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第十三章(4) 鐘撞き塔2

「まったく、ジョアンのやつときたら、余計なことをべらべらと……」


 苦々しげに呟きながら、アルベリクは天を仰ぎ見た。


 壁に掛かるランプの光は、塔内すべてを照らすには弱すぎる。石積みの壁は上にゆくに従い闇の色がいや増し、天蓋は完全に漆黒の向こうに隠されていた。


 アルベリクに倣って天を仰いだ途端、ナタリーは(ひる)んで震え上がった。


「ここを上るのですか?」

「ああ、ゆっくりでいい。足元に気をつけろ」

「そうですね、足元を見れば、登れそうです。上を見ると、落ちそうで、怖い……」


 上に落ちるとは、異なことを言うとアルベリクは思った。だが、言われて再び見上げてみると、彼女の言葉の意味がおぼろながらわかるのだった。光の届かぬ天蓋は、頭上に開いた巨大な虚無の穴だった。


 ナタリーを安心させるため、アルベリクは彼女の後ろについて、念の為彼女の手を取った。細く乾いた、職人の手の感触が、アルベリクの指に伝わる。


 最初の数段登るうちは、彼女の手は震え、足元はおぼつかなかった。だが、一段ずつ登ってゆくうちに、次第に慣れたか、足取りが確かなものになってゆく。


 階段を一巡りしただけで、もう大人二人分ほど地上から離れてしまった。吹き抜けから下を見下ろすと、ランプの光に照らされたジョアンの姿が、やけに小さく見えた。頂上に至るには、これをあと四順ほど繰り返さねばならない。


 アルベリクは、下を見ようとするナタリーを押し留め、ただ足元だけを見ているよう言いつけた。手すりも何もないので、うっかりすると落ちてしまいかねなかった。


 ナタリーの気を紛らわすため、彼はさり気なく話をし始めた。


「ジョアンから俺の話を聞いただろう。今度は、君の子供の頃の話を聞かせてくれないか」

「構いませんよ」


 アルベリクの頭上から、静かな返事が聞こえてくる。彼女の表情は、後ろからでは見えなかった。


「──私の父は、宝石のカットを生業にしていました。多くの職人を抱える工場の経営をしていて。私は子供の頃から、原石と、カットされたばかりの宝石と、大人の職人たちに囲まれて過ごしてきました」

「その環境が、君という宝石の申し子を生んだというわけだ」

「それは少し言い過ぎでしょう。……でも、磨きたての宝石を見るのは、とても好きでした。土埃にまみれ、あれほど濁った姿をしていた原石が──職人の手で磨かれてゆくうちに、艷やかな輝きを発し始める。それが子供心に……不思議で……胸が躍ったのを……覚えています」


 語るうちに、ナタリーの声は途切れがちになった。また、その歩は、牛か蝸牛かというほど、急激に遅くなった。怪訝に思い、ナタリーの顔を覗き込むと、彼女の顔色は見るも無残なほど蒼白だった。額からは大粒の汗が浮いて、今しも滴り落ちようとしていた。


 その様子でもなお一歩踏み出そうとするナタリーを、アルベリクは慌てて押し留めた。


「おい、無理するな。少し、休もう」


 アルベリクはナタリーの肩を抱え、石段の上に座らせた。ナタリーは力なくへたりこむと、自らの膝を抱えてぐったりとうなだれてしまった。


「すみません……なんだか、目が回ってしまいました……」


 最初は、彼女の言うように、ただ目が回っただけのように──螺旋階段に登り慣れていない者が陥る症状のように見えた。だが、それにしては、彼女の様子は尋常ではなかった。今にも血反吐でも吐き出しそうな勢いで、激しく咳き込みさえしている。大丈夫かと問えば、彼女は大丈夫と答える。だが、それが気遣いの言葉だということを、察せぬアルベリクではなかった。


「こちらこそ悪い。付き合わせてしまって」


 アルベリクは彼女の背をおそるおそる撫でながら、心のなかで自らのあさはかさを恥じた。


「俺は、どうしても、君とこの先の風景を見てみたかったのだ」


 カフェのテラスで祭りの灯りに照らされる彼女の横顔を見た瞬間から、その思いは抑えがたく彼を衝き動かしていた。「だが……」とアルベリクは言葉を続けようとした。無理をしてまで強行すべきことのようには、到底思えなかったのだ。


