表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/99

第六章(3) 山小屋3

 沈黙が山小屋の空気を支配していた。薪のはぜる音だけが、どこか遠くに聞こえる。


 ナタリーは、困惑気味の笑みを顔に張りつけて、固まっていた。眼前の男の言葉を、たちの悪い冗談と思い込んだまま、思考が停止したらしい。


 ついに彼女は、自らの聞き間違いを疑ってか、おずおずと微笑みながら、こう問うた。


「……すみません、今、なんとおっしゃりましたか?」


 アルベリクは面倒そうに身を乗り出し、先程の言葉をもう一度、真顔でゆっくりと繰り返した。その言葉が決して冗談ではないと、わからせるために。


「そのくだらん指輪は、俺が作った」


 再び、沈黙が訪れる。


 ナタリーの眼は、しばしの間、呆然と机の上を眺めていた。その眼球が次第に神経質に微動しはじめ、呼吸は荒くなってゆく。頭の中で必死に、アルベリクの言葉を咀嚼しようとしているのであろう。


 やがて、彼女の口から、かろうじて聞き取れるほどの、か細くかすれた声が零れ出た。


「嘘……でしょう?」

「そう思うのなら、指輪の裏を見てみろ。A.L.というイニシャルが彫られているだろう。アルベリク・ラブリエ。それが、婿養子になる前の俺の名だ」


 ナタリーの顔が、にわかにこわばった。指輪を外すまでもなく、彼女はそのイニシャルの存在を知っていたのだ。


 おそらく彼女は、これまでに幾度となく指輪を眺め、そこに彫られたイニシャルから作者の名前を夢想していたのだろう。アンリ・ルイエ、アラン・ロカール、アントアーヌ・ルブラン……。そんな名前を夜ごと思い浮かべ、作者の顔を想像しながら眠っていたに違いない。彼女の夢の中に現れるその顔は、おそらく、大聖堂の肖像画にでも描かれるような、聖人君子然とした微笑みを湛えていたに違いなかった。


 しかし今や、理想化された相貌の数々は無残に打ち砕かれ、仏頂面の俗悪な男の髭面に取って代わったわけである。


 ナタリーの顔色は、みるみるうちに青ざめていった。彼女はガタガタと震え出す身体を抑えようと、自らを強く抱きしめて縮こまった。


 余程ショックだったのか、その唇から悲壮な響きの独語が漏れる。「……嘘……うそ……だって、これは……そんな……」


 アルベリクは彼女の様子を無表情で眺めながら、なおも容赦なく追撃の言葉を浴びせかけた。


「まだ信じられないか? なら、テオドールにでも聞いてみるがいい。俺はもともと、技師見習いとしてガストンに師事し、この山小屋で修行していた。言うなれば、君の兄弟子に当たるわけだ。そいつは、かの偉大な技師である、オーギュスト・ヴァニエに憧れて作ったものだ。君もヴァニエの『泥濘の蓮』くらいは知っているだろう」


 ナタリーは、もはや何も答えなかった。ただ焦点の合わない眼で、手元の指輪を見るともなしに見るばかりである。


 やがて、歯の根の合わぬ様子で、ナタリーが言葉を切り出した。


「……あなたの……こと、言葉が本当なら……」

「残念ながら本当だ」

「……っ。どうして……なぜ、もっと早くおっしゃってくださらなかったのです……?」

「今の君のその体たらくが答えだ。君との関係に、無用な波風を立てたくはなかった」

「……なぜ、あなたは今、技師をされていないのですか……?」


「君と同じだ。俺の作品など、誰も顧みることがなかった。だが、今、立場を変えて改めて自分の作品を見るに、それもむべなるかなと言わざるを得ないな。未熟。若気の至り。気持ちばかりが先行し、何もわかっちゃいない。自己満足と(てら)いが鼻につき、とても売り物になどならん。それで職業技師を目指していたというのだから、恥ずかしい限りだ。道を諦めて正解だったよ」


 今にも泣き出しそうになりながら、ナタリーはゆっくりと、しかし、幾度も、首を横に振った。


「違うッ……! 違います……あなたの作品は、私を……」


 アルベリクは手を胸先に掲げて、ナタリーの言葉を遮った。


「それは以前聞いた。しかしなぜ君が、その指輪にそこまで固執するのか、俺にはまったく理解できん」

「わ、私……私は……」


 ナタリーの眼差しが、手元の指輪に落ちる。伏せられた長い睫毛に、小金剛石のような涙が、幾粒か光っていた。


「この指輪に、何度救われたかわかりません。……師匠からこの指輪を渡されたあの日だけじゃない。自分の技量のなさに絶望しかけたあの赤い夕暮れの日も、師匠が亡くなった日も、孤独で凍りつきそうだった夜も……。この指輪は、いつだって私に寄り添って、私を導いてくれた……。この指輪があったから、暗闇に飲み込まれずに済んだのです……。これを……これを、貴方が創ったなんて……」


