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第十三章(2) ショウウィンドウの路地

 テオドールの話していたカフェとは、言うまでもなく、先日ナタリーが嘔吐して倒れた(くだん)の店のことだった。店は組合の屋舎にほど近く、市場を抜け、目抜き通りに入れば、すぐに辿り着ける場所にある。


 カフェの至近まで来ると、テラス席に、ナタリーの姿が見えた。彼女は机に肘をつき、行き交う人々が携える灯籠のひとつひとつを、ぼんやりと眺めていた。


 深まりつつある闇の中、彼女の横顔が、仄かな光に照らされておぼろげに浮かんでいた。その頬や瞳に投じられた光は、ほどなく滲んで、すべるように流れ去ってゆく。物憂げな表情は、普段の彼女が見せるそれとはまた異なり、ひどく儚げな印象を見る者に与えていた。


 ──美しかった。胸が締め付けられ、心がかき乱されるほどに。


 それは、決してアルベリクひとりが抱く印象ではないようだった。その証拠に、カフェのウェイターもまた彼女を意識しており、用もないのに彼女のテーブルに近づいては、二言三言語りかけて気を引こうとしている。


 アルベリクは静かにナタリーの許に近寄ってゆき、彼女に声をかけた。


「ナタリー」

「アルベリクさん……!」


 黒衣の男の姿を認めた途端、ナタリーの満面に無防備な笑顔が広がった。その花開くような様子を見るや、ウェイターは早々に何か邪推したらしく、そそくさと退散していった。


 アルベリクは音もなくナタリーの前に腰掛ける。彼女とこうして面と向かうのは、口論の日以来だった。自然と、アルベリクの心の中に気まずさが滲んでくる。


 だが、ナタリーはアルベリクとの再会を喜びこそすれ、嫌悪する様子は微塵も見せなかった。


 周囲に取り立てて怪しげな様子がないことを確認するや、アルベリクはナタリーに向かって身を乗り出し、声を低くしてやんわりと彼女をたしなめた。


「ホテルに居ろと電報を打っただろう」

「……街の灯を見て回りたかったのです。いけませんか?」


 寂しげな笑みに、アルベリクの心が揺らぐ。(おこ)った迷いを振り払い、アルベリクは断然と答えた。


「良くない。君は今、いささか危険な状況にあるのだ。筋の悪い人間が、君を狙ってこのマルブールに入り込んでいる。単なるスカウトマンなどではない。あるいは君の利き指の一本でも平気で折るような輩だ」


 これを聞くや、ナタリーは怪訝そうに眉根を寄せる。


「なぜ、そのようなことを……」

「君は、君が思う以上に、皇都では有名になりつつある。宝飾関係者の間で君を知らぬ者がいれば、モグリを疑う程度にはな。皇都は魔窟だ。特に宝飾業界は魑魅魍魎の巣窟と言って良い。他人を出し抜くために、どんな恐ろしいことでも涼しい顔でやりこなす連中だ」


 アルベリクは一瞬逡巡した後、呻くようにこう呟いた。


「……中には、出世のために人の命を犠牲にする者とている──」


 探るような目で、アルベリクはナタリーの反応を確かめようとしていた。


 ナタリーの反応は、アルベリクの想像した通りのものだった。彼女は眼前の男の言葉を聞くや眉をひそめ、僅かに震える声で呟いた。


「皇都というのは、恐ろしいところなのですね……」

「ああ……そうとも……」


 答えるアルベリクの言葉は、いかにも歯切れが悪かった。


 二番目の指輪を作る条件として、ナタリーはすべての過去を洗いざらい話すことを挙げていた。だが、もしもアルベリクの本当の姿を知ったなら、彼女は果たして軽蔑せずにいられるだろうか。


「ともかく」アルベリクは強引に話題をそらす。「──ともかく、今は君を危険から守らねばならん。こんな目立つ場所に居てはだめだ」


 語調も強く、アルベリクはナタリーを促す。ナタリーはしょんぼりと肩を落とし、悲しげに呟いた。


「残念です……せっかくのお祭りなのに……」


 ナタリーの目は、名残惜しそうに祭の灯を見つめている。


 アルベリクは迷った。これ以上、寸刻たりとも彼女の悲しげな顔は見ていたくなかったのだ。かといって、いつまでもこの場で駄弁っているわけにもいかない。どうかして、安全な場所で彼女に祭りを見せてやることはできないものか。


