第十二章(4) リアーヌ邸
アルベリクがサラの部屋に戻ろうとしたところ、丁度彼女の部屋から出てこようとするリュファスの姿が目に入った。
「リュファス、お前も帰るのか」
「リアーヌは君と二人きりで話したいそうだよ、色男」
「色男はお前だ、リュファス。うちの技師に手を出すなよ」
挨拶代わりの応酬に引き続き、リュファスはついでとばかりに尋ねてきた。
「それより、ネイライとは何を話していたんだい? まさか、引き抜こうなんて考えてはいないよな?」
「莫迦を言え、お前じゃあるまいし。故郷の話をしていただけだ」
「君はネイライと同郷だったか」
「なんだ、知らなかったのか?」
「あいつはあまり自分のことを語らないんだ」
憮然としてリュファスが答える。
(二人はうまくいっていないのか?)
そう思った瞬間、アルベリクの脳内にある種の閃きのようなものが走った。彼は探りを入れるつもりで、なんとなしにこう口に出してみた。
「ネイライはマルブールの祭に合わせて一度帰郷すると言っていたぞ」
「ご親切にどうも! それを休暇申請の代わりにさせてもらうよ」
リュファスはそう言って、肩をすくめてみせる。彼はどうやらアルベリクの意図には気づいていないらしい。
リュファスの答えは、アルベリクの考えを裏付けるものだった。この眼の前のパヴァリア人はどうやら、ネイライの帰郷の意図すら把握していないようである。あるいはもしかすると、マルブールに出張ろうというのはネイライ個人の考えにすぎず、ボーマルシェとしての考えではないのかもしれない。
この暗黙の情報は、アルベリクにとって有用だった。ボーマルシェが組織としてナタリーの引き抜きに乗り出してくると、対応が厄介だったためだ。
とはいえ、ナタリーを快く思っていないであろうネイライが、祭りの人出に紛れてマルブールに戻るというのは、穏当なことではない。すぐにでもブランシャールに取って返して対策を検討すべきところだった。
リュファスを見送った後、アルベリクもいとまを告げるため、サラの部屋に舞い戻った。
サラはソファーの上に撓垂れ掛かって、微睡みかけているところだった。しかし、アルベリクの姿を認め、彼女はゆるゆると身を起こす。
「忘れられたのかと思った」
そう言って、彼女は苦笑いを浮かべる。冗談めかしてはいるが、声音は刺々しいものがあった。
「しかし、現に、こうして訪ねただろう」
アルベリクはサラの咎めに猫撫で声を返す。
雇い主である彼の立場からすれば、サラを無礼と罵っても良いところではあった。だが、アルベリクはそうはせず、あくまで下手に出ることを決め込んでいた。一度替え玉として世に出したからには、彼女もまた替えの利かない人材になってしまったのだ。万が一にも機嫌を損ねるわけにはいかないのである。
そして当のサラは、アルベリクの弁明に納得する様子も見せず、冷ややかな目つきで彼を見上げていた。それは、自分の立場を理解している人間の目だった。
「そうね。でも、あまり放っておかれては、気持ちも移ろってしまうわ。ボーマルシェも悪くないかも、なんて」
「おいおい、勘弁してくれ」
アルベリクが色めきだったのを見て、サラは溜飲を下げたらしい。今度こそ満足げな微笑みを見せた。
「冗談よ。私が、そんなことをするはずないでしょう」
呂律の回らぬ舌でそんなことを宣いつつ、彼女は袖机の上のワインボトルに手を伸ばす。
その手を、アルベリクがやんわりと掴んで、ボトルから遠ざけた。
「今日はもう寝ろ。ベッドに連れて行ってやるから」
