第十一章(3) マルブールの宝石商組合2
横柄なものだな、まったく、と、テオドールが誰に言うでもなく呟く。それから彼はナタリーに眼を戻し、彼女に向かって微笑みかけた。その態度は、アルベリクに対するそれとは雲泥の差だった。
「信頼されとるんだね。やつが自分以外の人間の眼を信じるなど、珍しいことなんだよ」
「そうなのですね」
ナタリーは曖昧に笑いつつ、手提げ鞄から自前のルーペとピンセットを取り出した。そして、早速手元の盆の上に乱雑に転がる石を、一つずつ拾っては並べ、見定め始めた。
テオドールがナタリーの仕事ぶりを見るのは、実のところこれが初めてだった。しかし彼は、その僅かな所作だけで、ナタリーが一人前の技師であることを見抜いたようだった。
彼はカウンターの向こうで身を乗り出すと、ナタリーだけに聞こえる声で、こう囁いた。
「さっきはすまんね。しかし、からかったつもりはないんだよ。本当に、お前さんたちはお似合いだと思っとる」
ナタリーは、ただ一心不乱に石たちと向き合っており、彼の声が聞こえていないようだった。あるいは、聞こえないふりをしているのかもしれない。ルーペを覗き込みうつむく彼女の表情を、テオドールがうかがい知ることはできなかった。
相手が返事をせずとも構わず、テオドールは話し続ける。
「あんたはどうなんだい、ルルーさん。やつのこと、どう思っているのかね」
「あの方は、私にとって、とても大切な方です。あのような口の悪い方ですが、それでも私はあの方のことを尊敬しています」
ナタリーは顔を上げずに、そう答えた。
「尊敬、か……。恋愛感情はないのかね?」
「恋愛感情なんて……。あの方には許嫁がいらっしゃるのですよ?」
「ほう、それは初耳だ。だが、そんなことは、あんたの気持ちとは関係ないだろう?」
「なぜ、そんなことに、そこまで拘るのですか?」
「あれは寂しい男だ。あんたみたいな女性に支えてもらえりゃ、すこしはマシになるってもんだよ」
ルーペの向こうで、ナタリーが失笑する。その笑い声は明るく愉快げだった。
「アルベリクさんなら、余計なお世話だとおっしゃるでしょうね」
「だろうね。よく分かってるじゃないか。──それで、あんたはどうなんだい」
あくまで食い下がるテオドール。その表情は真剣だった。
ナタリーの手が止まる。諦めたように顔を上げると、テオドールを真っ直ぐに見据えた。
「恋というのは、私にとって、穢らわしく呪われた感情です。願わくは、私の中から消えてなくなってくれればと思っています」
断固とした物言いだった。明らかに、それ以上の質問を拒んでいる様子である。
彼女はそれきり、テオドールの眼を見ようともせず、再び手元の盆に視線を落とした。
踏み込むべきでない彼女の深奥に、踏み込みすぎたのだ。テオドールは自らの失策に気づき、額に汗して弁明をし始めた。
「いや、悪かったね。変なことを聞いちまって……」
「私こそ、期待に応えられず、ごめんなさい。でも、恋の一つもできるような女なら、今頃この街で、平凡で幸せな家庭を築いているはずです。それができないのは、それなりの理由があるのです」
感情を押し殺した低い声が、ルーペの向こうから聞こえてくる。すぐ近くに居るはずの彼女が、テオドールにはひどく遠くにいるように感じられた。
「……この後、予定はあるのかね?」
「市場を回って、良い出物がないか探すつもりです」
「……山は、午後から天気が荒れそうだ。今日はもう、あの山小屋にも戻らん方が良いだろう。時間を気にせず、買い物を楽しみなさい」
「ええ、そうします」
そっけない返事である。テオドールはどうにかして彼女の機嫌をとろうと、頭の中で様々な話題を模索しだした。
だが、老いた頭ではろくな考えも浮かばず、取ってつけたような結句を紡ぎ出すことしかできなかった。
「君は良い子だよ。それに、聡い子だ。君なら、自分の心の中にあるものが何なのか、見極められるだろうさ」
ナタリーは答えなかった。テオドールはそれ以上何か言うのを諦め、後はひたすら、彼女の仕事が終わるのを待った。
彼女の長い睫毛をしげしげ眺めながら、テオドールはふと思う。
──確かに、美しい。
この娘が、あの危なっかしい男を支えてくれるなら──。テオドールは老婆心ながら、そう願わずにはいられなかった。
◇
全ての宝石を検めたナタリーは、アルベリクの方を振り返った。するとすぐに、彼はそれに気づき、カウンターの方に歩み寄ってきた。
整頓された盆の上を一瞥してから、アルベリクはナタリーに向かって尋ねた。
「どうだ、使えそうなものはあったか?」
問われてナタリーは、眼窩からルーペを外す。アルベリクを見上げるその顔には、晴れやかな笑顔が広がっていた。
「ええ。ここにある物、全部頂こうと思います」
アルベリクは絶句し、カウンターの向こうのテオドールも同様に目を丸くする。
「全部だと? おい、ちょっと待……」
アルベリクは身を乗り出し、盆の上の石に目を凝らそうとした。
すると、アルベリクの見ている前でその盆が、さっとカウンターの向こう側に引っ込んでしまった。テオドールの仕業だった。
「ありがとうよ。今包むから待っておいで」
心変わりを恐れるように、テオドールは盆を持ってそそくさと立ち上がる。その背中に向かって、アルベリクが怒鳴りつけた。
「待てと言っている! ──いいか、ナタリー。こいうものは、敢えて玉石混交にして、バイヤーに屑石を掴ませるのが定石なんだ。選りすぐりの品だけを買うのが筋だ。百歩譲って一括でしか買えないというなら、それなりに値引き交渉せねば」
「大丈夫ですよ。テオドールさんは、私相手にそんなことはしません。一通り見てみましたが、間違ったものはありませんでした」
それからナタリーはアルベリクの眼を見てにっこりと笑い、こう付け加えた。
「アルベリクさんは、もう少し人を信じる心を持った方が良いと思いますよ」
「ハハ、言われちまったな、アル」
商品を包装しながら、テオドールが笑う。示し合わせたような二人の態度に、アルベリクは憮然としてそっぽを向いてしまった。
金を払うのはアルベリクの仕事だった。支払いを済ませ商品を受け取るや、彼は別れの挨拶もそこそこに立ち去ってしまった。
慌ててアルベリクを追おうとするナタリーの背中に、テオドールが声を掛けた。
「ああ、ナタリーさん」
テオドールは頭を掻きつつ、言いづらそうに口ごもる。
「……アルのこと、よろしく頼むよ」
初老の男から上目遣いでそう頼まれては、ナタリーとしても無碍に断ることなどできなかった。彼女は苦笑しつつ、こう答えるにとどめた。
「……善処します」
「おい、いつまで話している? 用は済んだんだ、とっとと出るぞ。こんなところに長居していては感性が腐る!」
組合の従業員や顧客やらが居る中での、その物言いである。ナタリーの全身に、冷や汗が吹き出した。
「はい、今行きますよ」
周囲からの冷たい視線を肌に感じつつ、ナタリーはそそくさとその場を立ち去った。
帰りしな、ナタリーは一度振り返り、テオドールに向かってもう一度お辞儀をする。そうしてから、彼女は玄関の扉を僅かに開いてすり抜けていった。
嵐の去った静けさの中で、テオドールはやれやれといった風情で大きなため息をついたのだった。