベリクが理解するまで、僅かの時間が必要だった。
ナタリーはアルベリクに構わず、それどころか見向きすらせず、部屋の中を歩き回りながら、独語するように語り続けた。
「デザインは変えません。ですが、石の輝きは、貴方のおっしゃるとおりに、最大限引き出します。貴方の望みも、私の望みも、全て同じ地平の上にあるのなら、全て等しく叶えられるはずです」
「できるのか?」
短く、アルベリクが問う。するとナタリーは、確信を持って頷いた。
「やります。私なら、できるはずです」
ナタリーの眼は、戦いを前にした戦士のように、煌々と輝いていた。おそらくは、ここに来るまでの間、ずっと彼女はそのことばかりを考えていたのだろう。
彼女は、続けて語る。
「今すぐにでも、試作に取り掛かりたいのですが……。本当に、一晩ここで過ごさなければなりませんか?」
「ああ。街の人出が減れば、君を狙う男も容易に行動できなくなる。それまで待つんだ。既に祭は終わった。もう少しの辛抱だ」
「その方は、私の顔をご存知なのですか?」
「いや……」
「なら、私一人で山小屋に帰れば……」
「その男は、山小屋に潜んでいる可能性もある」
「そんな、まさか……」
アルベリクは、その男・ネイライの素性について、これ以上語るべきか迷っていた。彼女の理解を促すには、より踏み込んだ話をしたほうが良いだろう。だが、余計な情報を与えれば、彼女の予断を許すことになりかねない。
しばしの逡巡の後、アルベリクはついに口を開いた。
「そいつは、俺の兄弟子だ。共にガストンの下で学んでいた。君の作品の傾向から、君がガストンの弟子だということにも勘付いている。やつには、君の顔を知られたくない」
あまり説得に時間を掛けるのは無益だし、彼女からの信頼を得るには納得ずくの説明が必要だと、アルベリクは判断したのだ。
案の定、ナタリーは新しい事実を前に呆然と立ち尽くしていた。
その唇から、かすれた声が漏れる。
「私の、もうひとりの兄弟子……」
「ああ、そうだ」
「私の兄弟子にあたる方が、私に危害を加えようとしていると……?」
「そういうことだ」
しばしの思案の後、彼女は困惑しきりといった顔を浮かべ、アルベリクを見やった。
「やっぱり、私には貴方のおっしゃることが……よくわかりません……。同じ師の下で学んだ者同士なら、親しく語らい合うこともできるのでは……?」
常識的には当然の思考だった。それがわかっているからこそ、アルベリクはいかにも残念そうに頭を振った。
「やつの……ネイライの嫉妬深さを、君は知らない。──とにかく、今晩はここに留まってくれ。山小屋には部下を向かわせる。やつが来たとしても、潜伏できないようにしなければ」
アルベリクがふと窓の方に目をやると、結露した外窓の向こうに、淡い光が滲んでいるのが見えた。
そこで、彼はすかさず内窓を引き開き、腕で外窓の曇りを拭った。そして、水滴で歪む硝子越しに、外を覗き込む。
灯籠に照らされた夜の街の間隙を、大粒の雪が交差しながら降り落ちていた。
「──見ろ、降ってきたぞ」
「雪雲……積もりそうですね」
ナタリーはアルベリクに近づき、彼と同じ場所から外を覗き込む。
至近まで寄ったナタリーの身体から、仄かな体温と、ふわりとした女の香りが立ち上り、アルベリクの官能をひどく刺激した。
長い睫毛は、その奥に隠された瞳の輝きを期待させる。小さな頭は、腕の中に抱けばさぞ心地よいことだろう。そして、ふくよかな唇は──。
(この女は無防備すぎる)
アルベリクは、己の理性の手綱を取れるうちに、そっと身を引いて彼女から距離をおいた。
彼は努めて鷹揚に振る舞おうとしていた。部屋の半ばまでゆっくりと歩み至り、おもむろに振り返ると、諭すようにナタリーに語りかけた。
「これでは、いずれにせよ今からの登山は不可能だろう。帰るのは諦めることだ」
「そうですね、この様子では──仕方ありません……」
窓際に佇むナタリーは、寂しげに微笑んでいた。
「このホテルは浴場もある。湯にでも浸かって、ゆっくり休みたまえ」
言いおいて、アルベリクは入口の把手に手をかける。それを見て、ナタリーはどこか不安げな声で問うた。
「どこへ行くのですか?」
「仕事だ。部下を山小屋に向かわせると言ったろう。この分だと、出立は明日の朝になるだろうが、君が起きる前には向かわせる」
「お仕事が終わったら、戻ってきてくれますよね?」
懇願するように問われて答えに窮し、アルベリクは押し黙った。ナタリーは言葉を重ねる。
「こんなに広い部屋に、一人で泊まるのは寂しいです。それに、せっかく時間があるのですから──」
その目元に、ふっと微笑みが浮かんだ。
「もっと私と、お話をしましょう、アル。もっともっと、たくさん……」
切なげな声は、誘惑にも似た響きを伴い、アルベリクの感情を揺さぶった。
アルベリクは答えに窮し、口を噤んだ。彼は身を翻し、扉を開けると、足早に部屋を出てゆく。
「待っています」
静かな声に追いかけられて、アルベリクは今一度、扉の隙間からナタリーの姿を見た。
部屋に唯一人、ぽつねんと立つ姿は、やはりどうして美しかった。同時に、その姿を寂しさの中に捨て置くのは、どうにも憚られるものがあった。
結局、彼は仕事を済ませると早々にナタリーの待つホテルに戻り、彼女の望み通りに、多くの昔語りを交わすことになった。
二人はベッドの上に横たわり、互いに一つずつ、自らの思うことを語り合った。
二人の話題は、自然と宝石や宝飾のことに移っていった。それらを話している間は、時間もしがらみも忘れられた。いつまでも、どこまでも話し続けられるような気すらした。まるで旧友と秘密基地の中で語り合うように、二人は夢中で話し続けた。
それは、存外に幸福な夜のひとときだった。
二人の会話は、どちらともなく眠りに落ちるまで続いた。






