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第十章(1) 大聖堂

 ジルベールがもたらした宝石は、かつて誰一人として目にした者のない、稀代の宝石だった。それはまさに今回の案件にふさわしいものだったが、その対価として提示された金額は、それ相応に法外だった。


 ジルベールは、クラヴィエール公に無心しろと言っていたものの、果たして、かの公爵がその莫大な金銭を引き出せるものなのか、アルベリクは大いに懸念していた。


 だが、アルベリクの不安は、またも杞憂に終わった。クラヴィエール公は、五十億もの大金の支払いを、快く了承したのである。


 すると、ここでアルベリクは一つ悪辣な手段を用い、臨時収入をせしめることに成功した。


 彼は公爵に請求する費用を水増しし、差額を着服したのである。そういった不正は、皇都では珍しいことではなかったものの、彼が得た金額は、小悪党の小遣い稼ぎとは訳が違った。ここで得た金と、アルノー夫人の品評会の賞金を都合すると、その金額はしめて二億クルトにもなった。


 さて、この莫大なあぶく銭を、アルベリクはどう活用したのだろうか。


 言わずもがなである。


「一億四千万クルト。たしかに受領いたしました。──おめでとうございます。これで貴方も、晴れて神の子の仲間入りを果たしたのです」


 肉の塊が、にこやかな笑顔のようなものを見せつつ、言葉を発した。金満大司教たるコンスタンである。何を食えばこうまで身体に肉を付けられるのか、アルベリクは不思議に思いながら彼の体躯を眺めていた。


 大司教の手元には、今しがた数え終えた金貨の山がうず高く積み上げられている。


 金を払って家族になるなどという話が、どこにあるのだろう。新興の政治結社の中には互いを兄弟と呼び合うものがあるというが、それとて、金銭ではなく血のやり取りで義兄弟の契りを交わすという。


(金を払って家族になるという話が、どこにある?)


 アルベリクの心中で、この問いが幾度となくこだましていた。


 だが、彼のそんな思いなどどこ吹く風で、コンスタンの朗々たる弁舌は続く。


「では、早速お見せいたしましょう。これが貴方の魂である、『贖宥の石』でございます」


 コンスタンはそう言って、金貨の山の脇から黒い化粧箱を差し出してきた。安い造りの化粧箱だった。ブランシャールで使うものの方が、遥かに出来が良い。きしむ蝶番に内心鼻白みつつ、アルベリクは化粧箱の蓋を開けた。


 ──心のどこかで、期待していたのだ。借り物ではなく自ら(あがな)ったものならば、皇后の身につけていたものと同等とはいかないまでも、いくらかマシな輝きを見せるのではないか、と。


 しかし、蓋を開けてみれば、その期待は儚く消えて失せた。箱の中に収められていた贖宥の石は、以前アルベリクが借用したものと寸分違わぬ、鈍い輝きしか放っていなかったのだ。


 それもそのはず。コンスタンは、以前アルベリクに貸してよこした品を、そのまま箱に収めてアルベリクに売りつけたのである。粗悪な橄欖石の傷の位置から、石を留めた爪の歪みまで、完全にかつて見たそれと一致していた。腕利きの宝石商であるアルベリクが、それを識別できないわけがなかったのだ。


 アルベリクの眼から、みるみるうちに光が消えてゆく。その様子を見て、コンスタンはますます嬉しそうに目を細めた。


「醜いと思われますかな? 皆、はじめはそうおっしゃるものです。しかし、それは貴方自身の魂が汚れているが故のことです。大切なのは『見えるようになる』こと。己の魂の穢れを自覚することが、清浄な生への第一歩なのです」


 この豚には、自らの贖宥の石がどのように見えているのだろう。もしも光り輝く美しい宝飾に見えているというのなら、信仰心というのはたいそう素晴らしいものだと言わざるを得ない。少なくとも、本人は幸せになれるのだから。


