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第九章(4) 貧民街の酒場2

 ジルベールは、ふと窓の外に目を向け、照りつく日差しに目を細めた。


「俺は今でこそ、見ての通りの馬の骨だ。上の奴らから言われるままに仕事をするだけの、な。だが、いつまでもこのままではいられねえ。いつか、俺もこんな、俺だけの宝を──レガリアを、手に入れてみせる」


 ジルベールの手が、『泥濘の蓮』を収めた懐を、上着の上から強く掴む。その眼には、強い野心の光が閃いていた。


「皇都に生きる男なら、誰もがそいつを願っている」


 アルベリクはそう言って、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。


 ジルベールは軽く驚いたように目を見開き、しばしの間アルベリクの顔をまじまじと見ていた。やがて彼は、指で鼻の下をこすりつつ、はにかむように笑った。


「……妙に、気が合うじゃねえか。あんたとなら、酒でも飲んで楽しく話せそうだぜ」

「飲むかね? お誂え向きに酒場だ」

「そうしたいのは山々だが、まだ仕事が終わってねえ」


 と、二人の傍らに立っていた問屋が、忘れられては困るとばかりに咳払いしてみせた。

 ジルベールは面倒くさそうに問屋の男に向き直ると、小さな皮袋をその胸元に突きつけた。


「ご苦労だったな。こいつが約束の金だ」

「へへへ……今後ともぜひご贔屓に……」


 問屋はおもねりの笑みを浮かべて去っていった。


 ジルベールの関心はすでに、本題である交渉に移っていた。彼は鞄の中に手を差し入れつつ語り始めた。


「宝石の価値を決めるのは稀少性だ。今はどこぞの莫迦が生産調整をしているために、金剛石が希少石として持て囃されているが、あんなものは本来希石などと呼ばれる類のものじゃねえ。本当の希石というのは──」


 ジルベールの白磁のような白い手が、机の上にこぶし大の革袋を載せる。


「本当の希石とは、いまだかつて、誰も見たことのない石のことを言う。そうは思わねえか、ブランシャール」


 空色の目が不敵に輝き、アルベリクを鋭く見据える。

 アルベリクの指が素早く革袋の紐を解き、その中身を取り出す。


 革袋の中に入っていたのは、一個の研磨済みの裸石だった。とびきりの大粒で、豊かな海のような青緑色をしており、机の木目が透けて見えるほど透明だった。カットも素晴らしく、指で(つま)んだ瞬間、パビリオンの奥が激しく瞬いてアルベリクの瞳を刺すのだった。


「蒼玉……? いや、これは……」


 窓の光に透かしながら、訝しげに矯めつ眇めつしていると、やおらジルベールが立ち上がり、鎧戸を内側から閉めてしまった。


「何をする」


 アルベリクが不満を(あらわ)にして眦を釣り上げる。しかし、ジルベールはまったく動じるふうもなく、悠々と隣の机から燭台を拝借してきて、蝋燭に火を入れた。


「今度は、この蝋燭の灯にかざして見てみろ」


 アルベリクは渋面を作りつつ、言われたとおりにしてみた。その瞬間、彼は思わず目を疑った。海のように深い青緑色だった宝石は、今や柘榴の実のごとき赤色を呈していたのだ。


「変色性か」

「ああ、それも、かなり強い。俺も色々珍しい石を見てきたが、こういう石は初めて見た。しかも、粒は重く、インクルージョンも少ない良個体ときている。カットだって一級品だぜ」

「どこでこれを手に入れた?」


「こいつは元々、ピエールの鉱山で偶然発見されたものだ。やつの主幹顧問である俺が、その取り扱いを委託されたというわけさ。だから、ほら、この通り、鑑別書だってあるぜ」


 ジルベールはそう言って、アルベリクの鼻先に一枚の書類を突きつける。厚めの上質紙の上には、原石の発見日から、宝石のサイズ、透明度等が記され、紙の端には各種宝石商組合の割印が並んでいる。一顧する限り、正当な鑑別書のように見受けられた。


 しかし、アルベリクの表情は冴えなかった。ジルベールが、その表情を見咎めて唸る。


「なんだよ、そのツラは」

「ブツは確かだ。しかし、それだけですべてを呑み込むわけにはいかんのだよ」

「ブツがあって、鑑別書もあって、後ろ盾まである。他に何が要るってんだ?」

「この石が、本当にカミユ伯爵のものであるという証がほしいところだ」

「まさか、盗品だとでも言いたいんじゃねえだろうな」


 ジルベールは咎めるような目つきでアルベリクを睨むと、彼の手から宝石を奪い取った。


 つい先日も、盗品を掴まされかけたばかりなのだ。アルベリクが疑うのも無理からぬ事だった。


 しかし、ジルベールは鼻で笑って、その疑念を一蹴した。


「これほどの品が盗まれたとなれば、半島中にその噂が知れ渡るはずだ。地獄耳で知られるあんたが、その噂を耳にしないはずがねえ。どうだ? そんな噂を耳にしたことが、あったのか?」