 しかし、ナタリーは首を横に振り、彼の言葉を遮った。


「一緒に見ましょう。貴方が見たいというのなら、私も見てみたいです」


 でも、もう少しだけ休ませて、と彼女は付け加えた。


 彼女の視線は、わずかに宙を彷徨(さまよ)った後、頭上の一点を見て定まった。その視線を辿ると、人の胴体ほどもある大きな鐘が、目と鼻の先の暗闇の中に浮かんでいるのが見えた。


 古い鐘だった。皇国が発生する以前より、休みなく毎日打ち鳴らされているというから、齢は二百年を超えているはずである。


 それほどの昔から、日の出と日の入り、人の生と人の死を見守り、地上の人々に伝えてきた。


 ナタリーは、その鐘の黒々とした姿を、射るような目つきで見据えていた。しかし、長いこと見上げているのは億劫だったようで、すぐに視線を下に落とした。


 アルベリクはナタリーの横に座り、ただ黙って、その背中をゆっくりと撫で続けた。しばらくそうしていると、ナタリーの呼吸は少しずつ整ってきた。


 やがて彼女はおもむろに顔を上げると、改まった態度でアルベリクを真っ直ぐに見据えた。


「──アル、と、呼んでも良いですか……?」

「なぜだね、藪から棒に」


 アルベリクは面食らって問い返す。


 冗談めかした声を出してみたものの、彼女の方は冗談を言っているわけではなさそうだった。ただまっすぐにアルベリクを見据えたまま、寂しげな顔をしていた。


「昔なじみの人は、皆、貴方をそう呼んでいるじゃありませんか。私だって、そろそろ親しみを込めて貴方を呼んだって良いでしょう?」

「好きにするがいいさ」


 アルベリクが答えると、ナタリーは即座にその名で彼を呼んだ。


「アル」


 ささやくような、噛みしめるような声。

 その声の響きは、アルベリクを少なからず動揺させた。


「なんだね」


 面映ゆさを押し隠し、問う。

 しばしの逡巡の後、彼女は答えた。


「アル──先日のことで、貴方に謝らないといけないって、ずっと思っていたのです」

「先日のことというのは、石の輝度に関する議論かね? それなら、謝る必要はない。あれは業務上必要な議論だった」


 ナタリーの表情に、寂しげな色が広がる。


「……そうですね、貴方にとっては、それが仕事ですものね……」


 やがて二人は立ち上がり、再び階上に向かって歩み出した。螺旋状の階段をあとひとめぐりすれば、頂上にたどり着けるところまで来ていた。

 階段を一歩一歩と登りながら、彼女は呟く。


「先日のホテルで、支えてくださるとおっしゃっていただいたとき、私、とても嬉しかったんです」


 ──たとえ、それが仕事上の言葉だとしても……。


 ナタリーはそう言って眼を上げる。彼女の視線の先には階段の果てがあり、さらにその先に、淡く滲む夜空が見えた。


「私にできるのは、美しい宝飾を作ることだけ。貴方はそれを遥か遠くに運んで、必要としている方に届けてゆく──。ただそれだけのこと。ただそれだけの関係。それでも良いのかもしれません。でも、それは──それでは、あまりに──」


 彼女の言葉は、ごうという風の音にかき消された。ついに二人は、塔の頂に到達したのだ。


 強い風が身体を煽る。巨大な鐘の周囲をぐるりと石壁が取り囲んでおり、四方に大きな風穴が空いていた。


 アルベリクは脇目も振らず、その風穴まで向かっていった。そして、冷たい石づくりの縁に手を置いて身を乗り出した。


 そこから見える景色に、二人は息を呑んだ。


 アルバールの黒い山裾に、(ぬか)づくように横たわるマルブールの街並み。その街並みが、祭の灯りによって、幻想的に浮かび上がっていた。街を(かたど)る石壁は、鉱物が織りなす色とりどりの光に染め上げられ、おのおの競うように輝いている。


 漆黒の天と、黒々とした山並みに囲まれた街は、いうなれば、広げた両腕より遥かに大きな、一つの宝石箱だった。そして、街の家々の一つ一つが、その宝石箱に散らばる大粒の宝石だった。


