第七章(4) アルノー本邸4
結果的に、品評会に参加することでアルベリクが達成できたのは、アルノー家とのコネクション獲得と、皇后陛下に対する義理立てのみであった。
むろんそれらもブランシャールにとっては悪くない成果ではある。だが、膨らみに膨らんだ皇室御用達という妄想は、あえなく潰えたわけで、その落胆は小さくなかった。
今回の仕事について、どうにもケチが付きすぎたと、アルベリクは感じていた。頼みの綱の技師は制御しきれず、情報のやりとりに幾度も齟齬が生じ、場の有力者との関係構築にも失敗した。散々である。
しかも、結果として案件に失敗したならば納得も行くが、何故か案件は見かけ上成功してしまった。これは、あまり良い兆候ではなかった。勝ちに不思議の勝ちありという格言があるが、こういう勝ちを拾うと、結果の分析が困難になる。
往々にして、こういう成功の後には手酷い失敗が待っているものだ。気を引き締めていかねばならない。そうアルベリクは心に誓った。
ふとアルベリクは顔を上げる。向こうの大広間で不機嫌そうに座っていたギヨームが、憤然と立ち上がり、大股で立ち去ってゆくのが見えた。
ネイライも、アルベリクの視線を追って同じ様子を見ていた。すると彼は、さも満足げに口元をほころばせた。
「あのギヨームがこの先どうなるかはわからんが、もう顔を合わせなくて済むのは嬉しい限りだ」
してみると、あのギヨームも自分と同じではないか。そんな考えが、アルベリクの脳裏をよぎった。
舌鋒鋭く彼の無理解を指弾したものだったが、自分とて、ナタリーの作品の核心部分を全く理解できていなかったではないか──。忸怩たる思いが、アルベリクの腹の底に淀んでいた。
かようなアルベリクの想いをよそに、画廊にはじわりと祝賀のムードが広まりつつあった。
パヴァリアの色男・リュファスは、この状況にかこつけてサラに近づいてゆき、彼女を口説きにかかっていた。
彼は物腰柔らかにサラの手を取ると、うやうやしく頭を下げた。
「リアーヌ嬢。貴女の成された仕事は、その……大変に素晴らしかった……! もしよろしければ、近いうちにわがボーマルシェの店を訪れていただけませんか」
「お申し出嬉しく思います。ですが、私はブランシャール様と専属契約を結んでおりますの。申し訳ありませんが……」
「いえいえ! 決してそのようなやましい意図はありませんよ。ただ、私は……僕は、貴女への敬意のやる方がなくて……その。正直に申し上げますと、貴女と個人的にお近づきになりたいと思っているのです」
「まあ……!」
さすがに看過するわけにもいかず、アルベリクは二人の間に割り込んで話を遮った。
「個人的な知己とはな。そちらの方がやましいことではないか、リュファス」
アルベリクが冷やかすと、リュファスは口元を歪ませ、あからさまな敵意を彼に向けてきた。
「アルベリク、これは僕とリアーヌ殿との個人的なやり取りだ。君は黙っていてくれたまえ」
アルベリクは心のなかで苦笑していた。この男の単純なところが、どうにも嫌いなれないのである。
彼は翻ってサラに向き直ると、わざとらしく改まった仕草でもって、彼女に尋ねた。
「技師の個人的交友関係にまで口出しをするつもりはないが……どうする、リアーヌ」
「私は構いませんわ。名にし負うボーマルシェ様とお近づきになれば、色々と楽しいお話もできるでしょうから」
あくまで優雅に、サラ扮するリアーヌは微笑みを見せる。事前に打ち合わせていたこととはいえ、彼女はよくよく役になりきっていた。
彼女の役割とは、ボーマルシェの眼を引きつけておくこと。
今後、ナタリーの作品の知名度が上がるにつれ、彼女を引き抜こうという手合は増えてゆくとアルベリクは予想していた。その手合の筆頭が、今眼前にいるボーマルシェだった。
早いうちに偽物の方に眼を向けさせておけば、マルブールに住むナタリーの存在を隠しきれるとアルベリクは踏んでいたのである。
リュファスの挨拶が済むと、彼に代わってネイライが進み出てきて、サラに向かって会釈をした。
「リアーヌ殿。この度の貴方の仕事、実に見事でした。同じ技師として、心よりの敬意を」
愛想こそ良いが、その眼は笑っていなかった。それどころか、心なしか憎悪のようなものすらちらついて見えた。
サラも彼の向ける敵意を感じ取っていたようで、警戒気味に身を引きつつ、最低限の愛想を振りまいて見せた。
「有難うございます。貴方も同業の方なのですね」
「ネイライと申します。お見知り置きいただければ、幸いです」
サラの差し出した手を、ネイライのごつごつした手が掴む。
