第七章(2) アルノー本邸2
「なんだ、この愚にもつかないブローチは! ブランシャールだと? そいつはどこの馬の骨だ!」
品評会の出品作を鑑賞していたアルベリクは、遠くで喚き散らす声を聞いた。戦闘開始の合図であった。
おっとり刀で自らのブースに戻ったアルベリクを待っていたのは、先程よりさらに人数を増した人集りだった。彼は丁寧に人の群れをかき分け、その環の中心を目指した。
ブランシャールのブースでは、サラが来客の相手を務めていた。
そのサラの前には一人の背高な男が立っており、芝居がかった身振りと口調で彼女を難詰していた。
男の対応に苦慮していたサラは、アルベリクが近づくや、安堵の表情で彼を出迎えた。
「アルベリク」
アルベリクは小さく頷くと、彼女の前に立つ紳士に向かっておもねりの笑顔を向けた。
「ギヨーム卿。どうか怒りをお鎮めください」
「なんだ、貴様は」
深緑色のフロックコートを着込んだその男は、アルベリクに向き直るや、ぎょろりとした金壺眼で睨め据えてきた。
面長の輪郭の両端に配置された、金壺眼と小さな口。この男の相貌を一言で表すなら、『蟋蟀』が好適であった。
(こいつも、皇都に巣食う化け物の一匹か。上に近づくに従って、化け物と鉢合わせする機会が増すというのは本当らしいな)
──などという不躾な思考はおくびにも出さず、アルベリクは慇懃に頭を下げた。
「ブランシャール宝石店の店主、アルベリクです」
すかさずギヨームは、先程サラに見せたものと同じ三文芝居を再開した。役者ならば大根そのものだが、彼は幸いなこと役者ではなかった。
「いったい何を考えてこんな出品を許したのか知らんが、こんなものを、私は認めんぞ! 栄えある当サロンにおいて、かような出展が許されてよいと思っているのか!」
「お怒りごもっともでございます。この度の出品には、諸々の手違いがありまして」
「手違いで済むと思うのか! 貴様らは、気高き公爵夫人の胸に、醜い蝉を止まらせようというのか!?」
アルベリクのこめかみに、うっすらと血管が浮き出てきた。早くも彼は、この男の金切り声に嫌気が差しつつあった。
彼は下げていた頭をもたげると、慇懃な笑みを崩さぬままに、作品の解説を試みた。
「蝉は輪廻転生の象徴です、卿。たとえ今生で再び会えずとも、かの方々は必ず再び相まみえる。その願いと祈りを込めて、我々はこの作品を作りました。その観点から、今一度ご覧になっていただければ、また印象も変わるのではないかと……」
ギヨームは鼻を鳴らして、アルベリクの言葉を一笑に付した。
「変わらんよ。まず見るに値せんね。醜いものは醜い。虫のモチーフなど、邪道である!」
アルベリクの緋色の瞳に、険が宿る。彼はギヨームに詰め寄ると、その妖しげな光を放つ瞳で、金壺眼を睨め据えた。
「古来より、虫は宝飾品のモチーフとして、様々な形で用いられております。近東方古代文明の金のスカラベ、遠東方に伝わる玉虫を用いた聖櫃は言うに及ばず、半島史においても、蝶をモチーフとした装飾品の例は、枚挙にいとまがない。パヴァリア王室に献上された品の中にも、見事な黒揚羽のブローチがあったと聞きます。卿は、そうした宝飾の歴史をも否定されるおつもりか」
アルベリクの宝飾史講釈を前にして、ギヨームはあろうことか、容易に言葉を詰まらせてしまった。
その瞬間、アルベリクの中で、この男に対する評価が地に堕ちた。
(こいつ、宝飾のことを何もわかっちゃいないな。そのくせ──)
アルベリクがふと眼を上げると、二人のやりとりを遠巻きに見るボーマルシェの面子が視界に入った。期待の籠もった眼でこちらを見つめるネイライの後ろで、リュファスがニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべている。
二人の様子を見て、アルベリクは瞬時に、この品評会における人間関係の機微を把握した。
要するに、あのボーマルシェの二人も、腹の底ではこのギヨームという男を軽蔑しているのだ。それ故に、これまではギヨームの意図に反する制作を敢えて行ってきたのだろう。
だが、ブランシャールが参加するとなると話は別である。是が非でも最優等を取らねばならぬから、今回は敢えてギヨームの顔を立てたのだろう。
してみると、他の参加者たちの表情にも、どこか期待含みのものが伺えた。少なくとも、眉をひそめてアルベリクを見るような者は、一人としていなかった。
(たしかに、色々とややこしいことだな、リュファス)
再び眼前の蟋蟀に眼を戻す。この人外は、額に汗を浮かべ、しどろもどろになりながらも、もうひとりの人外たる赤目烏に向かって抗弁した。
「れ、歴史は歴史。先人の偉業には敬意を覚えるが、それとこれとは話が別である。皇室御用達の品を生む品評会であれば、扱われるモチーフも厳選されねばならない! 私はそのために、ここにいるのだ!」
「卿。この品評会は元々、アルノー夫人を慰撫する為に催されたもののはず。この度、主催者より改めてその目的に立ち返ろうという檄文が届き、それに我々は呼応したものでございます」
「貴様は、私の送った通達を読まなかったのか!?」
「その通達、我々のところには届きませんでした」
「私の落ち度だとでも言いたいのか!」
「滅相もありません。我々が新参者ゆえ、手違いがあったのでしょう」
「とにかくだ! 私が醜いと言えば、その作品は醜い! 故に貴様の出品作は醜いのである! 即刻、この出品を取り下げよ!」
ギヨームが、ブランシャールのブローチを指差し喚く。
その瞬間。アルベリクの表情から、おもねりの色が消えた。
──みたび。この男は、三度、ナタリーの作品を『醜い』と評した。宝飾芸術に対する眼も知識も、思い入れすらも持たぬ、この男がである。
アルベリクは再び顔を上げ、周囲をぐるりと見回した。そして彼は、二人のやり取りを遠巻きに見る参加者たち一人ひとりを、順繰りに睨みつけた。彼らは皆、アルベリクと目が合うと、気まずそうに目を逸した。
(こいつら……!)