 ナタリーの真っ白な頬の上に、涙がひと筋、ふた筋と跡をつけてゆく。


 声もなく泣き濡れる女の、その悲しげな顔を見て動揺せぬほど、アルベリクは鉄面皮ではなかった。憮然とした表情で、彼はナタリーから目を逸らす。


「俺ごときで悪かったな。君の夢を壊したことについては、謝ろう。だが──」

「ち、違……」


 アルベリクは再び、手でナタリーの言葉を制した。


「変な気を遣うな。俺はその指輪にも、技師としての自分にも、思い入れなどない。それより俺が言いたいのはだ」


 彼は一旦言葉を切って、肺に呼気を溜め込むと、語気を強め、残りの言葉を一気呵成に吐き出した。


「諸々、君の思い込みだったということだ。宝飾に人の魂を導く力などない。宝飾はただ、人を美しく飾りさえすれば良い。君もそのように割り切って、ありもしない力を捻り出そうとするのは金輪際やめることだ。その蓮の指輪はもう捨てろ。この蝉のブローチも、残念だが作り直そう。……おい、聞いているか?」


 既にナタリーは、アルベリクの話など聞いていなかった。彼女は両手で顔を覆い、項垂(うなだ)れたまま動かなくなっていた。


 二、三度呼びかけても返事がなかったので、アルベリクは立ち上がって彼女の側に回り込んだ。


 その華奢な肩に手を触れようとした瞬間、顔を覆う手の内側から、細い声が漏れた。


「……すみません……。今日はもうお引取りください……。こ、心が……心が乱れて…………」

「いや、しかし、納品物は、まだ……」


 ナタリーはやおら立ち上がり、目を合わせずにアルベリクと向かい合った。鼻白むアルベリクに向かって、彼女の両腕がおずおずと差し伸ばされ、幅広い胸板をそっと押しやる。


 か弱い女の細腕には、大人の男の身体を押し動かす力などありはしない。だが──。


 彼女の手は、ひどく冷たく、震えていた。その冷たい体温と震えは、アルベリクの胸から身体の芯に向かってゆっくりと伝わり、そのさらに奥にあるものを強く揺り動かした。


 髪の房の中に隠れた目元から、雫が滴り、床に黒いしみを作ってゆく。


 これ以上、彼女と仕事の話をするのは、難しそうだった。


「……ええい、くそッ」


 悪態と共に、アルベリクは身を翻した。そのまま、ずかずかと足音をたてて、玄関の扉に歩み寄ってゆく。


 外套を引っ掴み、無造作に閂を引き上げ、玄関の戸を開く。その途端、厳しい寒気が、肌の露出した顔と手に突き刺さってきた。


 外から扉を閉め立ち去ろうとすると、小屋の中からパタパタと駆ける足音が聞こえてきた。次いで、くぐもった声が、扉越しにアルベリクを呼び止めた。差し迫った声だった。


「明日っ……! 明日、必ずまた来てください! それまでには必ず、気持ちに整理をつけますから、どうか……」


 アルベリクは再び玄関前まで戻ると、入り口の扉に額を押し付け、静かに答えた。


「わかった。だが、俺が恥を忍んであんな告白をした理由をわかって欲しい。俺は、君を史上最高の宝飾技師にしたいと思っているのだ」


 返事は、なかった。


 ムチのつもりで打ったカンフル剤は、いささか強すぎたらしかった。だが、後悔したところで、もはや後の祭りである。


 痛む頭を抱えつつ、アルベリクはとぼとぼと山を下っていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本作書籍化いたしました!
こちらの青いカバーが目印です。
書籍化にあたり加筆修正を行い、Web版より読みやすくなっていると自負しております。
お買い上げいただけると大変嬉しいです。
よろしくお願いいたします!

▼▼▼ 画像をクリックすると、Amazonのページに移動します ▼▼▼
マルブールの赤目烏と滅びの宝飾師1
▲▲▲ 画像をクリックすると、Amazonのページに移動します ▲▲▲


特典情報もあります!(画像をクリックすると、特典情報の詳細ページに移動します) fgsjn7kwtvaatyjgp56mch6oq8_rol_3o1_2gy_pta9.jpg
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