その瞬間、サラは苦痛に顔を歪ませ、小さな悲鳴を上げた。
「痛ッ!」
ネイライは、掴んでいた手を慌てて引っ込めた。
「失礼! 山育ちで、女性の扱いに慣れていないもので……」
いけしゃあしゃあと、ネイライはそんなことを嘯く。当然、わざとであろう。
(狸だな……)
アルベリクが呆れた様子でネイライを横目で見やる。
一言たしなめようとアルベリクが口を開いた瞬間、彼を差し置いてリュファスがネイライに詰め寄ってゆき、凄まじい形相で彼を非難し始めた。
「ネイライ! 貴様、宝飾界の至宝の手に怪我の一つでもさせてみろ! 二度とボーマルシェの敷居を跨がせないからな!」
ものすごい剣幕だった。アルベリクは、僅かに目を見開いて、この金髪の色男の顔をまじまじと見た。
リュファスの反応は、アルベリクの想像の範疇を超えるものだった。商売敵の技師をこうまで真剣に慮るとは、思っていなかったのだ。
(これは、もしや……)
邪推に眼を光らせるアルベリク。
一つこの男を冷やかしてやろうか。そんなことをアルベリクが考えていた折、背後から声がかかった。
「お話中、失礼するよ。君がブランシャール?」
声の主は、長く美しい銀糸のような髪を結い上げた、やんごとない様相の男だった。切れ長の瞼の中に収まる碧色の瞳は、強い輝きを宿しつつ、アルベリクの姿を油断なく吟味している。
身に纏う装いは一見質素だが、その実しっかりした作りをしていて、気品がある。スカーフに一点のみ留められたブローチは、楢の葉を黄金で模した逸品であり、小振りながら繊細かつ凝った造りをしていた。
おそらくは、皇都に住まう上級貴族の一人であろうと推察された。
アルベリクは慇懃に腰を折り、男に向かって会釈する。
「左様です。──貴方は?」
アルベリクが友好的であることを見て取ると、男は相好を崩し、アルベリクに会釈を返した。
「はじめまして。私には生憎決まった名が無く、どう呼んでもらっても構わないのだが──。皆はラウルと呼んでくれているので、君もそう呼んでくれると嬉しい」
「ラウル殿ですか。決まった名がないとは、また異なことをおっしゃられますな」
こう言って、アルベリクは屈託なく笑った。
その脇腹を、ネイライが背後から肘打ちする。
「──アル、この御方は……」
ラウルと名乗った男は、鷹揚に頷いて微笑んだ。
「まったく、仰るとおり、異なことだ。この国の皇族というものは、色々と無用なしきたりの中に囲われ不自由している。いずれ、父と共に諸々整えて行かねばとは思っている」
アルベリクの全身に、汗が玉となって吹き出した。
──皇族。
夫人の品評会には、皇族もお忍びで参加しているという。その噂は、アルベリクも人づてには聞いていた。だが、実際に目の当たりにすることはないと思っていたし、ましてこうして直接対面し会話することになるなど、想定すらしていなかった。
この目の前の男は、一体何者か。アルベリクは、混乱する脳を必死に働かせ、推察を試みはじめた。
彼の動揺を知ってか知らずか、男は不敵に笑って語りを続けた。
「アルベリク・ブランシャール。またの名を、マルブールの赤目烏、か。異名があるというのは、良いものだ。人々の記憶に残りやすい。しかも君の場合、けっして名ばかりというわけでもない。君はその名にふさわしい、見事な働きを見せた。母が見込んだだけのことはある」
母、という単語を耳ざとく聞きつけ、アルベリクはこの男の正体をある程度まで絞り込むことができた。母とは言うまでもなく、アルベリクにも面識のある皇后陛下のことであろう。となれば、彼はおそらく親王──。それも、宝飾に造詣の深い第二皇子であろうと推察された。
第二皇子は破天荒な人物として知られ、毀誉褒貶あるが、総じて共通する評価は『切れ者』であった。若くして武勇に優れ、外交にも類稀なる手腕を振るい、皇国を支える国士なのである。未来の暗君と嘲笑される皇太子とは、その評価に天と地ほどの開きがある。
しぜん、アルベリクの背筋が伸びる。
「夫人の品評会を完了させた者たちになら、我々の要求を満たす仕事もできようものだろう。いずれ、君たちの力に托むことになるだろうが、その時は、是非によろしく」
そう言いおいて、ラウルは踵を返し、颯爽と去っていった。
後に残されたアルベリクは、身の底から震えが来るのを感じていた。
この品評会において切に望んでいた収穫が、今ようやくアルベリクの手に滑り込んできたのだ。
遅れ馳せにやってきた勝利の感触に身を熱くしつつ、アルベリクは拳を強く握り込んだ。
そんなアルベリクの姿を、壁に飾られた蝉の眼が、静かに見つめていた。






