第六章(1) 山小屋1
マルブールの山小屋で、アルベリクとナタリーが再び相対していた。
二人に挟まれた机の上には、アルベリクの持参した皮封筒が無造作に置かれている。開かれたその口からは、何枚かの書類が覗いていた。
ナタリーは一枚の写真に眼を落とし、そこに写る人物の姿を見ていた。
「美しい方ですね」
「アルノー夫人。皇都でも指折りの名家を仕切る女主人だ。今回は、この女性が身につける装飾品を作ってもらいたい。首元から胸元にかけて飾るものが良いな。ネックレスか、ブローチか……」
アルベリクは、アルノー夫人が未亡人であることを敢えて伏せていた。彼が封筒に入れた書類からも、そうした内容の記述は念入りに取り除いてあった。
品評会において審査員の心象を良くするには、あくまで格式高く、私情を廃した作品を提出せねばならない。これにあたり、作家に与える情報からも、私情を惹起するような内容を、極力省くことが肝要だったのだ。
だが、書類に目を通すナタリーの表情は、芳しいものではなかった。
彼女は複数枚に渡る書類を二度三度と繰り返し読んでいたが、その表情は終始曇っていた。
やがて彼女は、困ったような微笑みを浮かべてアルベリクに尋ねた。
「──この方は、どのような方なのですか?」
「どのような、とは?」
「性格や、趣味嗜好など、この方の雰囲気を教えていただけると……」
「今回の仕事で、君がそうしたことを知る必要はない」
アルベリクが冷たく言い放つと、ナタリーは驚いたように目を丸くする。
「今回はこの方のための作品を作るのですよね? 復刻品だとか、大量生産品などではなく、特注品なのですよね?」
「ああ」
「なら、この方のことを、もっとよく知らなければ……」
「情報なら、そこに書かれているだろう」
「……全然、足りません」
「いいや、それで十分のはずだ。皇国屈指の荘園を持つ大貴族にして、皇后陛下のご交誼も厚い。この国で最も気高く、最も高貴な──」
「それは、この方がお召しになっている衣装の話でしょう」
アルベリクの言葉を遮って、ナタリーがピシャリと言った。
「私が知りたいのはそんなことではありません。この方は何が好きで、何を好まないのか。今何を嬉しく思い、何を悲しまれるのか。今、この方の心を占めているものは、何なのか。そうしたことが、この資料からは何一つ読み取れません。私は、この方の裸の魂を知りたいのです。その魂の傍らに添えるための宝飾を、私は作りたいのです」
「そういうものを作りたければ、趣味の範囲で、いくらでも妄想を捗らせて作るがいい。だが、これは仕事だ。今回の仕事における君の使命は、個人的な情緒など一切排し、ただひたすら造形美を究めることだ」
「そんなものは、機械にでも作らせれば良いでしょう」
「機械は万能ではない。超一流の仕事は、未だ人の手の中で作られる」
「人がその手で作る以上、想いや願いを込めずに作ることなど不可能です。魂を込めて作るからこそ、最高のものができると私は信じています」
──埒が明かなかった。
いつまでも、かように不毛な議論を続けているわけにはゆかない。そこで、アルベリクは方便を使うことにした。
「いいか、ナタリー。これは、夫人御自身の要望なのだ。『限りない美への憧憬』。それが、今回夫人が指定したテーマだ。君は、顧客の要望すら無視するつもりかね?」
ナタリーは、ぐっと喉を鳴らして黙り込んだ。流石に、顧客要望という錦の御旗には彼女も勝てないらしい。
「君にしかできないことだ。頼む」
駄目押しにそうまで言われては、ナタリーとしては首を縦に振るほかなかった。
「……わかりました。善処します」
──と、その時。
山小屋の戸を叩く音が、二人の会話を遮った。次いで、扉の向こうから、しわがれた男の声が聞こえてきた。
「ルルーさん、ワシだよ」
「あら、テオドールさんだわ……!」
ナタリーは椅子を蹴って立ち上がり、慌てて玄関に向かって駆け出していった。
ナタリーが迎え入れたのは、マルブールの宝石商組合で末席に根を張る、あの老テオドールだった。彼は部屋の中にアルベリクの姿を認めるや、緩慢な動作で外套を脱ぎつつ、彼に向かって破顔した。
「なんだい、アルも来ていたのかい」
