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第八章(3) 聖地グリアエ・庭園1

 広大な聖地グリアエの奥深くに馬車を進めてゆくと、そこに楽園が広がっていた。


 透き通った水を湛える湖を中央に配し、その周りを青々とした芝生が取り囲んでいる。湖の向こうには後宮の威容がそびえ、その手前に、美しい庭園が見えた。


 馬車は今まさにその庭園を目指し、湖をぐるりと巡ってゆこうとしていた。燦々たる陽光が湖面に当たると、波の端が銀色に輝いては(はじ)けてゆく。


 人の姿は見当たらない。ただひたすらに、寧静かつ神妙な空間が広がっている。皇都の真っ只中に、かような天上の如き世界が秘されているなどと、誰が想像できるだろう。


 やがて、馬車は庭園の鉄門の前にたどり着いた。アルベリクは御者に促され、馬車を降り庭園の中に歩を進める。


 庭園に植えられたものは灌木や花々はおろか、芝生の一本に至るまで、全てよく手入れされ、形を整えられていた。ほんの僅かほども、乱れたところや、逸脱したところが見当たらない。狂的なほどに、完璧な造園だった。


 冬薔薇で彩られたアーチを抜けると、不意に視界がひらけた。広々とした芝生の絨毯の向こうで、先程巡ってきた湖が、静かなさざなみを打ち寄せている。そしてその水辺には、白い東屋が一軒、寂しげに佇んでいるのが見えた。


 東屋の中には三人の女が居た。皆、女神のごとく美しい女だった。それらが、白大理石の机を挟んで座り、談笑していた。


 一人は紛れもなく、皇后マドレーヌその人だった。生誕祭の時と違い、質素な外着を纏うばかりだったが、それでも彼女の放つ輝くような気品は隠しきれない。


 もう一人は、その皇后マドレーヌの友、ベルティーユ・ド・アルノー夫人と見えた。


 最後の一人は、栗色の髪の上にベールを被った小柄な女だった。こちらに背を向けていることもあり、遠目では誰とも判然としなかった。


 語らい合う女、静謐の森、彩り豊かな花々、そして、限りなく透明な湖水……。アルベリクはしばし立ち止まり、今見ている全てを、眼に焼き付けようとしていた。それはまさに神話の世界を描いた、一幅(いっぷく)の絵画のような光景だった。