 答えることができず、アルベリクは喉の奥で唸るばかりだった。それを見て、ジルベールはせせら笑う。


「ありゃしねえよなあ。なぜならこいつは──」言って、彼はアルベリクの眼前に名もなき裸石を掲げてみせた。「正真正銘、正規のルートでピエールの手に渡ったものだからだ。鉱山からピエールの会社に引き渡された時の納品書を後日郵送してやる。それで満足か?」


 その納品書が偽造されたものであれば、意味はない。結局の所、疑いだせばきりがない。


 文書偽造は、アルベリク自身がよく使う手段だった。ばれないように他人を騙し、陥れ、自らの有利になるよう仕向けるのが、彼の仕事のやり方なのである。そして、かようなあくどい手段を度々とってきたからこそ、他人も同じ手を使ってくるに違いないと考える。悪党の思考回路というのは、往々にしてそんなものである。


 アルベリクは疑り深い老人のような目で相手を見つつ、油断なく質問を続けた。


「ジルベールとか言ったな。あんたは何者だ」

「言っただろ。ピエール・ド・カミユの顧問……」

「悪いがあんたの経歴は既に調べてある。カミユ伯爵の顧問に、あんたの名前が連ねられたのは、つい一昨年のことだ。そして、それ以前の経歴はどこにも見当たらん」


「なんてこたない、あんたと同業だよ。つい最近まで行商をやっていたから、皇都に記録がないんだろうさ。──ま、とはいえ、信用できないのも無理はねえ。気になるのなら、遠慮なくピエールに照会してくれ。なんなら、直接引き合わせたって良い」


「俺はカミユ伯爵の顔を知らん。俺のルートを使って照会させてもらう」

「好きにしてくれ。あらぬ疑いをかけられるのは俺としても本意じゃねえからな」


 うんざりしたように、大仰に手を振るジルベール。

 矢継ぎ早に、アルベリクは質問を浴びせかける。


「なぜ俺を取引相手に指名した」

「あんた、クラヴィエール公から仕事を請けたそうじゃねえか。皇都じゃあ、一番でかい仕事だ。予算もそれなりにどでかいと踏んだ」

「よく知っているな」

「商人たる者、情報が命だぜ。もっとも、この件に関しちゃ、皇都で知らねえ奴はいねえよ」

「なぜ直接クラヴィエール公と取引しない?」

「それを言わせるのか? パヴァリアに楯突いて左遷された伯爵が、同じ皇国派とはいえ一国の外務大臣と直接接触したらどうなるか考えてみろ」


 考えるまでもなかった。宗主国であるパヴァリア国王や、ベツレヘム教皇の逆鱗に触れるであろうことは、火を見るより明らかである。


 しかし、アルベリクは負けじと追撃する。


「それを言うならば、あんたとウチを介した程度では、屁の突っ張りにもならないのではないかね? この石の出どころから、カミユ伯爵とクラヴィエール公のつながりを疑われる可能性があるのでは?」


「そのあたりのごまかしは、ブランシャールの十八番だと聞いてるぜ。鑑別書の書き換えから公文書の偽造まで、手広くやってるって話じゃねえか」


「誰が言っていた? そいつを、名誉毀損で訴えてやる」

「ま、あくまで噂だ。気を悪くすんなよ」


 むっつりと不機嫌そうな表情のまま、アルベリクが唸る。


「そもそも、俺には政争の片棒を担ぐつもりはない」


 すると、ジルベールの眼に、突然鋭い光が宿った。その眼光たるや凄まじく、さしものアルベリクも気圧され、鼻白む。


 ジルベールは押しかぶせるように身を乗り出すと、アルベリクの鼻先まで顔を寄せて凄んだ。


「ぬるいこと言ってんじゃねえよ。あんたら、皇室御用達を目指しているんじゃねえのか? この程度の橋も渡れねえようじゃ、宮中では三歩も歩けやしねえよ。それにな、これ以上待っていたところで、盗品くらいしか出てこねえぜ。あんたはもう、こいつを使うしかねえんだ」


 ガロア人の商人が語り終えると、沈黙が訪れた。落伍者の集う猥雑な酒場は、昼間からなかなかに賑やかだったが、その中にあって、二人の座る一角だけは、不思議な静寂が沈殿していた。


 ジルベールの語る内容は正しい。アルベリクはこれまで、辛抱強く良い出物の情報を待ち続けていたが、入ってくるのは盗品か紛い物か、あるいは価値の低い石の情報ばかりで、彼の望むような石の情報は、ついぞ現れなかった。


 万一、目の前にある石が盗品の場合、厄介なことになる。元の所有者から権利を訴えられる可能性があるためだ。だが、少なくともこれは、盗品ではない。その点は問題にならないと見て良いだろう。


