表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/99

第十二章(1) 山小屋

 ある朝のこと。アルベリクが水汲みを済ませ、汗みずくになっているところに、ナタリーが近づいてきて手ぬぐいを差し出した。


 彼女は普段から細やかによく気のつく女だったが、その朝はことさらだった。


「水汲み、いつもお疲れ様です。部屋の掃除は、私がやりますね」

「いいや、それも俺がやる。雑用は俺に全て任せてくれていい」


 アルベリクがぶっきらぼうに答えると、ナタリーは「そうですか……」と、寂しげな表情を見せた。しかしすぐ、彼女はおずおずと微笑みながら、何かを期待するようにこう尋ねてきた。


「……優しいのですね」

「いや、そういう気分でやっているわけじゃない。これが俺の仕事だ」


 あくまでにべもない態度に、ナタリーはあからさまな落胆を見せたものだった。


 その日の朝食は、いつものようにアルベリクが用意した。さして工夫もないパンとスープとサラダだったが、ナタリーはそれらをいかにも美味しそうに頬張っていた。


 食事を済ませると、彼女はほっと吐息をつき、満足げに微笑んだ。


「いつも美味しい食事を作ってくださって、ありがとうございます。貴方の想いが込められているようで、心まで暖かくなります」

「──想いは特に込めてはいないな。まあ、これも俺の業務の一環と思ってくれれば良い」


 淡々とした答えに、ナタリーの顔が曇る。

 食後、卓上の器をアルベリクが片付けていると、ナタリーは勇んで立ち上がった。


「洗い物ですね。私がやります」

「いや、だめだ。君の手を冷やすわけにはいかん」


 アルベリクは食器を台所まで運び、濡らした手ぬぐいで手際よく拭き上げてゆく。

 すると、彼の横にナタリーが歩み寄ってきて、気遣わしげにしつつその袖をそっと引いた。


「──私にも、やらせてください。いつも貴方にばかり雑用を押し付けているようで、心苦しいのです。気分転換にもなりますし……」

「だめだ。これは俺の仕事だ。何度も言わせるな。いいから君は君の仕事に入れ」


 沈黙。一瞬の空気の変化を察知して、アルベリクは振り返った。


「……仕事、仕事って……」


 明らかに不満げな様子で、ナタリーは呻くように呟いた。


「制作方針が決まっていないのに、仕事には入れません……」

「方針は昨日の夜にさんざん話して決まっただろう。また議論を蒸し返す気か?」

「決まっていません。私が納得していないのですから」


 ナタリーは、憮然として答える。


 そう、それは昨夜遅くのこと。アルベリクとナタリーは、クラヴィエール公案件の制作の進め方について、喧嘩腰の大激論を繰り広げていた。


 彼女が今朝一番から妙によそよそしく、気遣わしげな態度をとってきた理由も、おそらくはここにあった。昨夜の議論であるいは生じた心の溝を、如何かして塞ごうとしていたのだろう。


 だが、その努力をアルベリクは全く無視して過ごしていた。彼女にはそれが許せなかったのかもしれない。


 アルベリクはあからさまにうんざりした顔を見せつつ、肩をすくめてみせた。


「……わかった。では納得できるまで話そうじゃないか」


 二人は居間の机を挟んで向き合い座り、互いに顔を突き合わせて睨み合った。


 マルブールでの仕入れを終え、既に二日が経っている。製作が順調ならば、既に素材の加工に着手していてもおかしくない頃合いである。


 しかし、二人は未だ、石選びの工程すら完了できないでいた。


 二人の争点は、いったい何なのか。


 それは、『永遠に果てなき輝き』という命題に対する解釈の違いにあった。


 アルベリクは、輝度を増やすことに強く執着していた。一粒一粒の宝石の輝きを最大限に引き出すことこそ、今回の案件の最大の命題だと主張して譲ることがなかった。


 かたやナタリーは、この主張に対し、次のような理屈で反論した。


「宝石は基本として結晶なのです。インクルージョンの限りなく少ない宝石を用いるならば、その輝度を最大限引き出すために必要なのは、突き詰めると光の入射角反射角の計算になってきます。それならばきっと、いつか、私以外の誰かがその計算式を見つけ出し、貴方の言う『最高の輝き』に到達することでしょう。未来の誰かがやるだろうことを、私がやる必要など、どこにあるのですか?」


「そんなことは、はなから理解している。しかし、いまだかつて、それを誰一人として実現していないからこそ、やる価値があると俺は言っているのだ」


「貴方の提案は、再現可能な工業製品の方法論です。私は、未来永劫を通して、私にしかできないことをやりたい。それこそが、真に価値のあることだと私は思います」


 アルベリクは、思わず唸った。


 もしも、彼女の見果てぬ夢に、宝石の持つ特性の限界を超える価値があるのならば、彼女のやり方で進めることにも大きな意味がある。しかし、その方法を選択することは、言うまでもなく、大きなリスクを伴うことだった。


