第九章(3) 貧民街の酒場1
ジルベールという男が会合場所に指定したのは、貧民街にほど近い、町外れの大衆酒場だった。周囲の治安はお世辞にも良いとは言えず、およそ貴重品の取引に向くような場所ではなかった。だが、ジルベールが宣うことには、『信頼できる店』だということで、しぶしぶアルベリクはその提案を承諾した。
アルベリクは問屋の男と連れ立って、定められた日時に酒場を訪れた。酒場の中は想像したとおりに猥雑で汚らしく、床にも壁にもなにやら粘着質の垢のようなものがこびりつき、客も店員もおしなべて柄が悪かった。そもそも、ここにいる誰も彼も、平日の昼間から悪びれもせず酒瓶を空にしている時点で、人間としての筋が知れたものだった。
問屋の男は、そんな屑共の合間を縫って、店の奥に歩を進めてゆく。
窓際の隅の席に、件の男は居座っていた。
銀糸のような髪と、碧色の瞳。そして、なめらかな白い肌。それらは、紛れもなく典型的なガロア人の特徴を示していた。
男の前には、丸型の大きなテーブルが据えられていた。そのテーブルの上には、しかし酒瓶の姿はなく、代わりに無数の書類が雑然と散らばっていた。男はそれら書類のうちの一枚に目を落とし、長いこと、じっと凝視していた。やがて彼はその文書の末尾の余白にペンを滑らせ、署名として己の名を書き記した。『ジルベール・ガロア』と。
彼はやおら目を上げ、アルベリクの姿を見るや、朗らかに破顔した。
「来たな。『マルブールの赤目烏』ってのはあんたか」
「それは蔑称だ。初対面の人間からその名で呼ばれたくはないものだな」
「こいつは失敬。しかし、まあ、伝え聞いた通りの風体と態度だ。本人と見て間違いねえんだろうが……」
「無論、本人さ。俺が保証するぜ」
自信有りげに胸を叩く問屋の男を無視し、ジルベールは懐から二つの化粧箱を取り出した。と、彼はやおらもう片方の腕を豪快に振るい、机の上の書類の山を床に叩き落とす。そして、片手に持った二つの化粧箱を、机の上にそっと並べた。
化粧箱の蓋が、ジルベールの手によってゆっくりと開かれる。
無音の音を立てて、化粧箱の中から光が弾けた。箱の中の宝石が、窓から差す陽光を照り返して瞬いたのだ。
その姿が詳らかになった瞬間、アルベリクは、思わず息を呑んだ。
「ヴァニエ……! ヴァニエか!」
天鵞絨貼りの台座の上に鎮座していたのは、蓮の花を模した黄金のブローチだった。
目を剥いて驚くアルベリクの姿を、ジルベールは愉快そうに見上げていた。
「さすがに、判るか。『泥濘の蓮』。今は亡きグリアエ王国、その名匠オーギュスト・ヴァニエが生み出した逸品だ。記録によると、これは本来一品物だ。この世に二つとない品のはずなんだ。──つまり、この二つのうち、どちらかは贋作ということになる──」
「見せてくれ」
かぶせ気味のその声には、懇願にも似た響きがあった。アルベリクはもどかしげに椅子を引き、ジルベールと向かい合いに座る。そして、自らの手で二つの化粧箱を手元に引き寄せ、真上から覆いかぶさるようにして正視した。
眼下の二つのブローチは、まるで鋳型から取り出したように瓜二つだった。しかし、鋳造ではない。折り重なる蓮の花弁を模したその立体的な造形は、人の手で矯め、繋げ、削り込まなければ到底実現できぬものだった。
花弁も葉も、その一枚一枚が優美な曲線を描き、今しも風にそよぎそうなほど生命感に溢れていた。ことに彫金が見事なもので、人の眼に触れる箇所は言うに及ばず、目立たぬ細部まで妥協なく繊細な加工が施されている。
ナタリーが心酔する、例の蓮の指輪によく似た姿をしていた。それもそのはず、件の指輪は、この『泥濘の蓮』のオマージュとして作られたものだったのである。
若き日のアルベリクが狂おしいほど恋い焦がれた、憧れの品だった。それが今、図らずも彼の前に現れ、あまつさえ触れることすら許されようとしている。その事実を前にして、アルベリクの鼓動は高鳴り、全身が慄えた。
無論、浮ついてばかりもいられなかった。迸る憧れのままにオマージュの指輪を作ったのは、十年も昔のことである。今のアルベリクは、その頃の彼ではない。
今は大事な交渉の前段であり、この『泥濘の蓮』もまた、今となっては仕事として対峙すべき相手にすぎない。
アルベリクは一度大きく深呼吸をし、昂ぶる心を落ち着かせようとした。存外それは上手くいき、再び眼下のブローチに視線を投じる頃には、彼はもういつもの冷静な宝石商に戻っていた。
「どこでこれを手に入れた?」
アルベリクはやおら目を上げて、詰問気味に問うた。
この『泥濘の蓮』というブローチは、元々はグリアエ国王に献上され、国の宝物庫に収められていたものだった。だが、ガロア皇国建国の際のどさくさで紛失したと言われている。
元来、ジルベールのごとき、どこの馬の骨とも知れぬ男が持ち出すようなものではない。よもや盗品ではないかと、アルベリクは疑っていた。
だが、ジルベールはけろりとした顔で、こともなげに答えてのけた。
「こいつはピエールの所蔵物さ。やつは皇国派の中でも極右に近いからな。グリアエ王国の復活を本気で信じていやがる。来たるべき時のためにレガリアが必要なんだとよ」
