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第十一章(5) ホテル

 アルベリクがマルブールに逗留する際、いつも使うホテルがある。マルブールの中では最高級に位置するホテルであり、その中でも上等の部屋をアルベリクは好んで使っていた。


 体調を崩し動けなくなったナタリーを山小屋まで担いでゆくわけにもいかず、また山の天気が崩れる気配もあり、今日はこのホテルに一泊することにした。


 胃液臭い姫君は、ベッドに倒れ込んだ途端、微動だにせず寝入ってしまった。


 彼女が目を覚ましたときには、すでに宵の頃になっていた。天気は予想通り崩れ、すでに窓の外は夜中のように暗い。強い風に運ばれた雪が、窓硝子に激しく叩きつけられている。明日の朝は間違いなく、一面の銀世界を見ることになるだろう。マルブールの春は、いまだ遠かった。


 アルベリクは、背後に気配を感じて振り返った。ナタリーが、柔らかく沈むベッドの上で、四苦八苦しながら身を起こしている。腕で身体を支えようにも、あまりにマットが柔らかく、うまくいかないのだ。


 仕事に一区切りをつけると、アルベリクはベッドに近づいていって、ナタリーの顔を正面から覗き込んだ。


「どうだ、気分の方は。昼間よりはましなようではあるが」


 途端に、ナタリーの頬が、さっと紅く染まった。

 彼女は今にも泣き出しそうな顔をしながら、ベッドの上で深々と頭を下げた。


「申し訳ありません……重ね重ね……本当に、失礼を……。ご面倒をおかけしてしまいました」

「気にするな。俺こそ、君の都合を考えずに連れ出して、悪かったな」

「いえ……! そんなことはありません。今日はご一緒できて、本当に、嬉しかったです……」


 アルベリクが相好を崩して頷くと、ナタリーもつられて、泣き笑いの表情を見せる。


 その顔からやがて笑顔が消え、ただ憂いの表情だけが残った。彼女は目を伏せ、うつむきがちに顔を伏せつつ、かすれた声で尋ねた。


「……どうして、私のために、ここまでしてくださるのですか?」

「それが、仕事だからだ」

「なら、もうやめましょう。仕事といえど、私のような女の世話を焼くのは苦痛でしょうから」


 自虐的な笑いで頬を歪めながら、彼女は囁く。その様子は、殊勝というよりも、むしろ卑屈ですらあった。アルベリクは内心呆れつつも、やや大げさな仕草で、彼女を励まそうと試みた。


「なにを莫迦なことを言っているんだ。君は、自分自身を過小評価してはいないか?」

「昼間の私の体たらくを見たでしょう。それでもまだ、そう思われるのですか?」

「むろんだ。君の過去がどうあろうと、君が世間からどれだけ蔑まれていようと、俺の君への評価は変わらんよ」


 アルベリクは身を乗り出し、ナタリーの手に己の手をそっと重ねた。


「いいか、君のこの手には、幸いなことに力がある。この世界に、素晴らしいものを生み出す力だ。過去は変えられんが、未来は変えられる。違うか?」


 間違ったことは言っていないはずだった。だが、どこかで聞いたような言葉だと、アルベリクはうすうすと感じていた。少なくとも、自分でなくとも言える言葉のように、彼には思えた。


 案の定、ナタリーは冴えない表情のまま、身を固くしてうつむくばかりだった。


「俺が言っても説得力がないか。まあそうだろうな。──ああ、くそっ!」


 アルベリクはベッドから立ち上がり、天を仰いだ。


 誰かの心に言葉を届けるのに、通り一遍の言葉を持ち出してはならない。そんなことをすれば、ますます相手は心を閉ざし、頑なになるばかりである。相手に言葉を本当に届けたいのならば、己の言葉を使い、己をさらけ出し、己の本当の気持ちを相手に伝えなければ意味がない。