アルベリクは仏頂面をぶら下げながら、眼だけで相槌を打った。
テオドールの外套をハンガーに掛けつつ、ナタリーが尋ねる。
「アルベリクさんのことを、テオドールさんはアルと呼んでいらっしゃるのですね」
「ああ、そうだよ。昔なじみは、皆そう呼ぶ。そうよな、アル?」
テオドールの答えに、ナタリーは頬をほころばせた。僅かであってもアルベリクについて知れたという喜びが、その微笑みから溢れ出していた。
アルベリクは居心地の悪さに席を立ち、白湯を飲むため台所に向かった。
居間の方から、二人の話し声が聞こえてくる。
「ルルーさん宛に速達が来とってな」
「それは珍しいですね」
台所からカップを持ってきたアルベリクは、ストーブの上に載せられたポットを掴んで湯を注いだ。熱い湯に息を吹きかけつつ、机に戻る。
椅子に座り、ふとナタリーを見ると、彼女は神妙な面持ちで手紙を読み込んでいた。
最後の一文を読み終えたナタリーは、やおら机の上の写真に眼を滑らせた。そして、そこに写るアルノー夫人の姿を、真剣な眼差しでしばらくの間見つめていた。
やがて彼女は顔を上げ、一転、咎めるような目つきでアルベリクを見やった。
「……これは、いったいどういうことですか。話がまるきり、違います」
話が違うとはどういうことか。アルベリクは怪訝に思い、眉をひそめる。
「見せろ。何が書かれている。差出人は誰だ」
ナタリーはアルベリクの質問に答えず、封筒と手紙をまとめて差し出した。
受け取った封筒には、蝋で封された跡があった。封蝋に捺されている印璽は、アルノー家の紋章を象ったものだった。差出人の名は、使用人のジョゼ・トロワ──。
その名を見た瞬間、アルベリクは己のミスを察知した。この手紙は、多少強引にでも彼女の手から奪っておくべきものだったのだ。
次いで手紙の内容を改める。本文は、手書きではなく、活字だった。
『品評会へ参加される技師の皆様方へ、次回品評会の主題に関するお知らせ
拝啓
作家様各位に於かれましては、日々お変わりなくご健勝にお過ごしのことと存じます。
この度、次回品評会の主題を、次のように定めることといたしました。
《比類なき魂との邂逅》
これこそが、我が主の切に望むるものに他なりません。
未だ戦地より帰らぬ公爵閣下を、我が主は幾星霜待ち続けたことでございましょう。その月日たるや、本年をもって実に十年にもなります。
もとよりこの品評会は、技師の皆様のご厚情により発足したもの。皆様ならば、この望みを叶えるためのご尽力を惜しまぬものと期待しております。
どうか、我が主を、奥様をお救いください。ただ皆様の心づくしの作品だけが、奥様のお心に、偉大なる陽光に比肩する温もりをもたらすと信じてやみません』
読み終えたアルベリクは、全身の空気を吐き出す勢いで、大仰に嘆息した。完全に、アルベリクの目論見とは真逆の内容がしたためられていたのだ。
苦虫を噛み潰した顔で、アルベリクは添え状に視線を移す。内容はどうということのない転送の案内だったが、追伸として次のような文面が添えられていた。
『もしボスがそちらにいらっしゃいましたら、次のようにご説明ください。技師向けの内容と推察いたしましたため、直接担当技師へ転送いたしました、と』
姑息な申し開きである。事務員たちが転送先をアルベリクに宛てなかったのは、他にも理由がありそうだった。
彼らは、使用人ジョゼがしたためた手紙の内容に心打たれ、これをアルベリクに手渡したくなくなったのではあるまいか。この手紙がアルベリクに渡れば、握りつぶされるに決まっているのだから。
(あの事務員共! 余計な真似をしくさって!)
憤然と歯ぎしりするアルベリクを、ナタリーは失望しきった瞳で見つめていた。
ナタリーにとってアルベリクは、既に見る価値のないものに堕したらしい。彼女は眼前の男から眼をそらすと、みたび、机の上の写真に視線を移した。
碧色の双眸が、夫人の姿をじっと見据える。その瞳の奥に、意志に満ちた強い力が宿ってゆく。
死地に向かう兵士の如き目をして、彼女は決然と言い放った。
「──作らなきゃいけない」
言うより早くナタリーは立ち上がり、早足に半地下への階段を降りていった。