第五章(5) レストラン・エピキュール
『指人形』との会食は、皇都の恩賜通りに面する一流レストラン『エピキュール』で執り行われた。
現代でも名高いこのレストランは、当時から政財界の著名人や貴人などが利用することで知られていた。一流レストランだけあって、料理の質はすこぶる良い。
だが、この店の真の強みは別にあった。このエピキュールという店は顧客保護の名目で会員制をとっていた。さらに全室個室で、壁は防音のために厚く造られていたという。その徹底ぶりが人気を博し、秘密多き人々の御用達となっていた。
アルベリクは候補者に先んじて店に入り、給仕に今日の段取りを伝えた後、『指人形』の到着を待った。
余った時間に未処理の書類を眺めていると、果たして、待ち人は時間通りにやってきた。
部屋の扉が開かれた瞬間、室内の空気が変わった。
現れたのは、息を呑むほど美しい、一人の娘だった。彼女が現れるや、部屋の中の華やぎがいや増したのだ。
貴族の令嬢の如き清廉な銀糸の髪に、陶器のようななめらかな肌、宝石と見紛うばかりの瞳と、果実を思わせるみずみずしい唇。それらが絶妙なバランスで調和をとっており、さながらよくできた彫刻を思わせる美貌であった。
彼女は絹のドレスを身にまとい、優雅な物腰でアルベリクの前に進み出た。
「見違えたな、サラ」
素直な慨嘆の声が、ごく自然にアルベリクの喉から漏れた。普段部下を叱咤している苛烈な男の面影は、もはやそこにはなかった。
サラと呼ばれた女は相好を崩して、穏やかに応じた。
「馬子にも衣装よ。貴方のお店の方が、今日のために衣装をよこしてくれたの。エピキュールに入る人間がみすぼらしい姿では逆に目立つって。おかげさまで、私は今宵、一夜限りの姫殿下よ」
女はアルベリクの向かいに座ると、真っ直ぐに彼を見た。蒼玉のように青い瞳の中には、活き活きとした魂の光が瞬いている。
アルベリクはその瞳の光からわずかに目をそらした。そして、挨拶もそこそこに、ぶっきらぼうに手を差し伸ばした。
「手芸をやっているそうだな。手を見せろ」
言われるがままに差し出された手は、華奢ではあるものの、やや節ばっていた。
触れた瞬間にわかる。紛れもなく技師の手だった。無数の豆やたこは昨日今日でできたようなものではなく、彼女の宝飾工芸への取り組みがいかに真摯であるか伺い知れた。
アルベリクは続けて尋ねた。
「宝飾工芸に関する一般的な知識に関して、受け答えはできるか?」
「当たり前でしょう。ブランシャールに納品だってしているのよ」
「宝飾の歴史は? グリアエ様式、ロートシルト宝飾、シメイオン文化とその影響、近代パヴァリア様式」
「教科書に載っていることくらいなら、話せるわよ。家庭教師だってできるわ。稼ぎが悪いから、できればしたくないけれど、貴方の頼みなら……」
「今回の仕事は家庭教師ではない。──時事ネタはどうだ。最近、気になる話はあるかね」
「そりゃ、あるわよ。貴方、最近ロートシルトの復刻を達成させたって話じゃない。いったいどうやって……」
「合格だ。仕事の話は、これで一切合切済んだ」
えっ、もう? と、サラが眼を丸くする。実際のところ、手に触れた時点で九分九厘、アルベリクの心は決まっていたのだ。
食事を載せた皿が部屋に運ばれてきた。白身魚をオリーブオイルでソテーしただけの素朴な料理だったが、味は格別だった。二人はめいめいフォークをとり、香ばしく焼けた皮の食感や、ほくほくと口の中で崩れる白身の味を楽しんだ。ことにサラは、こんな美味しい食事は初めてだと言って、たいそう美味しそうに食べた。
アルベリクが、何気なしに問う。
「まだあの頃の夢を追っているのか?」
「悪い?」
「良し悪しではない。褒めるつもりはないが、責めるつもりもない。君の人生だ」
「淡白ね」
「昔のようにはいかんよ。お互い年をとったしな」
「おじいちゃんみたいなことを言わないでよ。寂しくなるじゃない」
アルベリクは心外とでも言いたげに眉を上げ、肩をすくめた。それを見て、サラはまた屈託なく笑う。
彼女はその瞳に思わせぶりな光を宿しつつ、ひとりごちるようにこう付け足した。
「まあ、でも、覚えていてくれて、ちょっと嬉しい」
サラは、アルベリクの旧友だった。
アルベリクがブランシャールで新米だった頃、度々店にやってくる子どもがいた。それが、サラだった。彼女はブランシャールの店先に並ぶ宝飾に魅せられ、いつか自分の手でこんな宝飾品を作るのだと語っていた。アルベリクはそんなサラを、年の離れた妹のようにかわいがり、ことあるごとに構ってやっていた。
