第六章(4) 山小屋4
明くる日のこと。アルベリクは今日こそ成果物を検収するべく、再び山小屋を訪れた。幸いなことに、初対面の時のような門前払いをされることもなく、快く迎え入れられた。
昨日同様、二人は再び机を挟んで差し向かいに座った。途端に沈黙が訪れ、痛痒い緊張感が肌に纏わりつき始める。
アルベリクの二つの眼は、眼前に座る娘の姿を、注意深く観察していた。憔悴は見られるものの、過日のような動揺した様子は見受けられなかった。少なくとも、会話は成り立ちそうである。
アルベリクは胸に安堵を覚えつつ、単刀直入に切り出した。
「落ち着いたようで、なによりだ。では早速で悪いが、ブローチの作り直しを頼みたい」
すると、ナタリーは待っていましたとばかりに、手元に用意してあった化粧箱を取り上げ、アルベリクの前に据え置いた。
「──これを、お受け取りください」
昨日の今日で、彼女は既に作り直しを済ませていたということか。どうやら、『矯正』は奏功したようだ。アルベリクは見込み通りの結果に、心のなかでほくそ笑んだ。
──しかし、それは完全なる早合点だった。
化粧箱の蓋を開いた瞬間、アルベリクの表情があからさまに曇った。
箱の中に収まっていたのは、見慣れない造形の指輪だった。
アルベリクは眉をひそめる。
「──俺はブローチを作り直せと言ったはずだぞ」
非難を受けてもナタリーは身じろぎ一つせず、アルベリクの緋色の瞳を静かに見据えていた。先日の暴風雨のような有様とは打って変わって、今日の彼女は、凪いでいた。
至極穏やかな声で、彼女はこう答えた。
「それは、貴方です」
「何?」
「その指輪は、今の貴方です」
同じ内容の言葉が、二度繰り返される。それ以外の答えは、どうやら返ってきそうになかった。
──奇妙な指輪だった。
モチーフは、茨。それ自体は、さして珍しいものではない。問題は、その構造である。
本来石の嵌められるべき場所が、細い銀糸の蔦で覆われていた。そして、その蔦で囲まれた檻の奥に、尋常ならざる輝きを放つ石が、垣間見えた。石は、見事にカットされた金剛石だった。その輝きは大変よく作り込まれており、蔦の隙間から差し込む光が、うまいこと石の中で反射するように計算されていた。
また、茨であるからには、当然棘もある。指輪の本体からは、幾筋もの棘が突き出ていた。ただ、おかしなことに、その棘は環の内側にも突出しており、おかげでその指輪を指に嵌めることは、到底できそうになかった。無理に嵌めようとすれば、その指は傷だらけになってしまう。
実用性を完全に無視した、芸術作品としての指輪だった。
つまるところナタリーは、依頼した仕事もせず、一クルトの金にもならぬ手技に精を出していたということになる。
アルベリクの顔が、たちまち険を帯びた。彼は指輪を机の上に放り投げると、吐き捨てるように呟いた。
「くだらん。こんなものは二度と作るな。すぐに潰せ!」
「それは、貴方に差し上げます。潰したければ、貴方自身の手で潰してください」
あくまで平然と、ナタリーはそんなことを宣った。
その余裕ぶった様子が、アルベリクを大いに苛立たせた。
「ならば、お望み通り、破壊してやろう」
彼はやおら立ち上がり、ずかずかと足音を立てて工房に降りていった。
ややした後、戻ってきたアルベリクの手には、工作用の木槌が握りしめられていた。
茨の指輪は、先程放り投げられたままの姿で、机の上に泰然と横たわっている。
王者の如きその姿を、アルベリクは忌々しげに見下ろしていた。すわその身を粉砕せんと、木槌を持つ手が振り上げられる。
しかし、一番高く掲げたところで、彼の手は静止した。
破壊するつもりでいざ指輪を前にしてみると、如何しても手が動かなくなったのだ。
指輪の腕に巻き付く蔦はたおやかな流線を描き、磨き上げられた銀糸は晴天の下の雪のように輝いている。その造形美が、輝きが、凶行に及ぼうとする彼の腕を押し止めていた。
もしも彼に子が居て、その子を手にかけなければならない状況に陥ったとしたら、今と同じ気持ちになったに違いない。かわいい我が子を木槌で殴り倒せるようなら、それはもう人ではない。