 そんな皮肉めいた思考が、アルベリクの脳裏を巡る。


 ふいに、相対するコンスタンの眼に妖しげな光が宿った。彼はおもむろに身を乗り出すと、内緒話でもするかのようにアルベリクに向かって囁きかけた。


「ときに──アルベリク殿は、実に様々な評判をお持ちのようだ。私も、色々と耳にしたことがあるのですよ」

「と、おっしゃりますと?」

「毀誉褒貶とでも申しますか……。まあ、良い噂だけの人間というものはございません。貴殿にもいささか聞き苦しい評判があるようです」


 話の流れが、全く読めなかった。アルベリクは怪訝に思いつつ、憮然とした表情で大司教の言葉に応じた。


「左様でしょうな。噂どころか、面罵されることも常です。この皇都で生きる者なら、多かれ少なかれ皆そうではありませんか」

「そう、多少の罪であれば、神もお許しくださることでしょう。──子供が犯すような、小さな罪であれば、ですが」

「おっしゃりたいことが、いささかよくわかりません。はっきりおっしゃっていただいて結構ですよ」


 アルベリクは苛立ちを(あらわ)にして、ぶっきらぼうにそう申し出た。すると、大司教はますます声をひそめ、周囲を憚るようにわざとらしく目配せしながら、アルベリクに向かって囁いた。


「では、単刀直入に申し上げましょう。貴方のことを、人殺しと(そし)る者がいるのです。これは、なかなか聞き捨てならぬことです」


 アルベリクの目元が、にわかに険を帯びた


「……神に誓って、私に前科などありませんが」

「左様でしょうな。貴方は実にうまくやってのけた。自ら手を下すことなく、邪魔な人間を死に追いやることができたのですから」

「乏しい情報の中で鎌をかけていらっしゃるおつもりなら、無駄なことです。根も葉もないことですからな」


 憮然とするアルベリクを見るや、コンスタンはいやらしく片眉を上げてせせら笑った。


「左様ですかな。まあよろしいでしょう。答えは、貴方自身の心のなかにあるのですから。しかし、噂が真実であれば、その贖宥の石のみで(あがな)うことなど到底できはしないでしょう」


 コンスタンはその太く短い人差し指で床を示し、机の上をとんとんと叩いた。


「仲間殺しの罪は、親殺しに次ぐ重罪──。決して許されることではありません。本来ならば地獄の釜底にて永劫の苦しみを受け続けるべきところです。しかし──」


 大司教はそこで言葉を切り、おもむろに懐から一枚の織物を取り出した。麻糸を織った安い造りのタペストリーだった。


 彼はそれをアルベリクに向かって掲げ見せ、いかにも聖職者然とした勿体ぶった態度でもって、こう囁いた。


「この贖宥状を贖うならば、あるいは──」


 話の終わりを待たずに、アルベリクは弾けるように笑い出した。腰を折り曲げて笑いに笑い、ひとしきり笑った後、彼は目の端に滲む涙を指で拭きながら答えた。


「……失礼! まったく大司教猊下は商いがお上手でいらっしゃる」

「笑い事ではありません。貴方の罪はそれだけ重いのです」


 コンスタンはそう言って、しかつめらしく口を尖らせる。

 対するアルベリクは冷笑にも似た笑いを口元に浮かべつつ、冗談交じりにこう問うた。


「……ちなみに、その贖宥状とやらは、いかほどですか」

「五十億クルトご寄進いただければ、いつでもお譲りいたします」


 眼前に鎮座する肉塊の、下卑た笑いを見た瞬間、アルベリクの胸に、一つの強い信念が宿った。


 死後の世界に審判があるならば、まず裁かれるべきなのはこのような男をのさばらせた神自身であるべきだ、と。この大司教はそのすぐ後に裁かれ、自分が裁かれるのはその後であるべきであろう、と。


 アルベリクは夢想した。審判の庭もろとも、神も人もまとめて地獄に堕してゆく、その(さま)を。自らこそは絶対安寧と信じ切っていた至高神が、慌てふためきながら失墜してゆく様は、さぞや痛快なことだろう。何もかもが終わった後、天は人も神もなく、空疎が故に清浄となるのだ。


 捨て鉢な気分が、アルベリクの心中に含浸しつつあった。到底幸福な気分では居られそうもない。彼は椅子を蹴って立ち上がり、暇も告げずに部屋を出てゆこうとした。


 その背中に、大司教が声をかける。


「お待ちなさい。貴方の魂をお忘れですよ」


 彼の指が指し示すのは、他でもない、机の上の『贖宥の石』である。


 僅かに離れて眺めると、それはますますみすぼらしく見えた。いっそこの場で床に叩きつけて粉砕してやれば、憂さ晴らしになるのではないかと思えるほどに。


 むろん、そのような真似を、アルベリクにできはしなかった。なにしろ、二億クルトもの大金を注ぎ込んだ高級品なのである。


 アルベリクは苛立たしげに踵を返すと、塵のような己の魂を手に掴み、部屋を後にした。

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