第十二章(3) リアーヌ邸・廊下
用を足して戻る途上の廊下で、アルベリクはネイライに出くわした。彼は回廊に据えられたスツールに腰掛けており、アルベリクの姿を認めるや薄い微笑みを見せた。どうやらアルベリクが戻るのを待っていたらしい。
彼はアルベリクを見上げながら、おもむろに口を開いた。
「俺はそろそろ帰る。うちのボスには付き合いきれん」
「リュファスは頻繁にここに来るのか?」
首肯するネイライ。
「ああ。週に一度は来ているらしい。今日は彼女のデザインした新作の発売日だというので、なぜか俺まで呼び出されて朝から宴会だ。馬鹿馬鹿しい」
「執心のようだな。あまりうちの技師に酒を飲ますなと、奴に伝えておいてくれ。営業妨害だ」
「直接言ってくれ。俺の口から言っても聞く耳を持たん」
アルベリクはネイライのぼやきを受けて、肩をすくめた。
サラは、どうやら彼女の責務を忠実に果たし、リュファスの気を引くことに成功しているようだった。それについては、大変喜ばしいことではある。しかし、彼女の素行には十分注意する必要があった。つまらぬ醜聞でリアーヌのブランド価値を下げるようなことは、厳に慎まなければならないし、ましてや、酔った勢いでうっかり競合他社に正体を暴かれるようなことは、決してあってはならないのだ。
現に今とて、ボーマルシェは彼女の正体を確かめに来ている。それを裏付けるかのように、ネイライは目を光らせてアルベリクの顔を覗き込み、露骨に探りを入れてきた。
「最近君は、皇都を空けることが多いらしいな。『彼女』が嘆いていたよ」
「仕事の話はしていないのではなかったのか」
「私的な話だ。君と会えないのが寂しいらしい」
「仕方ないさ。彼女の名望はすでに皇都の外にも鳴り響いている。俺はおかげで、国中を商談で駆けずり回る毎日だ」
「仕事の話は、しないのでは?」
「そうだったな」
ネイライは回廊の窓から、外の青空に視線を投じた。彼の目は、ここではないどこか遠くを見ようとしているようだった。
「リアーヌは、皇都の人間かね」
「ああ、そうだ……」
「そうか。不思議だな。彼女の作る作品からは、アルバールの山の匂いがする」
アルベリクは思わず黙り込んだ。空を見ていたネイライの目がぐるりと動き、アルベリクの顔を捉える。厳しい追及の眼だった。
「彼女は、ガストンと関わりがあるのか?」
「直接の面識はないな。だが、彼女はガストンの作品に憧れてブランシャールに入ったのだ。その影響は色濃いだろうさ」
「そうかな? 彼女の作品には、ガストンに師事しなければ到底実現できないような繊細な技術が数多く使われている。まるで、昔の君の作品のようじゃないか」
「ブランシャールの中には、ガストンから受け継いだノウハウがある。それを、彼女が努力によって身に着けたのだ」
こうした問答は、アルベリクの中ではとっくの昔に想定済みのものであり、答えも既に用意されていた。そのため、ネイライからどれほど問い詰められようとも、彼は窮することなく答えることができた。
しかし、ネイライはアルベリクの答えを鼻であしらうばかりだった。作られた言葉と真実の言葉の重みの差を、彼はあるいは識別できているのかもしれない。
浅薄さを冷笑するその態度は、アルベリクの神経を逆撫でした。彼はネイライに詰め寄り、その胸元に人差し指を強く押しつけて凄んだ。
「ネイライ、この際だ、正直に言わせてもらう。できればあんたにはこの館に近づいてもらいたくない」
「なぜだね。同業者同士、交誼を深めることくらい問題なかろう?」
「──皇都に来てからのあんたの素行、悪いが調べさせてもらった。あんたは、ボーマルシェの筆頭技師に至るまでに、ずいぶん色々と阿漕な真似をしてきたようだな。邪魔な者、自分を超えそうな才能を持った者、芽の出そうな新人を見かけるや、容赦なくいびり潰す、罠に嵌める、根も葉もない噂をばらまく……。それでもだめなら実力行使だ。事故に見せかけて指を切断された技師もいたそうだな。あんたの差し金で」