アルベリクの緋色の瞳が、溶岩のように赤く滾った。
宝飾の歴史が、精神が、このつまらぬ男に、今まさに踏みにじられているというのに。ここにいる誰も、そのことに不満も憤りも示そうとしないのは、どういうわけか。
アルベリクの口髭の裏から、聞こえよがしの独語が漏れ出した。
「……話にならんな……何もかも」
「何!?」
不遜な言葉を聞き咎め、ギヨームが訝しげに眉を上げる。
対するアルベリクは、今一度周囲を睥睨した後、その燃える瞳の矛先を眼前の男に振り向けた。
赤目の烏は、わずかに怯む蟋蟀に向かって、静かにこう宣言した。
「この出品を、私が、取り下げることは決してありません。また、ギヨーム卿に於かれては、この作品に対するこれ以上の愚弄を差し控えていただきたい。この作品は、上代より連綿と続く装飾文化の、その末裔です。貴方の莫迦な眼で理解できないのなら、金輪際お黙りいただきたい」
物言いこそ静かではあったが、その形相は凄まじかった。
あまりのことに、対面の男は言葉を失い、鯉のように口を開け閉めするばかりだった。そんなギヨームに対して、アルベリクは行きがけの駄賃とばかりに、さらなる追い打ちをかけた。
「さらに、付け加えて言うなら、たとえ貴方からの手紙を受け取ったとしても、我々は同じ作品を提出したことでしょうな。主催者の要望を飛び越えて審査員が横車を押すなど、本来あってはならないこと。──一つお伺いしたいのですが、卿にとって最も大事なのは、何でありましょうか? 宝飾ですか。夫人ですか。この品評会ですか。ご祖国のパヴァリアですか。それとも……」
ここまで言って、アルベリクは、はっとして口を噤んだ。
(何を言っているのだ、俺は)
元々アルベリクは、ギヨームに与するつもりで会に臨んだのだ。もしも、彼からの通達がつつがなく届いていれば、それを錦の御旗にナタリーを説き伏せていたに違いない。
ところが、今、口をついて出たのは、真逆の言葉だった。
感情が昂ぶった故のことか、それともギヨームに対するあてつけか。アルベリクには、自らの言動の正体を説明付けることができなかった。
応接間は既に完全に静まり返っていた。皇都に巣食う化け物共の対決を、皆、固唾を飲んで見守っていた。
痛いほどの沈黙が続く中、やがてその静寂を破る者が現れた。
──あの神をも恐れぬ使用人、ジョゼである。
人の輪の最前列に陣取っていたジョゼは、長いことギヨームの顔を冷たい目つきで睨み据えていた。その彼女が、やおら両手を打ち合わせ、拍手をし始めたのだ。その拍手の音は、人集りの輪を越えて、広い応接間全体に甲高く響き渡った。
すると、これに続く者が現れた。ネイライである。彼がその大きな手で拍手をし始めると、人集りの中から、わずかながら、彼に同調する者が現れ始めた。その多くが、礼服の似合わぬ技師風の人々だった。
こうして、少しずつ、会場内に拍手の波が広がっていった。
喝采とまではいかなかった。手を打つ人々の多くは、気後れ気味に互いの顔を伺い合う有り様だった。だが、それでも、少なくない数の人間が、アルベリクに対して賛同の拍手を送っていたのである。
ギヨームにしてみれば、いい面の皮である。彼は耳まで真っ赤にして周囲のぐるりを睥睨すると、最後にその視線をアルベリク一人に定め据えた。
ギヨームはふいに、白く整った歯をむき出しにして、破顔した。
それは、笑顔ではなく、威嚇だった。
「……ブランシャールといったな。貴様等に次はない」