第六章(2) 山小屋2
「──説明しろ。これは、どういうわけだ」
出来上がった作品を前にして、アルベリクが圧し殺した声で難詰する。対するナタリーは、涼しい顔をしてさらりとこう答えた。
「貴方の望む通り、『限りない美への憧憬』を心に抱いて作りました。……いかがでしょうか」
アルベリクは再び、手元の作品に眼を落とした。
蓮の花に止まる蝉の造形がなされた、繊細無比の作品である。
蓮の意匠は、言うまでもなく、例の蓮の指輪へのオマージュだった。だが、実現に用いられた技巧は、今回のものの方が圧倒的に優れていた。
粒金を駆使して蓮の花に結ぶ朝露を表現する技法は、ナタリーの精巧な彫金の技術と相まって、至高の次元へと達していた。蝉の翅の部分にオパールを大胆にあしらっている点も、この作品の幻想美に大きく貢献している。
こと宝飾品としての造形においては、アルベリクも思わず唸らされたほどであり、なるほど自然美や幻想美への限りない憧憬を顕していると読めなくもない。
だが、一点、如何しても看過できない造形があった。
清楚に咲く蓮の花弁から、朝露が一筋、涙のように伝っていた。ペアシェイプにカットされたダイヤモンドの涙だった。蝉の黄金の前足がまっすぐ伸びて、その一滴の涙に今しも触れようとしていた。
触れ合おうとする命と命──。限りなく零に近いその間隙の中に、アルベリクは作者の強い想いを感じずにはいられなかった。
「誤魔化そうとしても無駄だ。……確かに──まごうことなく、このブローチは美しい。だが、この作品の主題は、そこにはない」
ナタリーの表情が、わずかに曇る。
「……貴方には、判るのですね。本当に、良い眼をお持ちです──。それほど素晴らしい眼を持ちながら、なぜ貴方は心無い金の亡者に堕しているのでしょう。私にはそれが残念でなりません」
「『利を追わぬは善なきなり』。商家ブランシャールの教えだ。君の矮小な差し金で、果たして多様な人の魂を測れるかな」
「そうかもしれません。ですが、今回のお仕事に関しては、絶対に私が正しいと断言できます」
あくまで、ナタリーは抗弁し、退かなかった。アルベリクは喉の奥で低い唸り声を上げ、じりじりと彼女を睨めつけていた。しかしやがて、堪りかねたように、彼は机を激しく叩いた。
「この仕事に責任を負うのは俺だ! 君は作って手放せばそれで終わりだが、俺は違う! この仕事で、百人からの従業員とブランシャールの家を守らねばならんのだ!」
アルベリクの怒声に対して、ナタリーは一瞬怯んで、小さく身を震わせた。だが、彼女はすぐに身を乗り出し、果然と抗する構えを見せた。
「そうやって内向きの目的に汲々としているうちに、大事がおろそかになっては本末転倒ではありませんか……! 人間の営みは、より大きな目的を達成するためにあると私は信じています。私には、自分の都合を優先して、顧客の本願をないがしろにすることなどできません」
「御託をぬかすな! もう時間がない。すぐに作り直せ。今日中に作り直さねば、ブランシャールは終わりだ」
「この程度で終わる店など、潰れてしまえばよいのです。私には、これを作り直す気など毛頭ありません。品評会には、必ず、この作品を出品してください」
強い言葉とは裏腹に、彼女の瞼には涙が滲んでいた。もとより彼女は、争い事を好まぬ温厚な性格なのだろう。だが、今はどうしても、眼前のこの男と対決しなければならなかったのだ。その向こうにいる、真の顧客のために──。
アルベリクとしても、打つ手が見つからなかった。凡百の技師相手ならば、即刻契約を破棄すべき事態である。だが、ことこの技師に関しては、そうするわけにもいかない。
技師というものは、とかく御しがたいものだ。今回の件は勉強と割り切って、別の案件で彼女を活用する道を模索すべきか。
しかし、店内での自分の立場や経営状態を考えると、是が非でもアルノー夫人の品評会は成功させなければならない。アルベリクの心中で、そのような葛藤が繰り広げられていた。
議論は膠着状態に陥り、二人は押し黙ったまま互いを見つめ合っていた。
ここでも、先に目を逸らしたのはナタリーの方だった。彼女は泣き出しそうな顔をしながら、つなぎのポケットに手を差し入れ、中から一つの指輪を取り出した。今回彼女が作ったブローチの、そのオマージュ元である、あの蓮の指輪だった。
彼女は震える手で指輪をはめると、祈るように目を伏せた。
──この女は一寸苦しいことがあると、すぐにあの指輪に救いを求める──。
アルベリクは彼女のこの悪癖を見逃さなかった。
「……その指輪を二度と見せるなと言ったはずだ」
苦々しげに、アルベリクが唸る。ナタリーは眼を伏せたまま、これに答えた。
「──貴方にも、きっと必要なのだと思います。この指輪のように、貴方を正しく導く存在が……」
今のアルベリクが正しくないと、暗に滲ませる物言いである。
アルベリクはいい加減、彼女の独善的な言動に嫌気が差しつつあった。
──悪癖は、ここらで矯正せねばならんか……。
彼は、決然と顔を上げた。
「なら、教えてやろう。君がそこまで入れ込む、その指輪の正体を」
「……正体?」
ナタリーが、怪訝そうに眉を寄せる。
その刹那、ナタリーの中で、なにか、動物的な予感が働いたらしかった。彼女は身をすくめ、命より大事な指輪を、守るように胸元に押し抱いた。
アルベリクは、彼女の無意識の畏れを、その眼でしっかりと認識していた。その上で、彼は敢えて『矯正』を断行した。
「なんということはない。その指輪を作ったのは、俺だ」