 その時、一瞬の閃きが彼の脳裏に舞い込んだ。


 突然彼は立ち上がり、ナタリーの腕を引いた。そして、不器用に笑いながら彼女をいざなった。


「来い。良い場所に案内してやる」



 ◇



 目的の場所に向かう道すがら、アルベリクはあるショウウィンドウの前で足を止めた。


 こぢんまりとした宝石店の、どうということもない展示だった。白の台座に、色石を配した宝飾品がいくつか並んでいる。


 ショウウィンドウとアルベリクの顔を見比べながら、ナタリーが控えめに微笑んだ。


「こちらが、おっしゃっていた場所ですか?」

「……いや……」


 短く答えるアルベリクの視線を追って、ナタリーもショウウィンドウの中を覗き込む。


「可愛らしいですね。このお店のネックレス、私、好きですよ」

「皇都には、もっと良い品がごまんとある。展示とて、もっと工夫と贅を凝らしたものだ」


 無感情に吐き捨てると、アルベリクは再び街路を歩き始めた。ナタリーは慌てて彼の背中を追いかける。


 隣に寄り添って歩くナタリーが、アルベリクの顔を見上げて気遣わしげに語りかけてくる。


「アルベリクさんは、このマルブールのご出身なのですよね」

「ああ、それがどうかしたかね」

「子供の頃の貴方は、この街でどんな風に過ごしていたのでしょう」

「特別言うべきことなどなにもない、平凡な子供時代だ」


 アルベリクがぶっきらぼうにそう呟くと、途端にナタリーは寂しそうな顔になった。適当に答えていることは、お見通しというわけである。


 こんなつまらないことで誠実さを欠くのは、得策でない。


 ──それに、と、アルベリクは思う。


 どうしてか今日に限って、彼女の顔から笑顔が消えると、気持ちの据わりが悪くなるのだ。憂いを帯びた表情がちらつくたびに、心がひどく乱れる。それがどうにも堪らなかった。


 やむなく、アルベリクは恥を忍んで、ごまかしをやめることにした。


「──宝石は好きだった。物心ついたときから、ずっとな」

「では、先程見ていたお店は……」

「ああそうだ、ご想像の通りだよ。子供の頃は、さっきの店のショウウィンドウに、朝から晩までへばりついていたものだ」


 そう答えてやると、ナタリーは「やっぱり」と言って満足気に微笑むのだった。アルベリクは大儀そうにため息をつく。


「そういう君はどうなんだ。俺は君のことを何も知らない。君が話してくれないからだ」

「何をお話すれば……」

「何だって良い。例えばこの祭だ。マルブールに住んでいるなら、思い出の一つや二つあるだろう」


 ナタリーは答えに窮したように沈黙する。まただ、とアルベリクは心の中で呻いた。また再び、彼女の眼に悲しげな光が宿ったのだ。


 語りたくないなら、無理に語る必要はない、そうアルベリクが告げようとしたとき、ナタリーはおもむろに口を開いた。


「このお祭りの灯を見ると」碧色の瞳が、街路に並ぶ灯籠の火を追いかける。「灯籠に照らされた夫の横顔を思い出すのです」

「亡くなったというご主人か」

「──はい。夫と婚約した後、一度だけ、一緒にこの祭を見て回ったことがあるのです。夫は祭にやってくる人を街角から眺めるのが大好きでした……」


 ナタリーの瞼が、遥か遠くの追憶を見るように、細く(すが)められてゆく。


「美しい眼をした人でした。その眼に映った灯籠の光がとても綺麗で、ずっと見ていたかった……」


 囁くように語るナタリーの声は、次第にかすれて聞こえなくなってゆく。すわ泣き出すのかとアルベリクは密かに気をもんだが、彼女はついぞ泣きはしなかった。ただ唇を真一文字に引き絞り、感情を抑えているのが(はた)から見てもわかった。


 彼女は不意に顔を上げ、天を仰いだ。アルベリクも彼女に倣って空を見る。街の光があまり明るいものだから、山の夜空だというのに見える星は僅かだった。


「祭の光が星空よりも輝くのは……」


 そこまで呟いて、ナタリーは口を噤む。


「……それは、なんだね? なにかの唄か」


 アルベリクの問いに、ナタリーはすぐには答えなかった。唇をかすかに動かして、続く言葉を(そら)んじようと試みているようだった。だが、どうにも上手くいかないらしい。やがて彼女は残る言葉を諦め、繕うような笑みを見せた。


「お祭りを見て、夫が口にしていた言葉です。あの人の言葉は一語一句忘れないようにしていたはずなのですが……。……情けないことですね。すぐに思い出すことができないなんて……」


 自嘲気味の笑みに、寂しげな影がさす。


「幸せだったときの思い出は、なぜだか、だんだんと曖昧になってゆく気がします。逆に、辛い記憶ばかりが色濃くなってゆく……。お祭りの灯を見て、せめてあの頃の断片でも思い出せるなら、と思っていたのですが……」


 ナタリーはそう呟いたきり押し黙った。その眼は、灯籠の光が届かぬ街路の闇の奥を、長いことじっと見つめていた。


 やがて彼女は顔を上げると、再び繕うような笑いを見せて言った。


「ごめんなさい、つまらない話でしたね。せっかくのお祭りなのに、もっと……」


 ことばの続きを、アルベリクは手で制した。それから彼は、その手でナタリーの小さな背中を、労るように数度、軽く叩いた。


「……話を聞けてよかったよ。ありがとう」


 アルベリクの声は、自身で耳を疑うほど優しかった。

 彼の声に驚かされたのはナタリーも同じだったようで、わずかに目を見開いて、まじまじとアルベリクの顔を見ていた。


 アルベリクはナタリーの視線に耐えられず、無意識のうちに彼女から目を背けた。


「──急ごう」


 それだけ言って、アルベリクは足を早める。

 ナタリーは、その後姿を眺めながら目を細め、ゆっくりと小さく頷くのだった。

【改稿内容:2024-1-15】


・ナタリーの瞳の色が空色になっていたのを、碧色に修正しました。

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