アルベリクたちの生きるガロア皇国は、事実上、神聖パヴァリア王国の傀儡国家である。この国の成り立ちには隣国パヴァリアと、ベツレヘム教会の影響が色濃い。それを快く思わぬ者は、皇国内に少なからず存在した。
ジルベールの話が本当ならば、この『泥濘の蓮』は実際のところ、亡国の兆しが明らかとなる過程で、有志の手によって持ち出されたと推察される。皇国内の状況から鑑みるに、彼の話す内容の蓋然性は決して低いものではなかった。
となれば、あまり深く問いただせば藪蛇になりかねない。未だ皇室との取引もない状態で、くだらぬ政争に巻き込まれるのは御免被りたいところだった。
「身の証だてをしたければ、この二つの真贋を見極めろと、そういうことかね」
「ま、そういうこったな」
マルブールの赤目烏と呼ばれる男ならば、ヴァニエの真贋を明らかにすることなど朝飯前だろう。ジルベールの目は、暗黙のうちにそう語っていた。
アルベリクは肩をすくめると、懐からルーペを取り出し、仕事にとりかかった。
オーギュスト・ヴァニエという作家は、『泥濘の蓮』の他にも、多くの作品を世に残している。幸運にも、アルベリクはかつて幾度か、それらの真作を眼にする機会に恵まれた。その折に、真作の持つ特徴は、しっかりと目に焼き付けてあった。また、宝飾を生業にするからには、贋作を見せつけられることも幾度となくあった。
勘所を間違えなければ、真贋の判定が不可能でないことを、アルベリクはよく知っていた。
ルーペを用い、アルベリクは二つのブローチを交互に見比べる。
十倍のルーペをもってしても、二つのブローチは一瞥、同一の品にしか見えない。
しかし、アルベリクは焦っていなかった。むしろ、ルーペを覗き込んだ彼の表情は、鼻歌でも歌い出しそうなほど穏やかだった。その彼の口から、独語のような言葉が紡ぎ出された。
「ヴァニエの作品には、一人の名もなき天才贋作師の影が常に付きまとう。その再現度は非常に高く、真贋の見極めは非常に困難だが……極稀に、その贋作師の手癖のようなものが見受けられる場合がある。二人の利き手が違うためだ。オーギュストが右利きなのに対し、贋作師は左利き──」
アルベリクはついに、真贋の差異をつきとめた。
葉の表面に付着した水滴を表現するための浮き彫り。それが決め手だった。雨粒が葉の上からいましも滑り落ちようとする様子を、その浮き彫りは小さな世界の中で見事に表現していた。
その浮き彫りが、一方のブローチではわずかに深かったのだ。角度的に、どうしても精密な彫りができなかったのだろう。しかし、その僅かな差のために、見る者は夢から覚めてしまう。これが黄金の葉などではなく、ただ金属を加工したものだと気づいてしまうのだ。
アルベリクは、全てが完璧な仕上がりであると見込んだ方を、ジルベールの手元に押しやった。鑑定前は、両方とも贋作である可能性も案じていたものだったが、その懸念は杞憂だったようだ。
案の定、アルベリクの選択を眼にした瞬間、ジルベールは軽快に指を鳴らし、白い歯を見せて笑った。
「ご明察。噂通りの目利きだな。──記念といっちゃなんだが、贋作の方は進呈するぜ」
ジルベールはそう言って、アルベリクの手元に残されたもう一方の『泥濘の蓮』を指差した。
贋作と言っても、しかしそれは、ただの贋作ではなかった。先程アルベリクが口にした天才贋作技師の作品であると見て、まず間違いない。
彼か彼女かはわからぬが、その贋作師の作った作品は、『贋作の中の真作』と呼ばれるほど、精巧無比な代物だった。その名もなき贋作師の腕を評価する声も多く、真作ほどでないにしろ、市場価値も高い。贋作であることを承知で買う好事家が、ごまんといる。
そのような品を、飴玉をくれるような気安さで譲ってくれようというのである。気前が良いにも程があるというものだった。
それだけの品を無償で手にしながらも、アルベリクは、ジルベールの懐に戻ってゆく化粧箱を、名残惜しげに見送っていた。
(まさか、本当の真作とはな。この眼で見られる日が来るとは……)
人の夢は、しばしば、思いもよらぬ形で叶えられることがある。血潮の脈打つほど強く望んでいる時ほど、その夢はひらひらと遠のいてゆくものだ。しかし、血を吐く思いで夢を諦め、時を経て、痛恨の記憶すらも忘却の彼方に押しやられた頃合いに、運命の女神はちょっとした労いのような気軽さで、しれっとその夢を叶えてしまうのだ。
その皮肉を心の中で嗤う。だが、どんな形であれ、夢は叶ったのだ。アルベリクは、しばしの間の感慨に酔いしれ、そして、しみじみと呟いた。
「──眼福だった。この仕事を続けてきて、本当に良かったよ」
するとジルベールは、再び白く整った歯を見せて笑った。
「そいつはなによりだ。俺はこの作品が滅法気に入ってる。完成された造形美もさることながら、この作品が作られた経緯もまた素晴らしい」
「家臣に国家を簒奪され、自暴自棄になっていた初代グリアエ王を諌めるために、忠臣がヴァニエに頼んで作らせたという話だな。例え泥の淀むどん底に身を落としても、王は変わらず王であれかし、と」
「おう、それだ。よく覚えているじゃねえか」
「常識だろう。宝飾を扱う者なら」
「そうか、常識か」
ジルベールはそう言って笑顔を見せる。爽やかで人懐っこい笑顔だった。
【改稿内容:2024-1-15】
・ジルベールの瞳の色が空色になっていたのを、碧色に修正しました。