寝室までサラを運び込み、ベッドの上にその身体を横たえると、アルベリクは彼女からすぐに身を引き離そうとした。すると、その瞬間、サラの腕がアルベリクを遠ざけまいとして、彼の首に巻き付いた。彼女は強い力でアルベリク身を引き寄せ、鼻先に触れんばかりに唇を近づける。酒香のする吐息が、アルベリクの鼻腔をいたぶる。
彼女は至近からアルベリクの緋色の瞳を見つめ、甘ったるい声で囁いた。
「ね、キスしましょう」
すかさず、アルベリクは彼女の頭頂を平手で叩いた。
「酔いすぎだ、莫迦」
「叩いた! それに、莫迦って言ったわね? 莫迦は貴方よ。莫迦、莫迦、ばか……」
サラはベッドの上で、駄々っ子のように足をばたつかせる。アルベリクはそんなサラを黙らせようと、投網のようにシーツを広げて、彼女の全身を覆ってしまった。シーツに包まれたサラは白い塊になりながら、愉しげな嬌声を上げる。
やがて、シーツの端から顔だけ覗かせて、サラが問うた。
「ねえ、今夜は泊まっていってくれるんでしょう?」
「だめだ」
「どうして? 私が汚らわしい女だから? それなら、貴方だって、若い頃はさんざん、貴族の奥方相手に枕営業をやっていたじゃない。私が知らないと思っていたの……?」
「ちがう。ネイライが不穏な動きを見せているんだ。すぐに店に戻って、対策を取らねばならん」
「嘘」
アルベリクの胸が、わずかに締め付けられる。彼の言葉の半分は真実だったが、半分は彼女の言う通り、嘘だったからだ。アルベリクは、彼女の相手をするのが億劫になりつつあったのだ。
大仰にため息をつきつつ、アルベリクはサラを宥めすかす。
「勘弁してくれ。君とそういう関係になるつもりはないんだ。君だって他人の肉欲を飯に替えてきた人間なんだから、わかるだろう。君とは、そんなものを必要としない間柄でいたい」
この言葉も、真実だった。
サラとアルベリクは、皇都にやってきた当初の、食うにも困る下積み時代からの付き合いだった。当時の二人はまだ半人前で、かつ貧しく、持っているのは野心と夢想ばかりという有様だった。だが、それでも若い二人は手を取り合って、懸命に生きてきた。その頃から、アルベリクにとってサラは、妹同然の存在だったのだ。
アルベリクは、この関係がこれから先ずっと、同じように続いてゆくものとばかり思っていた。
しかし、時間の流れは同じ場所に留まることを許してはくれない。
もしもあらゆる変化を断固として拒みたければ、時の流れのゆるやかな場所に身を置くしかない。ガストンやナタリーのように山小屋に籠もるしかないのだ。
サラは、潤んだ瞳でアルベリクを見上げていた。そこにかつての少女の瞳の輝きはなく、ただ疲れ果て酒に溺れた女の、濁った目が蠢いているだけだった。
「今の貴方は烏で、私は人形……。私たちは、もうあの頃の私たちじゃない……。でも、それならそれで、構わないじゃない。今の私たちなりの、付き合い方をすればいいの……。ね、そうでしょ……?」
女の細く白い手が、アルベリクの袖口にすがりついてくる。
(もしも、今の俺たちなりの付き合い方を本当にするのなら──)アルベリクはその胸の中で思う。(俺は君を引っ叩いて、とっくにこの屋敷から出て失せているだろう……)
アルベリクはサラの手を取り、シーツの中にそっとしまい入れた。彼はベッドの上に座り、サラの上に半ば覆いかぶさるように身を横たえると、その唇にそっと接吻した。
愛情の込もった、やさしい口づけだった。まるで、眠りにつこうとする妹に対して、兄が贈るそれのような──。
「これで眠れるか?」
うつろな緋色の瞳が、サラの瞳を覗き込む。すると、彼女の瞼の端から、涙が一粒伝い落ちた。
「うん……眠れそう。ありがとう、アル……」
そう答えるサラの瞳は、いまだ濁ったままだった。