「ここからの景色は、変わらないな。──昔から、何一つ変わっていない」


 呟くアルベリクの瞳が、街の灯を下から受けて煌めく。絶え間なく吹く風が、その額を撫でて前髪を靡かせてゆく。


 アルバールの山から吹く、雪の匂いのする風だった。


 その風が鼻をかすめた瞬間、アルベリクの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇ってきた。


 日常の中で、人はあらゆることを忘れてゆく。苦しかったことも、悲しかったことも、そして、楽しかったことも。


 思い出は、いつしか夢や虚構と一体化し、果たしてそれが本当のことだったのか、そうでなかったのか、境界が曖昧になってゆく。


 そうして、もしかしたらあれは本当のことではなかったのかもしれない、だからもういいんだ、などと半ば諦めながら、現実の日常を、歯噛みしつつ生きてゆくのだ。


 だが、時には季節の風が、かつての思い出を運んでくることもある。


 その思い出は今、鋭い匂いの風と共に、アルベリクの全身に、現実として蘇っていた。目に映る光景は、かつて見た光景と同じであり、心に感じる揺動も、その当時のまま彼の心臓に伝わっている。


 アルベリクは、街の風景を一心に見つつ、呟いた。


「思い出したよ。俺はこの煌めきを見て、技師を目指そうと思ったんだ。あの頃の俺はずっと、この輝きに近づきたいと思っていた」


 アルベリクは、言い放ったばかりの己の言葉に違和感を覚えた。


 ──なぜ、過去形なのだ?

 今はもう、彩りを追い求めてはいないのか?


 あらゆる輝きを知り尽くし、あらゆる美と芸を知り、すべてが小さく見える至高の頂きまで辿り着いたと言うのか?


「──否、違う」


 払いのけるように(かぶり)を振って、アルベリクは己の言を否定する。

 彼はその緋色の瞳をますます光らせ、語気を強めた。


「今も変わらないぞ、その気持ちは。これからも、変わることはない……! この風景が色褪せない限り、終わりはしない」


 息巻くアルベリクの傍らで、ナタリーも、眼下の風景に見入っていた。彼女もまた、その風景の中に何かを感じ取っているようだった。


「……祭の光が星空よりも輝くのは……」


 かすれた声で、呟く。


「人と人とが寄り添って生きているから……」


 呟いた唇の端に涙がふたすじ伝い、唇の隙間に消えていった。


 彼女もまた、思い出したのだ。

 忘れかけていた、幸福な日々の記憶を。

 亡き夫との、僅かな蜜月のときを。

 父や母が磨き上げた、宝石たちの輝きを。


「この眺めが、貴方の目指す輝きだというのなら──」


 ナタリーは服の袖で涙を拭って、今一度眼下の煌めきに視線を落とした。曇りなき瞳で見て、心にその情景を刻みこむために。


 橄欖石色の瞳が、色石の如き光の粒を映して輝く。


「──私の目指すものと、貴方のそれは、なにひとつ違いません。貴方と私は、ずっと同じ輝きを心に描いていたのです……」


 同じ風景を眺めながら、アルベリクは大きく頷いていた。


「皇都に上ってからの俺は、確かに変わったかもしれん。必死に生きてきたつもりだったが、いつの間にか、ものの見え方も変わっていたらしい。だが、変わらないものもある──」


 彼はそこまで言うと、おもむろに向き直り、ナタリーをまっすぐに見た。


「今日、君と共にこの景色を見ることができて、本当に良かった。今、心からそう思っている」


 静かにそう告げるアルベリクの顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


 ナタリーにしてみれば初めて見るであろう表情を、彼女はまるで懐かしむかのように、しみじみと目を細めて見つめていた。


 二人が見つめ合っていたのは、ほんの僅かの間だけだった。やがて再び眼下の光景に視線を戻した二人は、長いこと同じ風景を見、同じ風を浴び、同じ時間と記憶とを共有しあっていた。


 祭の灯は、永遠とも思える長い間、二つの幸福な顔を、明々と照らし続けていた。

【改稿内容:2024-1-15】


・ナタリーの瞳の色が間違っていたため修正しました。

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