第十章(2) ブランシャール邸・寝室
恐慌と共に、アルベリクは跳ね起きた。
心臓は、全力で走った後のように、音を立てて脈打っている。寝間着は多量の汗を吸って、全身に冷たく張り付いている。
耳の奥には、死者たちの怨嗟の声がこだましている。低く、地の底から唸るような、そんな声だった。時が経つにつれ、その声は次第に遠のいていった。だが、一人の女の悲鳴だけは、長いことアルベリクの耳の奥に残って消えることがなかった。
遅れて、アルベリクの眼が現実を認識し始めた。
月明かりで青く染まった寝室は、硬質な静寂に満たされていた。女の悲鳴は現実の静寂によってアルベリクの内奥に押し込まれ、次第に遠のいていった。
「アルベリク。……ねえ、アルベリク、開けて」
部屋の扉の向こうから、ルイーズのくぐもった声が聞こえてくる。
扉には内側から鍵を掛けてあった。義父を除いては誰一人として、部屋の中に足を踏み入れることはできない。
鍵を掛けたのは、五月蝿い許嫁を締め出すためだった。うなされて起きる度に、彼女は部屋に入ってきて、色々と世話を焼き始める。それがアルベリクには、いい加減、煩わしくなっていたのだ。
ルイーズは扉の向こうからなおも声をかけ続けてくる。
「ねえ、貴方、本当に大丈夫なの……? お願いだから、開けて頂戴」
ひどく不安げな声だった。
アルベリクはベッドから這いずり出ると、扉の外の声を無視して、真っ直ぐに壁際の戸棚に向かっていった。
戸棚には、鍵付きの引き出しがひとつ、備えられていた。鍵束から一本を選び、鍵穴に挿し込もうとするのだが、手が震え、なかなか思うようにいかない。幾度か穴の縁を小突いた後、ようやく挿入することができた。指をひねると、弾けるような音。すかさず引き出しを開ける。中に収められていたのは、いくつかの書巻と、二つの化粧箱だった。
アルベリクは僅かな逡巡の後、化粧箱の一つを手に取り、その蓋を開けた。
天鵞絨の台座の上に、贖宥の石が、しかつめらしく鎮座していた。
──やはり、醜い。
何度見たところで、駄作であることに変わりはなかった。インクルージョンだらけの救いようのない橄欖石は、適当に研磨され濁り切っている。鋳型から吐き出されただけの金属部分は、児戯のごとく拙い。
『それは、貴方の魂です』
コンスタンの声が、アルベリクの耳の奥に響く。
アルベリクは衝動的に化粧箱の蓋を閉め、投げ棄てるように引き出しの中に放り込んだ。そして彼は、もう一つの化粧箱を手にとった。
本命は、こちらだった。
ゆっくりと、蓋を開く。すると、ナタリーから贈られた茨の指輪が、その白く繊細な姿を現した。その肢体は薄光の中にあってなお眩く、台座を僅かに動かしただけで、チラチラと鋭い光を瞬かせた。
台座を目の高さに掲げ見る。月の明かりを背にしても、細い銀糸は翳ることなく透き通っている。そして、その銀糸に抱かれた金剛石は、この世のものとは思えぬ輝きで、アルベリクの赤い瞳孔を照らすのだった。
いつの間にか、彼の手の震えは収まっていた。
激しく動揺し、脈打っていた心臓も、今では平静を取り戻しつつある。
不思議なことである──。悪夢に眠りを妨げられた時、この茨の指輪を眺めると、妙に心が落ち着くのだ。
それで、ここ最近のアルベリクは、夢魔に襲われる度に引き出しを開き、身に付けられない指輪を眺めるという行為を繰り返していた。
そう、この指輪は身につけることができない。ただ一点、そのことが、アルベリクを苦しめていた。指輪の腕の内側からささくれだった棘は、何人をも近づけることを許さず、触れるものを傷つけるのである。
アルベリクは今や指輪を直接手に取り、窓の光に向かって掲げ見ていた。その彼の左手の小指が、指輪の腕に近づいてゆく。
──この指輪が、己の指の中で瞬く様を見てみたい。
それは、抗いがたい、欲望にも似た願いだった。
幾度となく試みたことだったが、その度にその試みは失敗してきた。しかし、やらずにはいられなかった。
小指の先を、極限まで指輪の肌に近づける。光り輝く棘の隙間を、爪の先が掠めてゆく。
瞬間、アルベリクの指に鋭い痛みが走った。
赤い血が、小指の腹の上で、粒の形を膨らませてゆく。
幾度もなく試みた結果、幾度となく見てきた光景だった。
『その指輪は、今の貴方です』
ナタリーの声が、耳の奥にこだまする。
「なぜだ! お前は、俺自身のはずだろう……?」
アルベリクを拒んだ指輪は、月明かりを受けて、ただ静かに光瞬くばかりだった。






