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第八章(4) 聖地グリアエ・庭園2

 皇后の口にした条件は、およそ穏当なものではない。しかし、皇室を相手にする以上、それはある程度予想されたことでもあった。


 アルベリクは無意識のうちに皇后から目を逸らし、許嫁の姿を庭園の中に探した。燦然たる太陽の下で、踊るように歩むルイーズの姿を見た瞬間、彼の中の不安が口をついて出た。


「もし拒めば、我々はどうなるでしょう」

「ご安心なさい。貴方たちの命は保証しますし、宝飾店の存続も保証します。私は金輪際、ブランシャールとの関わりを断つことになるでしょう。貴方がたにとって、不利となることはなにもないはず」


 アルベリクの視線を追いつつ、皇后がつぶやく。次いで彼女は、アルベリクにだけ聞こえるような小声で、こう付け加えた。


「──しかし、できることならば、貴方には私の依頼を受けてほしいと思っています」


 皇后はあくまで下手に出ることを徹している。声音はあくまで優しげで、威圧するところは少しもない。


 しかし、状況の本質はどうだろう。


 帯刀した従者が、東屋の側に一人と、ルイーズの側に一人。護衛のように見えるが、その刃の向き先は皇后のみが知っている。


 そもそも、単に交渉するだけならば、アルベリク一人呼べば済むところを、なぜ敢えてルイーズを同席させたのか。


 アルベリクの胸の中で、皇后に対する疑念が朝霧のように湧き上がる。


(できることならば、この依頼は断りたいところではある、が……)


 アルベリクは薄い望みを抱きつつ、口を開いた。


「我がブランシャール宝飾店には、皇室御用達という悲願がございます。失礼ながら皇后陛下には……」


「貴方の憂えていることは判っているつもりです。確かに私には、宮中の方針を決める権限がありません。これが何を意味するか、貴方にはわかるでしょう。私は決して、貴方たちを独占できないのです。皇国派が貴方に仕事を頼んだとしても、私はそのことに関知も干渉もいたしません」


 ただし、と言って、皇后は言葉を続ける。


「私の依頼を請けるからには、必ず完遂していただきます。仮に皇国派が貴方を召し抱え、その時の発注の条件として、私の依頼の反古を挙げたとしましょう。その場合でも、貴方には面従腹背を決め込んでいただきたいの。たとえ秘密裏にでも、私の仕事は進めていただきたいのです」


「納品物という物証がある限り、そのような誤魔化しは難しいでしょう」


 泰皇の眼が節穴でない限り、贈られた品物を見れば、ブランシャールの品であることはすぐばれる。その瞬間、ブランシャールが約束を反古にしたことも明らかになってしまうことだろう。


 しかし、皇后は首を横に振って、アルベリクの危惧を否定した。


「貴方はご自身の力を過小評価しすぎです。彼らは今、有力な宝石商を喉から手が出るほど欲しています。貴方を敵に回したり破壊したりするよりも、味方に付けることを望むはず。人質を取られて脅迫されたのだと言い訳すれば、彼らとて納得せざるを得ないでしょう」


 アルベリクは目を眇めて、皇后を見やる。


 ルイーズがここにいるのは、やはり偶然ではなかった。皇后は決して担がれるだけの神輿ではないし、単に容姿と家柄だけで皇国に嫁いできた人形というわけでもなさそうだった。その強烈なカリスマと人たらしの才を含め、魑魅魍魎の園たる皇都において、頂点に君臨するに足る力を、彼女は確かに備えていたのだ。


 ルイーズたちの側に立つ従者が、無表情のままこちらを見ている。その右手は今や、腰に佩いた太刀の柄頭を握っていた。


 なるほど、もし生まれが違えば、この女性はひとかどの商人になっていたことだろう。


 ルイーズの幸せそうな笑顔が、アルベリクには恨めしくてならなかった。


 彼は短く嘆息した後、皇后に向き直り、問うた。


「……して、その話とは」


 このアルベリクの問いを受けるや、皇后は弾けるように立ち上がり、アルベリクに向かって深々と頭を下げた。泡を食ったのはアルベリクの方である。自らも立ち上がり、顔を上げるよう皇后に乞うた。仮にも皇国の頂点に立つお方が、臣下に頭を下げることなどあってはならない、と。


 だが、彼女はなかなか頭を上げようとしなかった。ようやく持ち上がったその顔には、悲しみの表情がありありと浮かんでいた。


 苦悶とともに、彼女は呟く。


「……あの方は今、狂気に駆られつつあります」


 それから彼女はアルベリクに、皇室の赤裸々な内情について語り始めた。その大枠については、ブランシャールの情報網の力によって、すでにアルベリクの方でも把握していたものであった。だが、皇后の口から語られた内容は現実に彼女が体験したものである分、ただの情報よりも真実味があった。


