第十章(4) 山小屋2
アルベリクは大仰にため息をつくと、椅子の背もたれにその身を預けた。
彼には、自らの過去を語るつもりなど、つゆほどもなかった。積極的に語りたいと思えるような記憶が、何一つとしてなかったからだ。
時間をかけて辛抱強く説得を重ね、彼女をその気にさせるしかない。──幸いにして、クラヴィエール公の案件によって、時間と機会は最大限に用意されている。
彼はがばりと身を起こし、向かいに座るナタリーを見やる。彼女はその澄んだ碧色の眼で、まっすぐにアルベリクを見据え、答えを待っていた。
アルベリクはその瞳から眼を逸らすことなく、不敵に笑った。
「仕事という絆か……。なるほど、丁度よい。うってつけの仕事を持ってきたところだ。きっと君も気に入ることだろう」
彼は手袋をはめると、傍らの鞄から宝石ケースを取り出した。そして、ケースからひとつの裸石を拾い上げ、それをナタリーの手元に差し出した。
「次の仕事には、この石を使ってもらう」
ナタリーはその石を前にして、眼を大きく見開いた。
「すごい……! こんなに大きな裸石は、初めて見ました……!」
「見るべきところは大きさだけではないぞ。もっとよく見てみたまえ」
早速、ナタリーはつなぎのポケットからルーペを取り出し、仔細に観察し始める。
「……不思議な石ですね。蒼玉石……ではないようですが……。この辺りでは、見ないものです」
「当然だ。最近発見された新種の石だからな。成分を分析するに金緑石の一種だが、面白い特質を持っている」
「面白い特質、ですか?」
「窓の鎧戸を閉めて、ランプの光にかざして見てみろ」
ナタリーは言われるがままにランプを点け、全ての窓の鎧戸を閉めた。途端に、小屋の中は闇に支配され、ランプの薄い明かりばかりが、部屋の中をおぼろげに照らし出した。
机に戻ってきたナタリーが、石をランプの灯火に近づけ、ルーペの奥を覗き込む。するとたちまち、彼女の瞼が驚きに大きく見開かれた。
魔法のような色彩の変遷だった。その魔法の如き変化を、彼女は息も忘れて見つめていた。
「……これは……かなり強い変色性がありますね……。なんて、美しいの……」
碧色の瞳の中に宝石の紅色が差し込み、妖しい色を成して揺らめく。
期待通りの反応に、アルベリクは鼻を膨らます。
「唯一無二の品という意味では、これこそ相応しかろうな。この世にまたとない、最高の輝きをもたらすこと。それが、君の使命だ」
相手のやる気を煽る殺し文句を口にして、アルベリクは満悦の笑みを見せた。だが、彼の無意識の期待に反して、ナタリーの表情はさほど芳しくなかった。
彼女は眉間に皺を寄せつつ、しばらくの間手元の宝石を矯めつ眇めつ眺めていたが、やがて彼女はその重い口を開いた。
「……あの、とても言いにくいことなのですが……」
ナタリーが口ごもる。それを見て、アルベリクは怪訝そうに眉根を寄せた。
「なんだ?」
「なんだか、その子からは不吉な気配がします。あまりの美しさゆえに、人の心をいたずらにかき乱す……魔性の匂いがするのです」
ナタリーは不安げな視線を巨大な裸石に送る。アルベリクの表情がにわかに曇った。
「それは、君の勘かね」
「はい……」
弱々しい返事とともに、ナタリーが頷く。
アルベリクとしては、文句の一つでも吐き散らしてやりたいところだったが、どうにかそれをこらえた。
彼は窮したように唸り、悩ましげに頭を掻いてみせた。
「ううむ……。しかし、この石の扱いについては、店の方針が割れていてな……。君の作品に使われなければ、裸石のまま皇室に献上することになる。いずれにせよ、この石を世に出さないわけにはいかないだろう」
無論、これは方便である。アルベリクには、この石を皇室に献上するつもりなど毛頭なかった。
ナタリーは、自らが魔性と呼んだ石を見つめながら、長いこと思案に暮れていた。が、やがて諦めたように一つため息をつき、僅かに迷いを帯びた表情のまま、アルベリクに視線を投じた。
「……わかりました。ではせめて、私の手で、この子を魅力的にお化粧してあげましょう」
その言葉を聞くや、アルベリクの肩と目尻が、安堵で垂れ下がった。
「すまないな。難しい仕事だろうが、よろしく頼む。石の詳細な解析結果は、後日こちらに届くはずだ。それを元に、必要なら望むように手を加えてくれて構わない」
「わかりました」
存外すんなりと合意に至ることができ、アルベリクは胸を撫で下ろした。もう少しごねられて、交渉が難航するものと思っていたのだ。
これで、今日予定していた一通りの交渉は済んだ。アルベリクは居住まいを正し、改めてナタリーの眼を正面から真っ直ぐに見据えた。
「今回の案件は、社運を賭けたものになるだろう。俺もできる限りこのマルブールに逗留し、君の支援をするつもりだ。少なくともデザインが確定するまでは、ここに居る。君の身の回りの世話などは、俺が引き受けよう」
これを聞くや、ナタリーの瞳がにわかに輝いた。
「また、あの美味しいスープを作っていただけますか?」
「ハハ、気に入ったのか? あの程度のものなら、いくらでも作ってやろう」
ナタリーの素朴な物言いに、アルベリクの頬が知らずほころんだ。胃袋を掴んで技師のやる気を出せるなら、これほど楽なことはない。
「でも、大丈夫なのですか? 貴方のような立場の方が、皇都のお店を空けてしまって」
ナタリーの不安げな問いに、アルベリクは鷹揚に頷く。
「皇都での仕事は、信頼できる部下に任せるから心配はない。くどいようだが、今回の案件は、とりわけ大事な仕事でな。君との連携を密にすべきと判断した」
ナタリーはこの答えに納得した様子で、鹿爪らしい顔で頷く。
と、彼女はふいに、ぱっと両の手を合わせ、顔を輝かせた。
「そう、それでしたら、こちらにいらっしゃる間は、この山小屋に泊まってください。毎日マルブールから通うなんて、大変でしょう?」
妙案を思いついたとでも言いたげな顔つきだった。
ナタリーのような若い女性からこのような申し出を受ければ、大抵の男は二つ返事で了承することだろう。だが、アルベリクは難しい顔をして低く唸り出した。
彼の脳裏には、以前ここに泊まった際の、あの吹雪の日のことが思い返されていた。
「ある程度距離をおいた方が、人間関係は上手くいくということもあるが……」
アルベリクの独語を遮るように、ナタリーは身を乗り出した。
「きっと、大丈夫です。以前に比べれば、お互いのことを少しは理解できているはずです。それに、口論になるのは、真剣に仕事をしている証拠でしょう」
「なるほど、ものは言いようだな」
アルベリクはそう言って苦笑する。
しばらくの思案の後、アルベリクは誰に言うともなく呟いた。
「まあ、悪い考えではないか。──ホテル代も浮くし、君と親しくなれば、二つめの指輪を作ってもらえるかもしれんしな」
「ええ、ぜひ、そうしてください」
アルベリクが答えるや、ナタリーは胸の前で手を合わせ、破顔した。晴れた日の雪より輝かしい笑顔だった。
この日より、アルベリクとナタリーによる、二人三脚の製作が始まった。