 アルベリクは三人の女たちから距離をおいて跪き、頭を垂れた。


「ご機嫌麗しくございます、陛下。アルベリク・ド・ブランシャールが参内いたしました」

「顔をお上げなさい、アルベリク・ド・ブランシャール。この庭は無礼講よ」


 アルノー夫人の声が、アルベリクに命じる。

 顔を上げ、三人を見やる。皇后は、アルベリクと目が合うや、花開くように微笑んでみせた。


「ようこそお越しくださいましたね。貴方がいらっしゃるのを、心待ちにしていたのですよ」

「望外のお言葉でございます、陛下」


 皇后の隣に座るアルノー夫人が、アルベリクに向かって破顔する。


「そんなところに立っていないで、日陰にお入りなさいな。話しづらいでしょうに」


 アルベリクは勧められるままに東屋に歩み入り、アルノー夫人に向かって頭を下げた。


「アルノー夫人もご健勝のようで、なによりです」

「ごきげんよう。その節はお世話になったわね」


 アルノー夫人と相対するのは、初対面の日以来である。その顔相は、あの日とは比べ物にならないほどふくよかで、至極穏やかに見えた。

 アルベリクが直立不動のままでいると、皇后が気遣わしげに微笑んだ。


「そう畏まらず、お座りになって。ここにいらっしゃったなら、貴方も私の友なのですよ」


 そう言って、彼女は己の向かいに空いている椅子を、その手で指し示す。

 アルベリクは物腰も柔らかに、手前に座る淑女に向かって声をかけた。


「──お隣に座ることを、お許しいただけますか」

「もちろん」


 たおやかに(うなず)く淑女に会釈して、アルベリクは椅子に腰掛けた。


「──こちらの御婦人を、ご紹介いただいても?」


 アルベリクが向かいの二人に問うや、隣の淑女が、やおら身を(よじ)って吹き出した。

 アルノー夫人が悪戯っぽく眼を細めて、隣の皇后を見やる。


「この庭園では、女は誰しも俗臭を失う──。賭けは、私の一人勝ちね」

「不思議なことね。やっぱり、そういうものなのかしらね」


 アルベリクが当惑然としていると、アルノー夫人がおもむろにベールの淑女を見やって言った。


「──そのベールを脱いで、顔を見せておあげなさい」


 言われるままに、女は己の頭からベールを取り払った。

 彼女の顔を正面から見た瞬間、アルベリクは場にそぐわぬ頓狂な声を張り上げた。


「ルイーズ! 君だったのか!」

「貴方、ひどい人ね。私のことに気づかないなんて」


 彼女は、(わず)かに片眉を釣り上げて、アルベリクを睨んでいた。

 栗色の髪と白い肌。黒曜石の如き瞳。そして、情の深そうな厚い唇。その相貌は、アルベリクの婚約者であるルイーズに相違なかった。

 アルベリクは怪訝そうに眉根を寄せつつ、許嫁に向かって問うた。


「いったい、これはどういうことだね?」

「三人で賭けをしていたの。貴方がここに来た時、すぐ私に気づくかどうか」


 そう答えた後、ルイーズは不敵な笑みを浮かべて顎をツンと上げた。


「惚れ直したかしら?」

「黙っていれば、あるいはな」


 意地の悪い答えを受けて、ルイーズは不満げに唇を尖らせる。

 アルノー夫人はそんな二人の様子を、さも愉快そうに笑いながら眺めていた。

 それから夫人はわずかに眉を寄せ、軽く咎めるような口ぶりでアルベリクにこう言い聞かせた。


「彼女はとても情に厚く、想い深い子よ。大事にしておあげなさい」

「判っておりますよ」


 冗談めかすことなく、アルベリクは答える。その様子を目の当たりにした途端、ルイーズの頬から耳までが紅色に染まった。彼女はバツが悪そうに顔をそらし、東屋の外に広がる湖を眺めるふりなどしはじめた。


 彼らの様子を微笑みと共に見守っていた皇后が、やおら両手を軽く合わせ、周囲の注意を引いた。


「──さて、今日は所用あって、この殿方をお呼びしたの。おふたりとも、悪いのだけれど……」


 皆まで言わせる前に、アルノー夫人は(うべな)い、ルイーズの方を振り仰ぐ。


「構いませんよ。ルイーズ、参りましょう」

「ええ、ベルティーユ様」


 二人の貴婦人は、連れ立って庭園の中に歩み去っていった。二人の纏った明るい色のドレスが、白抜けするほどの晴天の下で、天衣のごとく輝いて見えた。


 アルノー夫人と愉しげに談笑するルイーズ。その様子を離れ見て、アルベリクは目を細めた。


「すっかりこの場に溶け込んでおりますな」

「彼女のおかげで、ベルティーユの顔にも随分と明るさが戻ってきました。貴方がたには、感謝の念に堪えません」


 生誕祭の後、ルイーズはアルベリクに先んじてこのグリアエに招待されていた。そこで彼女は、皇后の友人であるアルノー夫人と出会ったのだ。勝ち気な性格の似た者同士である二人は、僅かの時間のうちに意気投合し、昵懇(じっこん)の仲になったという。


 アルベリクは皇后の謝辞を受けてゆっくりとかぶりを振った。


「恐れ多いことです。むしろ、感謝すべきは私の方でしょう。あれは気難しい娘だったのですが、最近はとみに女性らしい気品と落ち着きを身につけて参りました。これもひとえに、陛下やアルノー夫人のご厚情の賜物でしょう。ブランシャール家として、心からお礼申し上げます」


「それは、彼女の中に本来秘められたものだったのでしょう。彼女には、他の者にはない魂の輝きがあります。彼女は、ここに来るべくして来たのだと思うのです。すべては神の思し召しということでしょう」