 泰皇を盟主とする皇国派は、宗主国たるパヴァリアに対して叛意を抱いている。これはもはや疑いの余地もない。だが、皇后の懸念は別のところにあった。


「人としての心が、日に日に薄れてゆくようなのです。まるで、尽きかけている蝋燭の火のように……」


 皇后が、唇を震わせてそう呟いた。


 彼女が語るところによると、ある時期を境に、泰皇は人が変わったような振る舞いを見せるようになったということだった。


「太子だった頃のあの方は、誰にでも分け隔てなく優しく、冗談がお好きで、いつも朗らかにお笑いになられていました。ですが、今は……」


「魔の類が乗り移ったとでも仰るのですか」


「……わかりません。貴方には、わかりますか? 人がなぜ、変節してゆくのか。人がなぜ、優しさを失い、冷酷になってゆくのか」


 ──お前は変わった。


 アルベリク自身、旧知の者たちから嘆きともつかぬ言葉を向けられることが多々あった。そして、彼自身、自らの性質が過去に比べて変化していることも自覚していた。だが、彼にとってその変化は生きるために身に付けた『強さ』に他ならなかった。


 泰皇の変節も、あるいはアルベリクのそれと似たようなものなのかもしれない。


 しかしながら、人にはそれぞれの事情というものがある。自らの人生という物差しだけで、一概に他人の人生を判断するわけにはいかなかった。


 皇后もどうやら、同じようなことを考えていたらしい。伏し目がちに思案めいた表情を浮かべつつ、彼女は言葉を継いだ。


「国家元首としての立場が、あの方をあるべき姿に矯めつつあるのだという向きもあります。確かに、そうかもしれません。あるいは、私にも明かせぬ差し迫った理由があって、心を鬼にせざるを得なくなっているのかもしれません。……私には何もわからないのです……」


 誰よりも近くに居る人間にもわからなければ、誰にもわからないだろう。そう心の内でぼやきつつも、アルベリクはあくまで気遣わしげな表情を崩さなかった。


「本国のお目付け役は、なんとおっしゃられているのですか?」

「叔父は──内大臣は杞憂と申していました。それこそ、立場が人を創るものだと……」


 アルベリクも内大臣とやらと同意見だった。男という生き物は、立場に生かされ、育てられるものだ。


 しかし、皇后はその意見に納得していないようだった。テーブルの上に置かれた彼女の手が、強く握り締められる。


「ですが、私は、即位される前のあの方のほうが、好きでした」


 彼女は目を上げ、アルベリクをまっすぐに見据えた。すがるような、あるいは祈るような、そんな切なげな表情で、彼女はアルベリクに訴えかけた。


「私は、あの方にもう一度、微笑みかけていただきたいだけなのです……」


 彼女の依頼は、決して政治的なものではなかった。ただ一人の人として、女性として、妻として、愛する者から愛されている証拠を得たいという、至極普遍的な希求に過ぎなかったのだ。──彼女が大女優並の演技をしていない限りにおいてだが。


 自分の国の元首を変節させるための仕事というわけである。もし失敗に終われば、最悪の場合、責められるのは皇后ではなくブランシャールとなることだろう。アルノー夫人の仕事以上の難題である。だが、もはや後には退()けなかった。


 アルベリクはその日、皇后との間で秘密裏の契約を締結した。


 そして、まるでこれらのやり取りを間近で見ていたかのようなタイミングで、一通の手紙がブランシャールにもたらされた。


 差出人は、皇国の外務大臣を務めるクラヴィエール公爵だった。封蝋の印璽は大臣としてのものではなく、クラヴィエール家の紋章であるため、どうやら個人としての手紙らしい。


 内容は、公爵の妻への贈答品を用意してほしいという、特筆すべきところのない仕事の依頼だった。所望するのは外交の同伴時に着用できるようなフォーマルなブローチである。その用途故、国樹の楓や国鳥の鶫をモチーフにすることが必須の条件とされている。しかし、公爵はこれに加えて、いまだかつて誰も見たことの無いような独創性や、所有欲を掻き立てるようなデザイン性を求めていた。


 クラヴィエール家はブランシャールの顧客名簿の中にはないが、おそらくはアルノー夫人の品評会での噂を聞きつけて、依頼してきたものと思われた。


 この差し込みの依頼に、ブランシャールはにわかに活気づいた。国政を担う貴族の顧客は紛れもなく上客であるし、なによりこのクラヴィエール家は『皇国派』の一員なのである。この依頼で成功を収めた暁には、悲願たる皇室御用達へ向けて、大きく前進することになるであろう。


 ブランシャールは当然、二つ返事でこの依頼を受け入れた。そうなると必然的に、皇后の依頼は列後することになる。アルベリクは早速、皇后にその旨を手紙で伝えた。皇后は了承の返信を送ってよこしたが、どれほど時間がかかっても必ず依頼を完遂してほしいと釘を差すことも忘れなかった。


 かくして、店をあげての一大プロジェクトが、水面下で大きなうねりを伴って動き出した。


 しかし、このたった一つの依頼が、後に半島全土を揺るがす騒動に発展することを、この時はまだ、誰一人として想像できていなかった。

【改稿内容:2023-11-30】

クラヴィエール公への納品物の種類が間違っていたため修正いたしました。(誤:ネックレス 正:ブローチ)

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