 そも、目的地が明らかでないということは、どこにも辿り着けずに野垂れ死にする可能性も大いにあるということである。


 アルベリクには、もとより彼女の主張を受け入れる気などなかった。しかし、宝石に関わり生きる者として、彼女の目指す理想に興味を覚えずにはいられなかった。


 ゆえに、彼は尋ねた。


「では聞こう。君は今回の仕事でどんな輝きを目指す?」


 この問いかけに、ナタリーは即座に応じた。考えるまでもなく、すでに彼女の中に答えは存在したのだ。


「私は、宝飾を通して、人の精神の輝きを表現したいと考えています。それは決して、貴方の言うような通り一遍の輝きではありません。陰翳──いえ、いっそ、闇の中にあってこそ、人の魂はより輝くと考えています。それを技法に落とし込んで考えれば、ただ漫然と輝きを散りばめるのではなく、あえて輝かない場所を設けることも必要だと思うのです。あるいは、思い切って暗色の色石を配しても良いでしょう。そうすることで──」

「そんなものは!」


 焦れたアルベリクが、弾けるように怒鳴る。

 しかしすぐに彼は冷静を取り戻し、気まずそうにしつつ残りの言葉を吐き捨てた。


「……そんなものは、個人的な製作の中で追求すべきことだ」

「仕事であろうとなかろうと、私の作るものは変わりません」

「いいか。よしんば君の望むように創ったとしよう。結果として出来たものを、一体誰が、何人の人間が理解できると思っている?」

「少なくとも、私と、貴方は」


 悪びれもせずナタリーが言ってのけるものだから、アルベリクは頭を抱えてしまった。


「君は俺のために仕事をしているのではないだろう。顧客のために作る、その大前提を忘れるなど、プロとして失格だぞ。顧客は社交の場で着用できるものを望んでいる。そして、社交の場に来る者は十人十色だ。中には、宝飾のことを微塵も理解していない向きもあるだろう。たとえそんな人間であっても、一目見れば思わず息を飲むような、そんな逸品を作ろうと言っているのだ。そのためには、どんな人間にも理解できる、確固たる特長を提示する必要があるということだ」


「万人に受けるために、わかりやすい評価軸を設ける──。それはいかにも日和見的で、商業的な妥協です。ただ眩しければ良い、などという発想を、私の作品に持ち込みたくありません」


 今日に至るまで、幾度このようなやり取りを繰り返してきたことだろう。頑迷な者が二人集まっているとはいえ、妥協がない限り、互いの主張が平行線になるのはわかりきったことだというのに。


 ふいに、ナタリーは大きなため息をついて、ぐったりとうなだれてしまった。


「ごめんなさい、少し、休みましょう……」


 もとより病弱で体力のない身体である。極度の緊張を強いられる口論は、彼女を大きく消耗させていたらしい。


 ナタリーはおぼつかない手付きで懐に手を差し入れると、件の蓮の指輪を取り出した。それはもはや、彼女にとっての精神安定剤の役割を果たしているらしかった。震える指に指輪を嵌め込むや、みるみるうちに、彼女の満面に安堵の表情が広がった。その有様たるや、まるで薬物中毒者のそれであった。


 アルベリクは彼女の体たらくを一瞥し、冷たくせせら笑った。


「俺を否定したそばから、俺の創った指輪にすがるのか」


 非難がましく吐き捨てる。だが、ナタリーは気にするそぶりも見せなかった。

 長いまつげの奥で、彼女の瞳が指輪の輝きを受け、チラチラと瞬く。

 やがて彼女の口から、ポツリとこんな言葉が漏れた。


「……貴方は本当に、この指輪の作者なのですか?」

「どういう意味だ」

「この指輪は本当に素晴らしいです。たとえ技術的には未熟であっても、何者にも迎合せず、確固とした信念を持ち、自分自身の限界の、さらにその向こうに挑戦し、見事に成し遂げている。美しく、心豊かで、温かい……」


 ──それなのに、今の貴方ときたら。彼女の目は、言外にそう語っていた。

 対するアルベリクはふてぶてしく鼻を鳴らし、こう(うそぶ)くのだった。


「とっくにくたばったよ、それを創った男は。殺されたんだ。ずっと昔に、俺の手によってな」


 その言葉を聞いた途端、ナタリーの唇がへの字に歪んだ。


 彼女は堪りかねたように席を立つと、大股で歩いて地階に降りてゆき、工房に入るや、中から閂をかけた。以降彼女は翌日の朝日が登るまで、工房から姿を現さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本作書籍化いたしました!
こちらの青いカバーが目印です。
書籍化にあたり加筆修正を行い、Web版より読みやすくなっていると自負しております。
お買い上げいただけると大変嬉しいです。
よろしくお願いいたします!

▼▼▼ 画像をクリックすると、Amazonのページに移動します ▼▼▼
マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師1 マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師2
▲▲▲ 画像をクリックすると、Amazonのページに移動します ▲▲▲


特典情報もあります!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