当時はただの薄汚い貧民街の娘だったサラが、今や一人の女性として、一人前の技師として、自らの眼前に座っている。そのことに、アルベリクは静かな感動を覚えていた。
だが、気恥ずかしさからか、彼はその感情を表に出そうとせず、つっけんどんにこう答えたのだった。
「別に覚えていたわけではない。今回の仕事の候補者に、君の名前がたまたまあっただけだ」
「あ、そ」
──でも、私はずっと覚えていたわ。
ワイングラスの縁に唇を当てながら、彼女はたしかにそう呟いた。
「それで、また悪巧みでもしているの? マルブールの赤目烏さん」
「その名で呼ぶのはよせ」
「じゃあ、昔みたいにアルって呼んで良い?」
「好きにしろ。ただし、今日のような二人だけの時はな。表向きは、最近知り合った者同士という体でいてもらいたい」
「どういうこと?」
アルベリクは、『指人形』の概要を簡潔に説明した。説明のあいだ、サラは黙って彼の言葉に耳を傾けていた。話がすべて済むと、彼女は目を細め、大きく頷いた。
「なるほどね、要領はだいたいわかったわ。要するに、私にその『天才』さんの身代わりをしろってことね」
「引き受けてくれるか? 候補は他にもいるにはいるが、君が了承すればそれで決まりだ」
アルベリクは懐から小切手を取り出すと、それに数字を書き付けた。冊子から上の一枚を引きちぎり、机の上を滑らせる。
サラは自らの手元に滑り込んできた小切手を取り上げると、物珍しげにまじまじと見た。
額面一千万。契約金としてはなかなかの額である。アルベリクとしては、サラが諸手を挙げて喜ぶものとばかり思っていた。
だが、サラの反応は、芳しくなかった。彼女は表向きには、にっこりと笑顔を作り、感謝の言葉を口にこそした。しかし、心の底から喜んでいるようには、決して見えなかった。それどころか、彼女の瞳の中には、わずかに寂しげな色すら滲んでいた。
アルベリクは軽い落胆を覚えていた。恩を着せるつもりはないが、嘘でももう少し喜んでくれてもよかろうというのが、本音だったのだ。
サラは小切手でひらひらと顔を仰ぎながら、しばらくの間思案していたが、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべてこういった。
「……ね、ひとつお願いしてもいい?」
無論だ、と答えつつ、アルベリクの胸のうちには不満がくすぶっていた。一千万クルトの契約金ではまだ足りないというのだろうか。
サラはテーブルの上に見を乗り出すと、内緒の話をするかのごとく、小声で囁いた。
「いつかの約束、覚えてる? どっちかが成功して、お金持ちになったら、ルタリエのショコラをお腹いっぱい飲もうってやつ」
ルタリエのショコラは、皇都の菓子屋が売り出している砂糖入りの飲料だった。一般販売はされておらず、特定の高級料理店にのみ卸されている。
すわ、どんな無理難題かと身構えていたアルベリクは、脱力して背もたれに沈み込んだ。
「そんなことか。お安い御用だ。なんなら、今すぐ取り寄せさせよう」
言って、アルベリクはテーブルの上の鈴を鳴らした。甲高い音が部屋に響く。ややした後、部屋の分厚い扉を開けて、給仕がうやうやしく入ってきた。アルベリクが要望を伝えると、彼はすぐ用意できると言って戻っていった。
サラがアルベリクに苦笑を向ける。
「……お安い御用、か。ずいぶん変わったものね」
「お互い様だ」
給仕は間もなく戻ってきて、二人の手元に一つずつ、硝子の小瓶を配した。小瓶の中には、琥珀色の飲み物が、なみなみと注がれていた。
それを見て、サラがにわかに眼を輝かせた。
「本当に、ルタリエのショコラだわ……! 夢じゃないんだ……」
求めていた反応を得られて、ようやくアルベリクも溜飲を下げた。彼は満足げに眼を細めて、いかにも楽しそうに笑った。
「前言撤回だな。君はあの頃から変わっていない」
「しょうがないでしょ。これはお金がいくらあったって、飲めないのよ?」
「エピキュールでもクシェルでも、好きな店に行って頼めば良いじゃないか」
「そうはいかないわ。ルタリエのショコラは、特別なの。貴方と飲まなきゃ、だめなの」
サラは小瓶を手に取ると、目の高さまで持ち上げた。
「これで契約成立ね。私たちの新しい始まりに、乾杯しましょう」
アルベリクも、サラに倣って小瓶を手にとった。
「俺たちの新たな栄光に」
二人はめいめい小瓶の縁に唇をあてがい、その中身を飲み干した。口の中に、鼻の奥に、異国の地より運ばれた香気が広がってゆく。
僅かな苦味を含む香ばしい甘味。その中に、アルベリクは来し方行く末のことを思い連ねていた。