しかし、振り上げた手を、ただ下ろす訳にもいかない。そんな事をすれば、己の沽券に関わるとアルベリクは思い込んでいた。
玉の汗が額に吹き出し、こめかみを伝って顎から落ちる。
ついに、彼は動いた。
きっかけは、ナタリーの声だった。
彼女が気遣わしげにアルベリクの名を呼んだ瞬間、アルベリクは弾かれたように身を震わせ、下ろしかけていた腕を再び高々と持ち上げた。
もはや、躊躇の暇はなかった。
破裂音に似た激しい音が、小屋の中に響き渡る。すまし顔で座っていたナタリーも、流石にこの瞬間は、怯えたように身体を竦めた。
……アルベリクの視線の先で、茨の指輪は、依然変わりない姿と輝きを保っていた……。
木槌は机の表面を打ち据えただけで、指輪に掠るどころか、触れることすらなかったのだ。
打ち損じではない。彼の意思による選択だった。
──その指輪は、破壊するには、あまりに美しすぎた。
再び木槌を振り上げる気力は、もはや残されていない。是非も無かった。
アルベリクはやむなく木槌を放り捨てると、額の汗を袖で拭い、言い訳とも痩せ我慢ともつかぬ風情の言葉を口にした。
「……買いかぶったものだな。こんなものが、俺であるはずがなかろう」
「どうしてそう思うのです?」
「……これは、あまりに美しい。俺はこれほど美しい人間ではない」
「いいえ、貴方はこの指輪の通りなのです。貴方の魂は、本当はとても美しく、こんなにも輝かしい……」
「よせ! 薄気味悪い!」
アルベリクは、思わず眼前の技師から顔を逸した。すると、窓の外の風景が、彼の眼に飛び込んできた。
純白に覆われた、山腹の雪原。それが、快晴の空の強い陽射しを受けて、激しい輝きを見せている。その輝きは、茨の指輪が放つ輝きに、ひどくよく似ていた。
視線のやる方なく、アルベリクはやむなく瞼を固く閉じた。
瞼の裏の視界が、陽の光を受けて赤く染まる。
「……それは、最初の指輪です」
赤い視界の向こうに、ナタリーの声が聞こえる。
「私は、貴方のために、三つの指輪を作ります。それらを一つ、また一つと手にするうちに、貴方はきっと、貴方自身の魂を取り戻してゆくことでしょう」
尋常ではない発言だった。
──よもや正気を失ったのか。そう考えたアルベリクは、刮目して再びナタリーの姿を見やった。
澄み切った瞳が、アルベリクを見つめ返していた。屈託のないその表情は、世の摂理をまるで知らぬ、少女のようにすら見えた。
一瞥しただけでは、彼女の正気を判断できなかった。かといって、彼女に直接「正気か?」などと尋ねたところで、無意味であることもわかりきっていた。己が正気か狂気かなど、自覚できるものではない。
言葉に迷った挙げ句、アルベリクは唸るような声でもってこう尋ねた。
「俺がいつ、魂を失ったというのだ」
「それは存じません。ですが、貴方の魂は、ここにこそあるのです」
そう言うと、ナタリーは左手を掲げてみせた。その中指には、例の蓮の指輪が、彼女の身体の一部ででもあるかのように鎮座していた。
アルベリクの視線の先で、彼女の瞼が、ゆっくりと据わってゆく。
「私の全身全霊をもって、必ずや貴方の心を取り戻してみせます」
その瞬間。澄んだ碧色の瞳の奥に、アルベリクはたしかに狂気の光を見た。
それは、殉教者の眼だった。
──彼女は恐ろしい女だ。
ガストンの遺書に書かれた言葉が、アルベリクの脳裡に遠く警鐘を鳴らす。
心の声が問う。止めるべきか、と。
答えは即座に出た。無論、否、である。
開けてはならぬ扉が、今まさに開こうとしている。だが、それを止める道理はない。なぜなら、その扉の先には、未だ見たこともない輝きが待っているかもしれないのだから。
一つ目の指輪がこの品質というなら、残り二つの指輪は、果たしてどれほどの輝きを放つことだろう。宝飾を愛する者なら──ましてマルブールの赤目烏ならば、それを見ずして死ぬことなどできはしまい。
アルベリクの手の中で、彼の魂を模した指輪が、強い輝きを放って瞬いていた。