「恐れ入ります」


 平身低頭するアルベリクの顔を覗き込むようにして、皇后は身を乗り出した。


「貴方も、そうなのですよ。アルベリク・ド・ブランシャール」

「この俗骨の貧相な魂など、なんのお役にも立てますまいが……」

「さて、それはどうかしら? そのことについてもぜひお話したいのだけれど、今日はどうしても別のお話をしなくてはならないの」


 相対する皇后は、その無垢な双眸で、アルベリクの緋色の瞳を覗き込んだ。心の中まで見透かしかねないその視線に堪えきれず、アルベリクは早々に口を開く。


「宝石のご入用でしょうか」


 アルベリクの問いに、皇后は素直に小さく頷いた。


「ある方のために、宝飾品を一つ、創ってほしいのです。この世で唯一つの、特別な宝石を……」

「ある方、とは?」


 皇后は、ほんの一瞬、言葉を詰まらせた。彼女は僅かな逡巡の後に、囁くような声でその者を示唆した。


「……我が夫にして偉大なる獅子神の子……」


 直接その名を示すことは、どうしても憚られるらしかった。だが、彼女の夫となれば、それは一人をおいて他にはない。


「……泰皇陛下、ですか」


 アルベリクは念を押してそう問うたが、皇后は肯定も否定もしなかった。彼女は神秘的な微笑みを湛えたまま、静かにアルベリクを見据えるばかりだった。


 やがて、彼女はおもむろに口を開いた。


「私は、この要求に応えられる業者を、ずっと探していたのです。有望そうな者を、いくつかベルティーユの品評会に送り込んで……。彼女を利用する形になってしまうのは心苦しかったけれど、結果的に彼女も私も、求めるものを得ることができました」

「一石二鳥。商人が最も好む言葉です」


 勿体付けた仕草でアルベリクが頷く。すると皇后は、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ身を乗り出し、秘め事を打ち明けるようにこう囁いた。


「私も、皇后を廃業したら商人になれるかしら」


 アルベリクもまた、彼女に倣って周囲の眼をはばかりつつ、声をひそめて答えた。


「陛下ならば大商人にもなれましょう」

「うふふ、そうでしょう」


 アルベリクの世辞に、皇后はすっかり気を良くしたらしい。彼女は屈託なく笑って、再び椅子の背もたれに身を預けた。


 人好きのする笑顔に、アルベリクはあわや、ほだされそうになる。しかし、これから待っているであろう交渉のことを考えると、無邪気に気を許すわけにはいかない。アルベリクは心の中で己の魂を叱咤していた。


 皇后はふいと顔を逸し、輝く湖面に視線を投じた。その横顔に、仄かな憂いのような色が差す。


「時々思うのです。貴族の家などに生まれず、この国に嫁ぐこともなければ、私はどのような生涯を送っていったことか、と」


 遠い目で見つめる先には、あり得たかもしれない彼女の未来が見えているのかもしれない。

 しかし、すぐに彼女はかぶりを振り、自嘲気味に笑った。


「でも、だめね。私は出会ってしまったから。あの獅子の魂を持つ者に……」


 己の言葉の重みを確かめるように、彼女は瞼を閉じて押し黙った。


 やがて彼女は改まった態度で居住まいを正し、真剣な眼でアルベリクをまっすぐに見据えた。


「ここから先の話を聞けば、貴方は、皇室の私的な部分に関わることになります。そうなれば、貴方は依頼を拒否する権利を失います。──むろん、私とて判っています。わざわざ呼びつけて、このようなことを口にするのはまさしく横暴だと。たとえ私に無限の権利があったとしても、正道を歩むなら本来避けるべき所業でしょう。したがって、貴方には当然ながら、拒む権利を用意しています」


 それは、交渉の始まりを示す合図だった。

【改稿内容:2024-1-23】


・皇后を無視してルイーズに声をかける流れが不自然だったため、ちゃんと挨拶してから話を進めるよう修正


【改稿内容:2024-2-12】


・上記修正により描写に矛盾が発生していたため微調整

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[気になる点] 皇后のいる前で第一声がルイーズ君か? は流石に態度も言葉遣いもあり得ないと思う・・・
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