「根も葉もない噂を真に受けるとは、とんだお笑い草だ」
「お前に指を潰された技師にも、実際に会ったのだ、俺は──」
反論を口にしようとするアルベリクを、ネイライは手で制した。
「よしんばだ! よしんば、その噂が本当だとしても、それはとどのつまり、お前と同じということだろう? さすがは屑を師として拝んだ者同士、目くそ鼻くそを笑うといったところじゃないか、ええ?」
「茶化すな。うちの技師に手を出してみろ、ただではおかんぞ」
「安心しろ。リアーヌには手を出さんよ。それは約束する」
『リアーヌには』と強調されたことが、アルベリクには引っかかった。
依然ネイライの眼は、アルベリクの眼を虎視したまま動こうとしない。その口がゆっくりと動き、喉の奥から低く重い声を響かせた。
「知っているか、アル。泰皇には十人の影武者がいるそうだ。操り人形は多いに越したことはないからな。本物の泰皇は既に死んでいるという噂さえある」
「何の話だ」
「では、はっきり言おう。今この館にいる女は、偽物だ。あの酔いどれに、神業のような作品を作る技倆はない」
──もはや疑うべくもない。ネイライは、身代わりを置いていることに気づいている。
よりによって、ネイライである。技師潰しの異名さえ持つこの男に、ナタリーの存在を嗅ぎつけられることだけは避けなければならない。
演技のしどころだった。今度はアルベリクが、ネイライの言葉を鼻であしらう。
「あんたも酔っているのか、ネイライ」
「いいや、一滴も呑んではいない。──なあ、アル。君が皇都を空けているのは、『本物』の方に会っているからではないのか?」
「いい加減にしろ、ネイライ。痛くもない腹を探られるのは不愉快だ」
「まあ、こう聞いたところで素直に答えるとは思っておらんよ」
そう言って、ネイライは不敵に笑った。彼はようやくアルベリクの眼から視線を外すと、目を伏せ押し黙った。
「……なにを考えている?」アルベリクが問う。
「さあな。仕事の話は、ここではご法度だ」
独り言のような口調で、ネイライは答えた。その彼の眼が、再び窓の外を遠く見やる。
「──彩火の祭が近いな。久しぶりに帰郷するのも一興だろう」
彩火の祭とは、春先にマルブールで催される大きな祭のことだった。
この祭が始まると、マルブールの街には、色とりどりの灯籠が至るところに掲げられるようになる。
市場に集まった多種多様な鉱石を火にくべると、炎色反応によって様々な色の炎を得られる。こうして生じた炎を透明な灯籠に詰めて、街中に掲げるのだ。すると、街はまるで色石を詰めた宝石箱のように煌めき始める。
街の人々はそれらの光を楽しみつつ、一年を通してアルバールの山から得た恩恵に感謝するのである。
アルベリクは、若き日に見た祭りの風景を瞼に描きつつ、小さくかぶりを振った。
「仕事が忙しい。祭を楽しんでいる余裕などないよ」
「景気が良さそうでなによりだ。だが、あの思い出の山小屋がどうなっているか、気にはならないか?」
「なるはずがなかろう。あんな場所。思い出したくもない」
「かもしれんな。だが、私にとっては、懐かしい青春の巣穴だ」
「あの山を登って行くつもりか。物好きなものだな」
「お前もそうではないのか」
「なんだと?」
眉を吊り上げアルベリクが問う。だが、ネイライは答えなかった。
彼は窓の外を遠く眺めたまま、憂鬱げに嘆息する。
「こんなくだらん腹の探り合いをするつもりはなかった。──お前は変わったよ、アル。お前だけは、この皇都でも変わらないと思っていたのだが」
ネイライはそう言い捨てると、アルベリクの方を見ようともせず、踵を返して玄関に向かって歩み去っていった。
(その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ、ネイライ)
アルベリクは、去りゆく巨体の背中を眺めながら、心の中で毒づいていた。