 問題なのは、この石の出どころである。しかし、鑑別書さえうまく化粧してしまえば、想定される限りのトラブルは回避できそうではあった。──このジルベールの語る内容が、正しければの話ではあるが……。


 アルベリクは周囲をはばかりつつ、声をひそめてジルベールに問うた。


「この石は、他所には見せていないんだな?」


 ジルベールは、神妙な面持ちのまま小さく頷く。


「今、この場が初お披露目だ」

「取引が成立すれば、諸々一蓮托生だぞ。バレれば、俺もあんたも、カミユ伯爵もクラヴィエール公も、全員そろって絞首台に上がることになる。梯子を外さないと約束できるか?」

「できる。あんたがこれをネタにゆすってこない限りはな」

「それは俺のセリフだ」

「なら問題ねえだろう。互いの利害を人質にとっているってんなら」

「どうかな……わからんよ」


 疑心はめぐる。このまま疑い続けたところで、交渉は永遠に終わらないだろう。


 結局のところ、大切なことはなにかといえば、目の前の男を信用できるかどうか、それにつきる。人を信用できるかどうかは、相手が正直であるかどうかによると、アルベリクは考えていた。


 そして、少なくとも目下のところ、目の前の男は嘘をついているようには見えない。


 決断のしどころだった。アルベリクは天井を仰ぎ見て、一度大きくため息をつく。


 一瞬の間の後、彼はやおら身を起こし、はっきりとした語調で短く尋ねた。


「いくら欲しい」

「リスク分を差し引いて、五十億クルト。ちと割安だが、それで譲ってやる」


 金額を聞いて、アルベリクは弾けるように笑い出した。法外も法外である。カット済み原石の卸値で、それほどの価格がついたという話は、古今東西聞いたこともなかった。


「正気か? 本当に、売る気があるのか?」

「あるね。なければ、クソ忙しい中、こんな場を用意なんかしねえよ」

「残念だな。そんな金、逆立ちしても出てこんよ」

「クラヴィエール公にお伺いを立ててみろよ。俺の見立てでは、予算は青天井だぜ」

「なぜわかる」

「状況から考えてみろ。外務大臣の奥方の装いだぜ、公にとっちゃ必要経費だ。おそらく国庫から金も出る。誰も損しねえ」


 宮中の知見に関しては、ジルベールに一日の長がある。しかも、カミユ伯爵は、左遷される前は宮中で財務担当の官吏をしていたという。ここ数ヶ月でようやく皇室内に知人を持ったアルベリクとでは、持っている情報の量も質も、全く違うはずである。


「手付金は?」

「そんなケチな真似はしねえよ。あんたはこいつを必ず買う。あんた以外に売る気もねえ。買えるやつも他にいねえ」


 彼の言う通り、アルベリクの心は既に決まっていた。だが、慎重を期するに越したことはない。


「……いずれにせよ、即答はしかねるな。クラヴィエール公にお伺いを立ててから決める。それで良いか?」

「ああ、もちろん良いぜ。方針が決まったら、ピエールに連絡してくれ。あんたのルートとやらが俺にはわからんから、一応こいつを渡しとく」


 そう言ってジルベールが鞄から取り出したのは、切り欠きのある木片と、朱肉入れだった。朱肉入れの蓋を開くと、金属箔を含んで輝く上質の朱が目に飛び込んできた。


「ピエールに直接会うなら、この割符を持っていけ。手紙を出すなら、割符をこの朱肉につけて、すべての手紙に判を押せ。それが俺と会った証になる。ピエールからの返信には、この割符の片割れで判が押されているはずだ。印影とその割符が符合すれば、あんたは正しい人間と通信していることになるってわけだ。そんときゃくれぐれも、朱の材質には気をつけろ。本物の朱砂に諸々手を加えた特別製だ。たとえ割符の印影を偽造できても、この朱はそうそう偽造できねえ」


「朱肉まで用意するとは、随分と念入りなことだな」


 なめらかな朱肉を指でなぞりながら、アルベリクは感心したように呟いた。朱にはどうやら真珠の粉末が含まれているらしく、虹色の粒が指先でチラチラと瞬いている。


「行商をやっていると、真偽のあいまいな取引が多くなるからな。これくらい慎重にやらにゃあ、やっていけねえ」

「勉強になったよ」


 ジルベールは床に落ちた紙束を一枚ずつ拾い上げると、それらを抱えて勢いよく立ち上がった。


「今日はもう帰らにゃならん。だが、あんたとはもう少し宝石の話をしてえ。──気が向いたとき、この酒場に来いよ。運が良けりゃ、また会えるだろうさ」

「約束はせんのか」

「予定は未定だ。それに俺は、己の運命という呪いを信じている」


 彼はそれだけ言い捨てると、椅子を蹴り、そのまま風のように酒場を出ていった。


 残されたアルベリクの視界には、己の手の中で先程まで輝いていた宝石の残光が、未だ赤い影を引いていた。

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