 アルベリクは意を決すると、再びナタリーの傍らに腰掛け、彼女をまっすぐに見据えた。そして、ゆっくりとした口調で語り始めた。


「君にとって、俺はどう見えているだろう。碌でもない人間に見えているかもしれないな」


 彼は一旦言葉を止め、大きく息をつく。「──だが」彼は呟き、己の中にわだかまっていた言葉を、一気呵成に吐き出し始めた。


「……俺には、君の作ったものを世に広める力がある。自信のない君に代わって、君の作品は世界一だと、世間様に触れてまわろうというのだ。それが俺の力であり、俺の役割だ。いいか、ナタリー。君は、自分自身をちっぽけな存在だと思っているようだが、今の君には俺が居るんだ。頼りにならん、などと言ってくれるな。一人では難しくとも、二人でなら、今までとは少しは違う結果になるかもしれないじゃないか。そうだろう?」


 無我夢中で言葉を繰り出すうちに、アルベリクの声は次第に熱を帯びていった。その熱が奏功したのかもしれない。ナタリーの眼に、僅かながら輝きが戻ったようにアルベリクには見えた。


 ナタリーは、己の手元をぼんやりと眺めつつ、ぽつりと呟いた。


「二人でなら、未来は、変えられる……」

「そうだ」


 ナタリーは顔を上げ、すがるような眼でアルベリクを見た。


「こんな私でも、ですか……?」

「ああ、そうだ。ナタリー、俺を信じろ。君のことは、俺が支える。そのかわり、君も、俺の力になってくれ」


 らしくない言葉だということは、アルベリクも重々承知していた。だが、それは彼の偽らざる本心だった。


 ナタリーは再びうつむき、押し黙った。思案を続けるその眼には、生きる意思を持った者の輝きが、確かに戻りつつあった。


 やがて彼女は顔を上げ、アルベリクに向かって尋ねた。


「お昼に貴方は──私と同じと、そうおっしゃっていましたね」

「……聞こえていたか」

「──お話を、していただけますか?」


 ナタリーの瞳はいまや迷いも屈託もなく、ただまっすぐアルベリクの瞳を見据えていた。


 彼女の瞳に射抜かれると、思わずどんな秘め事でも口にしたくなる。しかし、いざ自らの心を(さら)って過去を反芻してみると、途端に気分も口も重くなった。アルベリクは出かかった言葉を飲み込み、押し黙る。


 やがて彼は、唸るような低い声を喉から絞り出した。


「先に、君の話をしてくれるならな」


 今度は、ナタリーが押し黙る番だった。昼間の一件を見る限り、彼女の歩んできた道も平坦ではなく、かつ、アルベリク同様、決して誇れるような内容ではなさそうだった。


 我が意を得たりとばかりに、アルベリクは大きく頷く。


「そうなるだろう。自分の碌でもない過去など、誰だって好き好んで話したいなどとは思わない」


 ナタリーは長いこと押し黙っていたが、やがて意を決したように顔を上げ、再びアルベリクに顔を向けた。


「いえ……お話しましょう。……何を聞きたいのですか」

「生まれてからこのかた、君は何を見て、何を知り、何に感動したのか。今まで何を思い、何を望み、何を諦め、そして今、何に苦しんでいるのか」


 かつて、ナタリーがアルベリクに向けて放った言葉を、アルベリクはそっくりそのまま相手に返していた。これを受けたナタリーは、面食らったように眼を丸くして、アルベリクの顔をまじまじと見た。


「知りたいのですか? そんなことを?」

「ああ」

「どうして?」


 囁くような掠れ声で、ナタリーが問う。その過度に甘い響きは、無意識の所作か、それとも意図して出したものか。アルベリクにはわからなかった。


 知れば知るほど、彼女は新たな一面を見せる。その底知れなさが、男を、アルベリクを惹きつける。


 だが、そんな心の裡を正直に打ち明ければ、弱みを握られるようにアルベリクには思えた。


「…………さあな。人のことを知りたいと思うのに、理由が要るのか?」


 ぶっきらぼうに、アルベリクはそう答えた。


 ナタリーはしばらくのこと思案にくれていたが、やがて自らの中で何事かを納得させたのか、ゆっくりと大きく頷いた。


「……良いですよ。語り合いましょう。私のことと、貴方のことを。これから、毎夜、ひとつずつ」


 その声の音色は、まるで子守唄のように、アルベリクの心に優しく染み込んでいった。

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