第十章(3) 山小屋1
アルバールの冬は長い。山腹を深く覆う雪は、いまだ融ける気配を見せないでいる。だが、雪の下では確かに、新しい季節の萌芽が生じつつあった。
ナタリーの住む山小屋の中でも、同様のことが起こっていた。窓の外から差す光も、ストーブの中で爆ぜる薪も、一瞥しただけでは何の変化もないように見えた。だが、その裏では確かに、新しい日々への内的な移行が、静かに進んでいたのである。
アルベリクは、胸に期するものを抱いて、この山腹の小屋に足を踏み入れていた。
歓迎するナタリーとの挨拶もそこそこに、アルベリクは早速切り出した。
「これを譲ってもらったことを、嬉しく思う。これは、本当に良い品だ」
アルベリクはおもむろに懐から化粧箱を取り出し、その蓋を開いた。
箱の中に収められていたのは、件の茨の指輪だった。最近では肌見放さず持ち歩いている。いつでも鑑賞できるようにするためだった。
ナタリーはにっこりと微笑んで、彼の言葉に応じてみせた。
「お気に召されたようで、なによりです」
「掛け値なしに、そう言っているんだぞ。この俺の、本心からだ。わかっているか?」
「ええ、もちろん、わかっています。とても、とても、嬉しいですよ。創った甲斐がありました」
彼女の満面に広がった笑顔は、優しく、情に溢れていた。柔らかく豊かな声からは、彼女の内にある限りない慈愛を、容易に汲み取ることができた。
アルベリクのみぞおちの奥に、じんわりと熱い感覚が広がってゆく。彼女をその腕の中に抱きしめたいという衝動が、不意に意識を占め始める。
皇后と同じく、彼女にも人たらしの才覚があるようだ。ただし、その性質はどちらかといえば、異性に対して特段効果のありそうな類のものだが。
暴力的な欲求をどうにか押さえつけ、アルベリクは己に対する照れ隠しとばかりに、咳払いをひとつ放った。
それから彼は、何食わぬ顔でこう切り出した。
「三個、指輪を作ってくれると言ったな。その……二個目は、ちゃんと、この指に嵌められるものなのか?」
「はい。貴方が望むのなら」
真摯な表情で、ナタリーは頷く。
「そうか……では、急かすようで悪いが、二個目を作り始めてくれないか。金はいくらでも出す」
金、という言葉がアルベリクの口から溢れた途端、ナタリーの顔に苦笑が浮かび上がった。流石の彼女も、金ずくで物事を解決しようとするこの男の性質を、心得つつあるらしい。
我が子を諭すような口ぶりで、彼女は答えた。
「指輪のお代は、お金では務まりませんよ」
「なに?」
「貴方にお譲りする三つの指輪の中でも、二つ目の指輪は特に、本当に特別なものなのです。それこそ、世界で一つだけの……。決して、金銭で値を付けられるようなものではありません」
持って回った言い方に、アルベリクは焦れて身を揺する。
「では、対価はなんだ。何がほしい?」
「貴方の人生を、いただけますか」
突拍子のない答えに、アルベリクは思わず喉をつまらせ、閉口してしまった。想像だにしていなかった言葉だった。
彼が言葉の意味を計りかねてまごつく様を、ナタリーはしばらくの間、楽しそうに目を細めて眺めていた。その言葉に含まれる意味を全て理解しながら、彼女が敢えて意地悪をしているのは明白だった。
しかしふいに、その頬から笑顔が引いた。彼女は居住まいを正し、アルベリクをまっすぐに見据え、至極真面目な顔つきでもって語りだした。
「貴方のこれまでの人生を、洗いざらい私に教えてください。それが、お代です。生まれてからこれまで、貴方は何を見て、何を知り、何に感動しましたか? 今まで何を思い、何を望み、何を諦め、そして今、何に苦しんでいるのでしょうか。誰よりも深く貴方を知ることが出来たなら──それこそ、貴方の親よりも、貴方の友よりも、貴方の恋人よりも、貴方の妻よりも、誰よりも深く貴方のことを知れたなら、その時点で、二個目の制作にとりかかります」
彼女の長口上を、アルベリクは呆然とした表情のまま聞くともなしに聞いていた。やがて我に返った彼は、ナタリーの言葉を胸の中で冷静に咀嚼し、そして一笑に付した。
「……馬鹿げている。そんなことが、できるはずなかろう」
「そうでしょうか? 幸い、私たちの間には、仕事という絆があります。それはときに、肉親よりも濃い理解と、深い信頼を醸成するものです」
そう言ったあと、ナタリーは目を細め、悪戯っぽい笑みを見せた。
「ねえ、烏さん。お金で何もかも手に入ると思ったら、大間違いですよ。自分自身の魂を購うには、世界中の富をかき集めたって足りないのです」
アルベリクは、その言に思わず顔をしかめる。
「君は、見た目と違って、随分と底意地の悪い女だな」
「私のことを理解していただけたようで、嬉しいです」
いけしゃあしゃあと言ってのけ、ナタリーはにっこりと笑った。






